『長いお別れ』
『長いお別れ』(レイモンド・チャンドラー/ハヤカワ文庫HM)
自分は昔からチャンドラー系のハードボイルド小説が大好きで、例えば『名無しの探偵』シリーズとか原寮の作品とか、他にもいろいろを貪るように読んでいた時期があった。良心など何の役にも立たない都会の荒野で、それでも正義や善というもの火を絶やさぬようにしようとする、ある種の儚さにも似たロマンティズムは、影響を受けやすい中二病患者のボンクラ魂にクリーンヒットだったのである。ぶっちゃけた話、自分の中二病的人格形成にはその手のハードボイルド小説が多大な影響を与えており、今でも『正しさってなんだ……?』とか真面目な顔で考え込んでしまう大人になってしまったのは、明らかにこのあたりに原因がありそうである、が、それは別にどうでも良い。
そんなハードボイルド信者であった自分であるのだけれど、実はチャンドラーはほとんど読んだことがないのである。これは自分でもびっくりで、気が付いた時は「マジで?」と口走ってしまったのだが、マジなのである。なんかいつの間にか読んでいたような気がしていたんだよなあ……。余談だが、本をいろいろごちゃごちゃと読んでいるとこういうことはしょっちゅうあって、あちこちに引用されている情報を勝手に統合してしまうことで、まるで読んでしまったような印象を脳内に作り出してしまうのである。なのでなにを読んだかの記録をつけておくのは本当に大事なんですよね、と読書メーターの意義を述べさせていただきました。
それにしても、まあ読む前からわかっていたことだけど、この『長いお別れ』はマジで傑作ですね!もちろん自分にはハードボイルド贔屓を相当にあるので、大抵のハードボイルド小説は面白く感じてしまう安上がりな脳を持っているのだけど、それにしたって面白すぎた。
冒頭にて酔っ払いの男、テリー・レノックス(今作における重要人物)と出会う場面からして、実にロマンとリリシズムに溢れている。テリーは前後不覚にまで酔い潰れていて、一緒にいる女からさえも愛想をつかされて、道端に放置されてしまう。道行くほとんどの人々はそれを無視する中で、マーロウだけが彼に手を貸して、介抱する。意識を取り戻したテリーと別れてから、また別の場所で偶然に出会ったことで、彼との奇妙な友情が始まっていく。
二度目にテリーと出会った時、彼はまた泥酔して、警官に留置されようとしていた。マーロウは咄嗟に(ただ一度だけ出会った男のために)芝居をして、彼をタクシーに乗せようとする。タクシーの運転手は泥酔したテリーに難色を示すが、マーロウはチップを弾んで、頼み込む。追いかけて来た警官の尋問をどうにか掻い潜り、二人はタクシーで出発する。マーロウたちは数ブロック離れた場所でタクシーを降りる。タクシーに乗るのは、ただ警官から離れるためだけの口実だったからだ。運転手はむずかしい顔をして、受け取った金を返す。彼は「昔、自分が往来にぶっ倒れた時、誰も助けてくれなかった」と言った。
このタクシーの運転手は、別にとりわけ善人にあったわけではない。厄介事に巻き込まれたくないと、一度はテリーの乗車を断った男だ。そもそも誰かが倒れていても、助けない側の人間であっただろう。しかし、それは悪人であるというわけではなく、そして助けられないことに無頓着であったわけでもない。誰にも助けてもらえなかった時、孤独と悲哀を感じただろう。誰にも救われない気持ちを抱えていたに違いない。だが、この世には、そうした人間に手を差し伸べる善意が存在するのだと言う事を、マーロウは示した。それは、おそらく、過去に見捨てられた運転手そのものに差しのべられたものと同じなのだ。あの時の孤独が救われたようなものなのだ。だから、運転手はむしろマーロウに礼を言うような言葉をかける。善意というものがこの世にあることを教えてくれて感謝する、と言うような。
フィリップ・マーロウは口が悪くて依怙地でわりと偏見もあるけれど、普遍的な”正しさ”というものを真面目に考えていて、その正しさは常に弱い者への優しさに基づいているのが実にヒーロー的である。もっとも本人はそういう言葉を嫌っているだろうのだろうけど。彼はもっと素朴な感情で動いているように思えるのだ。
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