2013.08.09

『風立ちぬ』を観てきた

・今日は宮崎駿の『風立ちぬ』を観てきた。なにについて語るよりもまず、一番に印象に残ったのは、主人公である堀越二郎の美しさだ。眼差しが美しく、語る言葉が美しく、佇まいが美しく、そして感性が美しい。その美しさは他者を圧倒するようなものではなくて、理性と克己によって抑制された美しさで、風雨にさらされた木々のような静けさをまとっている。彼の美しさは、ちょっと感動的なものがある。堀越二郎と言う主人公を徹底して描くことが目的の映画なのだろう、と思った。

・『パンツァークラウンフェイゼスⅢ』を読んだ。物語のテーマ的なものをジャレッドが語り尽くすあたりはすごく良かったのだが、最後の方で物語が個人的なものに収束してしまったような感じ。個人的なものが悪いというわけではないのだが、主人公たちの選択に飛躍が足りないっていうか。彼らの成長が予測の範疇でおさまってしまった感じ。すごく惜しいなあと思うのだけど、しかし、そこに至るまでは物凄く面白かったし、冲方丁フォロワーとしては十分な可能性を見せてもらったと思う。

・なんかすげー疲れた。暑くてあんまり眠れてないせいだな。夏バテかも。

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2009.10.05

『テイルズ オブ ヴェスペリア 〜 The First Strike 〜』

まあ見てきたんですよ『テイルズ オブ ヴェスペリア 〜 The First Strike 〜』。端的に言ってしまうと、純粋な映画としては、まあ水準。TOVファン向けコンテンツとしては水準以上っつーところかな。個人的には、ゲームのアニメ化の場合、ゲーム内設定をどれだけ上手くアニメに溶け込ませるかと言うところが重要になってくると思うのだけど、その辺は上手くやっていたんじゃないかなあ。ゲーム中の必殺技とかをアニメでやられても困るしね。また原作につながるいくつかのくすぐりも用意されていて、ファンには嬉しい使用になっている。原作キャラもサービス登場をしていたり、ユーリのブラスティアの由来とか。ただ、いくつか設定上、矛盾が生じているような気もするのだが(ラピードってユーリとフレンで育てたんじゃなかったっけ。あとリタの年齢がおかしい。ラピードのことを考えれば本編より3年以上は年は前の話なので、その場合はリタは11~12才のはずだが…)、まあパラレルワールドか気のせいってことでスルーした方がよさそう。

ただ、一作の映画としては、まあ普通かなあ。アクションはところどころで気持ちいいのだが、作品の軸として、ユーリとフレンのどっちが主人公なのかわからなくて、ブレてしまっているような感じ。視点はユーリの方が重点的なんだけど、物語的な主人公はフレンなんだよな。フレンが自分の父親に対するわだかまりを、ナイレン隊長の行為を通じて解いて行くという物語になっていて、完全にこれはフレンが主役だろう。一方ユーリは活躍そのものはしているんだけど、成長する余地がないというか…。いろいろ匂わされていた騎士団退団の経緯も、結局、肌に合わなくてやめた以上のものではなかったしなー。

まああえて読むとすれば、ユーリは、ランバートを救えなかった自分の無力さを痛感した際に、少女から感謝の言葉を受けたことで、自分の本当にやりたいことは、”国”とかそういう抽象的なものではなく、”目の前の誰か”こそを助けたいのだと言うことを実感した、と言うことなんだろうけどな。でもちょっと言葉が足りないよなー(その分フレンの葛藤にも力が注がれているけど、中途半端な感じだ)。

ただ、テイルズ映画としては退屈とは無縁であるので、ファンは観て損はないだろうと思われます。

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2009.07.23

今更ながら『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』について書いてみる

とくに自分の中に考えがまとまったわけではないのだが、今を逃すと書く機会を失ってしまいそうな危機感を覚えたので書く。考えについては書きながらまとめる感じで。

完全無比のエンターテインメントだった、と言う点は特筆に値すると思う。旧世紀版のエヴァと言うのは、当初は気弱な主人公だったシンジが少しずつ成長していくと言う話にみせかけて、それらすべてが崩壊していく負のカタルシスに満ち溢れていた作品だったが、今回はまったく違っていた。単純に明るい作品になったというわけではない。なるべくしてなった、と言うか、旧世紀のキャラクターが大きく変わったわけではないと思う。ただ、彼ら、彼女らを取り巻く状況にやや変化があったような印象を受けるのだ。

