2014.05.05

『長いお別れ』

『長いお別れ』(レイモンド・チャンドラー/ハヤカワ文庫HM)

自分は昔からチャンドラー系のハードボイルド小説が大好きで、例えば『名無しの探偵』シリーズとか原寮の作品とか、他にもいろいろを貪るように読んでいた時期があった。良心など何の役にも立たない都会の荒野で、それでも正義や善というもの火を絶やさぬようにしようとする、ある種の儚さにも似たロマンティズムは、影響を受けやすい中二病患者のボンクラ魂にクリーンヒットだったのである。ぶっちゃけた話、自分の中二病的人格形成にはその手のハードボイルド小説が多大な影響を与えており、今でも『正しさってなんだ……?』とか真面目な顔で考え込んでしまう大人になってしまったのは、明らかにこのあたりに原因がありそうである、が、それは別にどうでも良い。

そんなハードボイルド信者であった自分であるのだけれど、実はチャンドラーはほとんど読んだことがないのである。これは自分でもびっくりで、気が付いた時は「マジで?」と口走ってしまったのだが、マジなのである。なんかいつの間にか読んでいたような気がしていたんだよなあ……。余談だが、本をいろいろごちゃごちゃと読んでいるとこういうことはしょっちゅうあって、あちこちに引用されている情報を勝手に統合してしまうことで、まるで読んでしまったような印象を脳内に作り出してしまうのである。なのでなにを読んだかの記録をつけておくのは本当に大事なんですよね、と読書メーターの意義を述べさせていただきました。

それにしても、まあ読む前からわかっていたことだけど、この『長いお別れ』はマジで傑作ですね!もちろん自分にはハードボイルド贔屓を相当にあるので、大抵のハードボイルド小説は面白く感じてしまう安上がりな脳を持っているのだけど、それにしたって面白すぎた。

冒頭にて酔っ払いの男、テリー・レノックス(今作における重要人物)と出会う場面からして、実にロマンとリリシズムに溢れている。テリーは前後不覚にまで酔い潰れていて、一緒にいる女からさえも愛想をつかされて、道端に放置されてしまう。道行くほとんどの人々はそれを無視する中で、マーロウだけが彼に手を貸して、介抱する。意識を取り戻したテリーと別れてから、また別の場所で偶然に出会ったことで、彼との奇妙な友情が始まっていく。

二度目にテリーと出会った時、彼はまた泥酔して、警官に留置されようとしていた。マーロウは咄嗟に(ただ一度だけ出会った男のために)芝居をして、彼をタクシーに乗せようとする。タクシーの運転手は泥酔したテリーに難色を示すが、マーロウはチップを弾んで、頼み込む。追いかけて来た警官の尋問をどうにか掻い潜り、二人はタクシーで出発する。マーロウたちは数ブロック離れた場所でタクシーを降りる。タクシーに乗るのは、ただ警官から離れるためだけの口実だったからだ。運転手はむずかしい顔をして、受け取った金を返す。彼は「昔、自分が往来にぶっ倒れた時、誰も助けてくれなかった」と言った。

このタクシーの運転手は、別にとりわけ善人にあったわけではない。厄介事に巻き込まれたくないと、一度はテリーの乗車を断った男だ。そもそも誰かが倒れていても、助けない側の人間であっただろう。しかし、それは悪人であるというわけではなく、そして助けられないことに無頓着であったわけでもない。誰にも助けてもらえなかった時、孤独と悲哀を感じただろう。誰にも救われない気持ちを抱えていたに違いない。だが、この世には、そうした人間に手を差し伸べる善意が存在するのだと言う事を、マーロウは示した。それは、おそらく、過去に見捨てられた運転手そのものに差しのべられたものと同じなのだ。あの時の孤独が救われたようなものなのだ。だから、運転手はむしろマーロウに礼を言うような言葉をかける。善意というものがこの世にあることを教えてくれて感謝する、と言うような。

フィリップ・マーロウは口が悪くて依怙地でわりと偏見もあるけれど、普遍的な”正しさ”というものを真面目に考えていて、その正しさは常に弱い者への優しさに基づいているのが実にヒーロー的である。もっとも本人はそういう言葉を嫌っているだろうのだろうけど。彼はもっと素朴な感情で動いているように思えるのだ。

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2013.10.11

日記

・今日は全身から力が抜けるくらいに脱力感があったのだが、これはあれか睡眠不足か昼飯を抜いたせいか。どっちだ。

・『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』というクソ長いタイトルのアニメを観たのだが、予想外にも冒頭から爆笑してしまって、しかも最後までずっと面白かった。冒頭の偉人たちの二者択一問題には笑わせられたし、途中も不思議と拒否感なく観ることが出来た。なんだったんだ。

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2013.10.06

『巡ル結魂者(1)』

巡ル結魂者(1)』(秋田禎信/角川スニーカー文庫)

秋田禎信が女の子いっぱいのハーレム系ラノベを書くなんて、エイプリルフールは半年前だぞとしか思わなかったけれども、実際に読んでみれば確かに秋田禎信らしくはあった。確かに女の子はいっぱい出てきているけれども、どれもこれも一筋縄ではいかない奇人変人だらけであり、つまるところオーフェンの牙の塔時代を思わせるものになってる。