ちょっと先走りすぎたか。まず旧世紀版のエヴァについては、とにかくあれば庵野監督の怨念と言うか、呪いのようなものだと解釈している。自分の作品を勝手気ままに消費し、ズタボロにしていく”オタク”に対する強烈な怒り、憎悪と言うべきものが、旧世紀版にはあった。とくにそれは旧劇場版(『THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』EOEと略す)で顕著だった。その圧倒的憎悪をオタクは叩き込まれ、はっきり言って、当時のオタクは狂乱状態に陥ったと言っていい。打たれ弱いのは今も昔も変わらないオタクの特性だ。その結果、なんとかして作品を”解釈”しようとするさまざまな意見が百出したのは、皮肉なことと言う他ない。庵野監督の意図を超えて、エヴァの呪いは脆弱なオタクのトラウマとなってしまったのだ(もっともどこまでが庵野監督の意図だったのかは想像の域を超えることは出来ないが)。無論、その中には庵野監督のメッセージを正しく受け取り、オタクをやめる(少なくとも健全化する)人々もいたことであろうが、個人的な感覚としては、それでオタクをやめることは出来なかった人が多かったように思う(個人的には、エヴァは自分のオタクとしてのあり方を考えさせてくれる作品であったので、その意味では有益であった)。

それに対して、新劇場版において、庵野監督は自らがかけたオタクに対する呪縛を、呪いを解きにかかっているのではないか、と感じるのである。あるいは作品そのものに対する救済かもしれないのだが、実質的にはイコールであると思う。エヴァと言う作品そのものを粉々に粉砕し、踏みにじったのが庵野監督自身だとすれば、それを修復することもまた庵野監督にしかできない。14年を過ぎて、庵野監督は自らが破壊したものの再構築を行おうとしているのではないかと思うのだ。それは、14年前に呪いをかけられたオタクに対する救済でもある。冷たい現実を生きろ!と突き放されたEOEに対して、オタクとして生きていく自分を肯定してくれる作品になるのではないか。まあ、これまた個人的な意見になるが庵野監督は別にオタクを救済しようなんて露ほども思っていないと思うんだけど。あくまでもエヴァと言う作品を救おうとしているだけに過ぎないんじゃないかな。ただ、それがかつてのオタクを救うことにもつながる。以前、全否定されたオタクはあくまでも一側面でしかなくて、オタクとしての在り方そのものは否定されるものではないのだと言うイメージを、僕は破に持ったのだった。

なんかちょっと脱線したような気もするが、それがシンジたちの(周囲の状況の)変化につながっているのではないか、と思うのだ。破においては、シンジを初めとしてアスカもレイも、ミサトもゲンドウでさえも、以前とは異なる反応をしているのではなく、それはキャラがブレたものではなく、単純に状況が違うということが言える。例えばシンジは序においてほんのわずかに”自分で覚悟して行動する”ことが出来た実感ゆえか、他者に対して本当にすこしだけど積極的に行動できるようになっている。それに応じてレイがシンジに対して気持ちを開く度合いを大きくなり、その後の行動につながっていく。アスカは以前より”個”として生きようとする側面がクローズアップされることにより(加持との関係はオミットされているようだ)、他者とかかわりを持って生きていくシンジに対して、心を開いていくようになった。ミサトも私的な復讐と言うよりも、人類の存亡をかけて行動する指揮官として、そしてシンジに対する家族的な側面が強くなり、より”シンジ側”の人間である描写が増えていた(もちろん基本的な部分でシンジに己の希望を押し付けていたりしているところはあるので、キャラはブレていない)。ゲンドウは、EOEにてすでに子供に対してどう扱って良いかわからないと言うマダオ(まるで、ダメな、おとうさん)であることはわかっているので、今回のちょっと歩み寄っているどころか、シンジに対してちょっと罪悪感めいた(心理的に気後れしている)描写もあって、非常にわかりやすかった。

なんかだらだら書いてしまったが、ようするにキャラが変わったのではなく、状況が少しだけ変化し、それによるキャラの反応が変わってきたのではないか、と思えるのだ。シンジは別に逃げ出しているわけでなく、ただ自分の嫌なことをしたくないという頑固さが根底にある(レイを助けるために駆け出すのだって、目の前の大切な人を失うという”嫌なこと”を味わいたくないという思いがエヴァには乗らないという思いを上回ったに過ぎない)ことがわかることからも言える。要するに今までのエヴァを否定するのではなく新たに”肯定しなおす”、と言うことが『破』においては言えると思うのだった。おそらく、続編のQにおいても、決して単純な憎悪に彩られたEOEのようにはならないだろう。もしかしたら予想外の悲劇が襲うかもしれないが、それは確かな肯定の元に行われるものであろう、と思うのだった。単純な”否定”を、すでに庵野監督は乗り越えている。それだけで終わるものは作らないであろうと言う信頼を感じさえするのだった。

なんか全然まとまってないけど、まあいいや。

以下、観ながら思った断片。ネタバレだらけなのでご注意を。

・エヴァンゲリオン仮設5号機の出オチっぷりには吹いた。

・マリのキャラクターは、結局いろいろ思い悩むエヴァキャラとしては、ありえないぐらい直感的かつ快楽的。なにより、エヴァにおいて、大人の世界と子供の世界は厳然として区別されており、子供は大人に勝てないという世界観が存在しているのだが、マリはまったくその世界観を打ち壊すものだ。自分の目的のために大人を利用することも出来る。これは絶対庵野監督の分身じゃねーよな。どこから来たんだ?フリクリ?

・シンちゃんの主夫っぷりは異常。この主夫能力でレイもアスカもめろめろにしてしまうシンちゃんはすげえぜ。これも旧世紀版との違いだよな。自活能力があるというか。

・ゲンドウは本当にマダオだな。ゲンドウのことが理解出来てしまうとは、やはり自分も年をとったのか…。まあ、ちゃんと食事会に参加しようと思ったことは確かな進歩だ。

・アスカはエロかった。うっせーな文句あるか。

・アスカの「自分一人で生きていかなければならないの」と言うのは、明らかに孤独の裏返しだよね。本当に自立している存在はそんなことは考えません。マリがいい例だ。だから、自分ひとりでは生きていけないということを感じたアスカが、急速にシンジに心を開いていくのは、前述の主夫能力も含めて自明だよな。頼っても大丈夫な感じなんだもん。

・レイのぽかぽかは…うん、まあありだよね。自分の意思が確かに生まれている。人形ではないという確かな証。リツコさんにはそっこーで否定されてたけど。

・しかし、リツコさんは出番がねえなあ。完全に驚き役と解説役じゃねえか。ミサトの同年代の関係という役目も、加持にとられてしまった感じもあるしなあ。

・加持は、この作品においては本当に真面目に大人として、子供に何かを残そうとしている部分が強調されてた。自分のことしか考えないおっさんたちとはえらい違いだ。

・アスカ→3号機+ダミーシステムによる捕食展開は初回時は普通に驚愕。それまでの死亡フラグから予測はついていたが、BGMのキ○ガイぶりも含めてびっくり。一緒に観ていた友人の、「おいおいマジかよ…」という言葉が妙に耳に残った。呆気にとられるよな。

・ダミーシステム使用時のゲンドウの表情に視聴3回目でようやく意識が向いた。ニヤリ、という表情なんだけど、何と言うか虚無的と言うか、なにかを諦めた感じの笑み。これでシンジとの関係が徹底的に断絶するという自嘲の笑みか…。

・3号機事件、ここでミサトさんがいないのは致命的だったよなあ。ミサトがいればシンジを上手く乗せて、”アスカを助ける”と言う選択肢を選ばせることも可能だったろうに。マダオは自分の計画が一番だからな。冒険はしない。

・シンジの反乱のあと、ゲンドウがシンジに投げかける「大人になれ」という台詞も、一応、ゲンドウなりに真面目な言葉なんだろうな。相変わらず子供とのコミュのダメなマダオらしい。

・シンジのエヴァに乗らないという言葉には、大人として人類の未来を考えることが出来ない、自分の大切なものを傷つけるくらいならそんな世界は知ったことではないと言う短絡的なものだけど、それは逆に健全な少年らしさを感じるなあ。大人と子供の断絶といってしまえばそれまでだけど、それを理解出来てないのがマダオのダメなところだよな(もはや完全にマダオ呼ばわり)。

・返す返すもここでミサトがいれば…。ミサトが戻ってきたときには、完全に心を閉ざし、どんな言葉も受け付けないシンジがいるだけだもんな。それでもその扉を開こうとするミサトは、ちゃんとシンジと向き合おうとしている。

ゼルエルさんこと第10使徒。マリ=2号機のバトルは単純にかっこいい。マリが楽しそうなのがいいよね。

・つうか、本当にマリは異物だなー。物語にはまったく関わってこない。が、物語を引っ掻き回す。

・シンジがもう一度エヴァに乗ることを決意するシーンも大分解釈が違うよな。これは目の前でレイが捕食されることにより、アスカと同じことを繰り返してしまうことへの拒否感の表れだろう。旧世紀版では、シンジに対して明確な方向性は存在しなかった。とにかくがんばる以上の物ではなかった(一話の逃げちゃダメだと本質的には同じか)。暴走の展開の違いもそこに起因するのではないかなー。

・ここでもマリはグッジョブ。絶対にエヴァに乗らないと心を閉ざしていたシンジを、持ち前の無神経さでもって無理矢理引っ張り出すのは異物である彼女にしか出来ない。換言すれば”庵野監督の演出意図を超えることが彼女の役目”なんだろうなーとか(彼女には彼の心を閉ざしているメタファーなんぞ気にもかけない。ミサトが扉の外に出たシンジの手を捕まえられなかったのと対照的)。

・その結果、シンジは自分がエヴァに乗らなかったことによる最悪の結果を見せ付けられることになる。アスカの時と同様に。だけど、もしかしたらまだ間に合うかもしれない、というただそれだけの違いが、彼を走らせた…と思うとぐっと来ますねー。

・シンジが「エヴァに乗せてください!」というシーンで、初めてゲンドウが怯むようなカットがある。この瞬間、常に上位に立っていたゲンドウがシンジと同じ地平に降りてきたという意味であり、対等の男として向き合ったということを意味するのではないか。

・その後、自身も返り血で血まみれになりながらも、一時も目をそらさずにシンジの戦いを見据えるゲンドウとか見てるともうね…。二人の間にはもしかしたら和解の可能性があるのではないか、とか思うとすごい泣けてくるよ。感動したよ。

・ゼルエルとのバトル編。起動停止した初号機の覚醒シーンの差異も、シンジの明確な意思の方向性の問題なんじゃねえかなあ。

・しかし、たしかにこの瞬間のシンジは天元突破しておる。螺旋力は世界を変える力!

・炯炯と光る目を見開くシンジのシーンは、確かにちょっとゾクっとした。初見のときは何も考えられなくなってたな。

・リツコさん。人で無くなる無くなるうるせーよ。螺旋力は人間を超える力!

・ミサトさんがここでシンジを鼓舞したのは、アレだよな。「オレが信じるお前でもない。お前が信じるお前を信じろ!」ってやつ。他人のことなんてどうでもいい。ただ、自分の望みを叶えろ!それは誰にも否定させやしない!

・ミサトさんの発言は、その意味では非常にギリギリ。サードインパクトを起こさせないという強い使命感で維持されているはずのネルフと言う組織(そしてそこに生きる人々)の存在意義を否定しかねない。

・けど、それが全体よりも個人を優先するというわけではなく、全体を救うために個人を犠牲にする必要なんてない。個人がなければ世界とつながることさえ出来ない、と言うことを語っているようで、ああ、本当に庵野監督は”その先”に進むつもりなんだ…と思った。

・カヲルくんの言うことは相変わらずさっぱりわからんが、まあいつものことか。

・Qの予告編。アスカが出てきた瞬間は、あれーもう出しちゃうのー?と思ったが、アスカ好きの人があのままにされたら発狂するだろうから、あのタイミングがベストなのかもな。

・とにかくとても面白かった。

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2009.05.25

『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』を観てきた

・土曜日は『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』を鑑賞してきたのだった。

・TVシリーズの記憶はすでに忘却の彼方に捨て去ってきたので(本気で内容を忘れてた。キャラの名前と顔がほとんど一致しなかった)、今回の”再構築”だかなんだかも気にせず観れた。

・こっぱずかしいボーイミーツガールでにやにやする映画として大変よく出来ていたのだが、物語のわけのわからなさも相当なものだった。いかん、物語の情報量に追いつけていない。というか、神話と現実をリンクさせるという発想の根本が理解できん。神話とはいったいなんの謂いだ…?

・どうも作中での定義がはっきりしなかったので自分なりに考えてみると、夢とか理想とか、あるいはもっと具体的な理想郷を意味するのかなあ、とか。みんなすんなりと理解しているのだろうか…。だとすると自分のオタクとしての劣化は甚だしいことになる…っ。まあオタクアイデンティティなどにたいした価値はないのでスルーすることにする。

・まあ、幾度か物語を反芻してなんとなくわかってきたのだが、イマージュと言うのは、人類を侵略する存在などは無くて、ただ己が自身を蝕む人間の業そのものなわけですよね(鏡と言う表現がどこかに出てた)。それを、お互いを大切に思う少年少女の恋と夢が、破滅に瀕した人類の業を止揚し、新しい世界を現出させたという話、だと読んだ。そこに、夢も未来も奪われた者たちが、いかにして絶望に抗うかと言う話や、神話の現出の語り部として生きることを選択した女性の話とか、いくつかのラインが、こっぱずかしいボーイミーツガールのラインを主軸としてまわっている感じがする。

・ようするに、なんか物語が並列している感じなんだよなー。そこんところが、面白いなと思った。

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2009.04.03

クソ映画好きには必見

『ドラゴンボール・エヴォリューション』を観てきたのだった。

見る前から非難轟々たる状況から、どんだけひどい映画なのかと思って観に行ったら、存外まともなハリウッド映画だった。もっとも、ドラゴンボールをまともなハリウッド映画に落とし込んだことで形容しがたい代物に出来上がっているのだが…まあC級映画好きにとってはむしろ長所と言えるのかも知れない。少なくとも、僕は観ている最中笑いが止まらなかった。なにしろあらゆるシーンがツッコミどころとして機能しているというある意味ものすごい映画なのだ。前半のアメリカンハイスクール白書と、”気”などのに代表されるドラゴンボール的要素のミスマッチ感ときたら本当に涙が出てくるくらいに面白かった。アメリカンハイスクールではとび蹴りを教えているのか、すげーな!とか、明らかに裕福なお嬢様が「わたし実は戦士なの」とか言い出すわ、あらゆるパワーは”気”で説明されるわ、本当になんなの?もう大爆笑だったんだけど、映画館の中だったので声を出せずに悶え苦しんでいた。館内はわりと静かだったんだけど、みんな笑えなかったのかなあ。おかしいなあ。まあドラマ部分は極めてどうでも良かったので2度見るような映画じゃないな。

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2009.02.13

『太陽を盗んだ男』を観た

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友人がDVDを持ってきた『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督)を観た。まったくありがたいことである。

・これはいい感じに気が狂った映画だなー。テンションがやたらと高くて面白かった。

・原爆を作ることが先行して、原爆を使ってなにをするのか全然考えていない本末転倒している主人公がかわいい。「要求はなんだ」と問われてちょっと言葉に詰まり「ナイターを延長させろ」と苦し紛れにいっちゃうところなんか、沢田研二の演技もあいまってとってもキュート。

・菅原文太があまりに菅原文太であり、イカス。今にもカチコミをかけそうな勢いだ。でも警部なんだよなー。こんな警官存在するわけねーだろ、と言うのは禁句だな。しっかし、銃でいくら撃たれてもひるまないあたり、どんだけ不死身なのかと。倒しても倒しても復活してくる文太が恐怖だった。こんな警官に追われたらすぐに自首したくなる。

・菅原文太に顕著だったけど、アクションシーンの荒唐無稽っぷりはすごかった。文太がターミネーターすぎる。おまえ何十メートル上空からダイブしているんだ。何発銃弾を受けているんだ。すごすぎる。カーチェイスにおける車も盛大なぶっこわしぶりが素晴らしい。日本の映画でここまで盛大に車をぶっ壊すのがあったんだなー。

・沢田研二の原爆に対する姿勢はアンビバレンツなものがある。苦労してプルトニウムを盗み(この過程はかなりすごい。どこの未来基地だあの発電所)原爆を作成するのだが、原爆そのものに対してはすごくぞんざいな扱いをしている。その辺に転がしていたり、おもちゃにしていたり。思うに、彼にとって原爆とは力(どういった力か?停滞した現状を打破するための力か)の象徴であり、彼が欲するのはまさに力としての原爆。ゆえに原爆そのものには興味が無いのかもしれない。そのくせ、その力でなにがしたいというものはなく、単に力を所有することに意味があるように思える。

・なんか上手く言えない。単純に考えれば、沢田研二の周囲にある停滞感を打破するための鍵として原爆を求めている、と考えてもいいと思うけど(そこに具体性はなく、ただ現状を変えたいと言う欲求だけがある)、その解釈でいいのかどうか疑問が残る…。まあそのあたりは本人も気がついていない感覚と言うことでいいのだろうな。

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2008.09.08

『ダークナイト』を観て来た

・バットマンの新作『ダークナイト』を観た。

・こんな悪意と不安と緊張に満ちたアメコミ映画を初めて観た気がする。

・160分という長丁場ながら、ほとんど弛緩するところが無いのが凄いのだが、何より、「アメリカ、一体どうしちゃったの?」感がバリバリ。今のアメリカは、もはや”正義が勝つ”と言うことが、幻想でしかないということを知ってしまったとしか思えない。

・正確には、幻想(正義は勝つ)と現実(しばしば正義は敗北し、不条理がこの世を支配する)のせめぎあいが、この作品には満ち溢れていると言えようか。

・バットマンがいかに全力でジョーカーに立ち向かっても、この世の悪の象徴とも言えるジョーカーは、まともに勝負さえしてくれない。ジョーカーは、バットマンとは次元の違う場所に泰然としてあり、たとえ彼を捕縛しようとも、その悪意は逃れることが出来ない。この世の悪とは目に見えないものであり、バットマンの力は、悪そのものには手が届かないのだ。

以下、自分が面白かったところをメモ。

・バットマンもジョーカーがフリークス(怪物)として描かれているところが、あまりにも悲壮だった。フランケンシュタインズモンスターの悲哀にも似た、哀切さを感じる。滅びの美学とでも言うものか。

・民主主義に対する深い疑義が差し挟まれているところが興味深かった。ネタバレになるので詳しくは書けないのだが、市民の多数決で決められたことが、しかし、市民の暗黙の内に破り捨てられる。しかし、それこそが本当に正しいことだったのである。これはちょっとびっくりしてしまった。

・正義の味方の崩壊が描かれていることが圧巻だった。正義を為すためには積極的に悪を為さねばならぬ矛盾。人を救うためには人を殺さなくてはならない矛盾。何より、正義を為すためには、正義とは幻想であることを受け入れなければならないという矛盾。バットマンは最後までその矛盾に苦しめられ、最後にある一つの決断を下す。ここが、もう、なんと言うか言葉にならない。

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2008.09.02

『バットマン・ビギンズ』を観た

51hwqqtbbvl 『バットマン・ダークナイト』が傑作らしいという噂を聞いたので、予習の意味を兼ねて『バットマン・ビギンズ』を観た。面白かったのだが、やや溜めに欠ける印象があった。一場面が短く、頻繁に切り替わるので、非常に慌しい印象を受けてしまったのだが、これは原作物には不可避な問題だろうか。つまり、原作のエピソードを少しでも多く入れようとして、ぶつ切りになってしまっているのだろう。そのように、大量のエピソードが投入されているにもかかわらず、映画という枠組みがある以上二時間強で収めねばならないための結果、としてスピーディーに物語が流れすぎてしまうことになっているように思った。

ところで、主演がクリスチャン・ベールであるという先入観が邪魔しているのか、格闘シーンがあまりにもガン=カタ過ぎる。格闘シーンでも、バットマンが圧倒的な力で叩きのめすわけではなく、敵な集団であれば分断し各個撃破、または密集した状況下では懐に飛び込んで乱戦に持ち込むなど(ここが非常にガン=カタくさい)、戦術を駆使しているところが奇妙にリアルで面白かった。

この”リアルさ”というのは映画全般にも言えて、まあ、チベットの奥地に忍者軍団がいるというのはさすがに無いだろ、というツッコミ処はあるものの、徹底してシリアスに、アメコミの荒唐無稽さを廃し、犯罪への恐怖と怒りの物語と言う側面を強調しているように思う。なんというかバットマンを”スーパーヒーロー”にはしない、ただ犯罪を憎むただの男というところを強調しているように感じるのだった。それゆえに、彼の意思が尊いものとなるような気がする。

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2008.01.27

『ほえる犬は噛まない』を観た。

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『グエムル』が超面白かったので同じポン・ジュノ監督の『ほえる犬は噛まない』を観てみた。これもけっこう面白い。

ペ・ドゥナが地味でかわいいなあ、とか戯言は置いておくとして。

とあるマンションの敷地内だけで話が転がっていくのが面白かった。中心となるのは、教授になりたいのに処世下手のために教授になれず、日々鬱屈している男と、そのマンションの事務員をしている女の子なんだけど、その他にも、ちょっと(と言うかかなり)変わった個性的な登場人物たちが、いろいろ動き回って事態が変わっていってしまう展開が小気味良い。

画面の切り替わりがとても気持ちよいのだけど、『グエムル』のことで存分に発揮していたギャグなのか真面目なのか分からない、とぼけた演出もいい。女の子が、クライマックスで犬殺害犯(模倣犯の方)を発見して、犯人とチェイスするシーンなんて、緊迫した場面なのに、どこかおかしい。犯人も「一緒に食べよう?」なんて言ってんじゃねえよ!

もちろん、そういう笑えたり、サスペンスフルな展開も上手いのだけど、一方ですごく繊細な描写が非常に上手い。ペ・ドゥナとその親友の太った女の子(名前が出てこない…)のやりとりなんて、すごく描写が細かくて感動してしまうのだけど、僕が本当に監督すげーと思うのは、一連の事件の犯人であるイ・ソンジェについての描写が深いこと。

自己憐憫に支配されて周囲すべてに憤りを感じていた男が、単純に己が捕らえていた世界が、実は彼が思っているほど人々は単純には生きておらず、色々なものを背負っている事を知っていくことで、少しずつ自分自身の愚かさに気がついていく過程がすごく丁寧だ。罪の意識に怯え、自分の愚かさに打ちのめされた彼が、最後に自らの罪をペ・ドゥナに告白しようしたシーンのやりとりが素晴らしすぎる。

ここで、イ・ソンジェはペ・ドゥナにすべてを明かそうとするのだけど、しかし、ペ・ドゥナはいつまで経っても彼の罪に気がつかない、ように見える。この場面の中で、ペ・ドゥナが本当に気がついていなかったのか、あるいは気がついていたけど追求をしなかったのか、それすらも分からないまま、イ・ソンジェは己の罪の許しを得る機会を失ってしまう。

イ・ソンジェは、そのあと何やかやで教授になれるのだけど、結果的に、彼はその罪を背負わされたまま、どこか呆然と景色を眺める場面に移る。そしてゆっくりとうつむいて行く姿を持ってきたラストシーンは、マジで鳥肌ものだった。彼に背負わされた罪は、生涯ついて回る。そのことに打ちのめされた男の姿なのだ。

以下、感想とはあまり関係の無いこと。

・韓国って町並みとかは日本と全然かわんねーんだけど、ところどころ違和感つーか、違うんだよな。街中で消毒剤を撒くとか、何だよ!そんなに不潔なのかよ!

・イ・ソンジェと警備員さんの会話で、ペット禁止のマンションで、好き放題にペットを飼っているおばあさんを観て、「韓国人は規則も守らないからねえ」みたいな会話をしていて笑った。韓国人自身もそう思っているんだ…。

・つーか、実はポン・ジュノ監督って、韓国(人)嫌いじゃね?韓国の風土とか国民性をあげつらう毒がそこかしこに見受けられるんですが…。

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2008.01.16

『グエムル-漢江の怪物』を観た。

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グエムル-漢江の怪物』(監督:ポン・ジュノ)をDVDで観た。

お…お…面白れぇぇぇぇぇええええぇえ!!!!!なんだこれは!!激烈に面白れえ!!神か!!ポン・ジュノ監督は神なのか!!面白いという話をちらほら聞いていたので興味を持って、何の気なしに観てみたんだけど、これは韓国映画として、怪獣映画としてと言うよりも、普通に映画として傑作であると断言出来る!うげええええ本当になんだこりゃー!!とりあえずだなー。おめーら嫌韓流とかファビよるとかクソの役にも立たない言説をのたまう前にこの映画を観ようぜ。とにかく映画と言うものは、文化も歴史も超越出来るという確かな証左がここにはあるのだ!観てみるとびっくりするよ?と言うかオレがびっくりした!

僕はこのポン・ジュノ監督の映画を観たことは無かったんだけど…いや本当にちょっとこれ凄くないか?物語そのものも凄いんだけど、それ以前の段階として映像として凄い。いや、別にハリウッド的にCGバリバリで金のかかった感じのスペクタクルじゃないんだけど(怪物そのもののCGはハリウッドに以来したらしいけど)、それ以外の部分のカットつーかショットが凄い。まあ僕は映画には素人ではあるので(そんなにたくさん観ているわけでもないし)的外れな事を言っているかもしれないんだけど(でも書く)、冒頭の始まりの部分で、自殺しようとしている男が川面を眺めてつぶやくシーンとか、雨が水面に落ちる流れ、男の(不精髭だらけの汚らしさも含めて)頬を伝う雨の動的な美しさがあり、開始10分でこの映画は傑作である事を確信できる。恐ろしいことに、この作品には無駄と呼べるものが一切なく、あらゆるカットが綿密に計算された緊張感の上に成り立っている。なんと言ったらいいのか分からないのだがフィクション的なわざとらしさが一切感じられないのだ。主人公のソン・ガンポのリアルな駄目大人ぶりも異常にリアルだし(携帯コンロの使い方ぐらい知っとけよ!)ソン・ガンポの弟を演じるパク・ヘイルのいわゆる日本人が想像するファビよっている韓国人的な造詣(文句ばかり言って代案も出さずにキレるだけ)と、物語後半におけるプロフェッショナル的なかっこ良さ(でもちょっとバカ)のギャップとか、ペ・ドゥナは美人だなあとか(い、いや、ポン・ジュノが綺麗に撮っているなあってことなんだからね!?)とか、ペ・ドゥナがアーチェリーを撃つ一連の流れがまさしく競技者の持つ流麗さに満ちているとか、ええと、一つ一つ上げているとキリがないんだけど、とにかく映像に嘘が無いのだ。一つ一つ(それこそ映像から物語に至るまで)、そこには過剰なものが何一つ無く、反米、あるいは反日的な思想も、社会風刺的な側面もお涙頂戴の家族愛にも、娯楽的なエンターテインメントにも振れず、ギリギリのバランス感覚でラストまで一直線のハイテンションで突き進む。時折含まれる(ブラックな)笑いも良い意味でガス抜きになっていて中だるみとは無縁だ。もうとにかく細かいところを語りだすと止まらなくなってしまうぐらいに素晴らしい映画だったので、怪獣映画好きは絶対に観ることをオススメすると同時に、怪獣映画がそれほど好きではない人も是非観て欲しいと思う。半端にお金がかかった作品では味わえない感動がありました。

追記。
グエムルの感想を眺めていたのだけど、これが評判が悪い意見がちらほらある。評判が悪いだけなら許せるんだけど(受け取り方は人それぞれだし)、ろくに映画を観ていないというか、明らかに曲解しようとしている人がいることに非常にがっかりする。批評者のモラルの低さ、あるいは心の貧しさ明らかになっているだけだって言うのに…。一番ひどいと思ったのは超映画批評のグエムル評。一見褒めつつとことん貶しまくるという一番性質の悪い文章なんだけど、ツッコミどころはこの批評そのものだっつーの。およそまともに映画を観ていれば出てくるはずの無い発言が多くて目を覆いたくなる。『中盤以降、役者の人件費が尽きたかのように、軍隊警察がさっぱり町から姿を消すのも笑えるし、そもそも怪物がなぜ娘だけは食わずに連れ去ったのかわからないあたりも、ツッコミ所のひとつ。』とか書いているけど、娘だけではなく他の人たちも食わずに巣に持って帰っていますが何か?と言う話。仮にも批評と言っているのにこれじゃあなあ…。他の批評も信用出来なくなるよ。

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