リンカと呼ばれる異能の持ち主である女学校みたいなところに主人公が暮らす、という設定はどこにでもあるようなライトノベルと言う感じなのだが、出てきてる少女たちは少しも萌えないレベルに奇人度が高い。まあ、秋田禎信作品に奇人変人はつきもので、そうした変人たちが楽しそうに共同生活しているあたり、確かに懐かしい匂いがあるのだった。

主人公がいちいち状況に対してリアクションを取らないのも良い。ライトノベルにはお約束がいくつかあって、ギャグシーンものその一つなのだが、どうもギャグの見せ方が大仰なリアクション芸に偏っているところがある。これは絵がないからこそ、オーバーアクトによって印象を強める必要があるからかもしれないのだが、あれはあまり良くないと思う。いちいち話の流れが断ち切られる感覚があるし(まあ描き方次第ではあるのだが)。

話が逸れた。とにかく、主人公が大仰なリアクションを取らないため、物事がひたすら奇人によってかき回されていく展開にもするりとした軽さがあって、上品な語り口になっていると思う。物語としてはまだどうなるかわからないのだが、まあこういう風に軽い秋田禎信もたまにはいいんじゃないだろうか、と思えたのは良かったのだろう。

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2013.09.16

『大日本サムライガール(6)』

大日本サムライガール(6)』(至道流星/星海社FICTIONS)

相変わらず面白いことは面白いのだが、面白いほどになんとも暗澹とした気持ちにさせられる話だった。なんというか、作者は本当に大衆がバカだと思っているんだろうな、と言う感じか。いや、さすがにそれは言い過ぎかもしれない。

主人公たちは超有能な集団で、この六巻まで来るともはや向かうところ敵なし、と言った風情があって、実際、彼らが仕掛ける戦略はどんどん成功して社会に対して影響力を生み出していく。その活躍は痛快であり爽快であるのだが、同時にそれは大衆を思うが儘に動かして、都合の良いように誘導していると言うことも出来る。別にそれが悪いというわけではなくて、社会を個人(に近い小集団)で動かして行くのならば、これは当然の選択であろう。そして、これは『羽月莉音』でもそうだったが、”超有能な小集団によってしか世界は動かない”という作者の前提があっての判断なのだろう。

今回、活躍するのは主人公の後輩にして右腕として活躍している由佳里で、彼女もまた若いのにでかい企画を実行できる超有能な天才なのだけど、彼女がメディアに登場することで彼女に大衆がどんどん感化されていく姿が描かれている。その感化と言うのが曲者で、由佳里に憧れる人々は実際のところ由佳里の実像などはどうでも良く、あくまでもイメージとしての由佳里でしかないようだ。由佳里が言ったと思われる気持ちのいい言葉によって、大衆はいくらでもその意思を左右されてしまう。こんな簡単に”イメージだけ”によって操られている大衆の存在、そしてそれが少数の意思によって動いてしまうことに恐ろしいような気持ちになるのだった。主人公たちの活躍が痛快であればあるほど、痛快に撃破されているのは”大衆”ではないかと言う感覚があって、いろいろ考えさせられるところがある。

もっとも、これは貶しているのではなくてむしろ逆で、実際のところは知らないが、このようにして(あるいはこの程度で)世界は動いているのではないかと思わせる現実感さえあるのだった。

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2013.09.09

『盟約のリヴァイアサンⅢ』

盟約のリヴァイアサンIII』(丈月城/スーパーダッシュ文庫)

作者はこれをゲーム的なストーリーテリングでやっている、みたいなことをあとがきで書いていたような気がするのだが、確かに次から次にボスが現れて撃破していく、みたいな展開は確かにゲーム的にような気もするとともに、そんなにライトノベルとして珍しい展開かなあ、と言う疑問が湧き上がってきた。

そういうわけで、作者がどう言ったところにゲーム的なものを持ち込んでいるのかを考えてみると、たぶん主人公の仲間たちの持つリヴァイアサンを強化していく展開は、なんというか女神転生的なパラメータ強化を思わせるところがあって、どんなゲームシステムになるのかある程度想像がつくようなところはある。主人公の能力が基本的にサポート系のそれであって、仲間にプロテクションを貼ったり攻撃力アップをかけたりする駆け引きも、なんとなくゲーム性を想起させるものだ。

だけど、このように上げてみても、それは確かにその通りかもしれないけど、でもやっぱりライトノベルとして読んでみて違和を感じるものではなくて、どうも作者の言っていることが今一つピンとこないのだった。いや、ゲーム的ではないというわけではなく、これぐらいのゲーム性はそもそも普通にライトノベルにあるような気がするという意味で。

今となっては覚えている人も少ないのかもしれないけど、実は電撃文庫は最初「ゲーム的センスに基づいた小説」と言うものを新人賞のキャッチコピーにしていた時期があった。正直なところ、当時も、そして今もその言葉の意味するところが良くわからないのだが、ともあれ、電撃文庫のイメージとしてはゲーム、おそらく念頭にあるのはTVゲーム的なものであったということは出来るのだろう。

そのように考えてみると、もしかするとライトノベルと言うのはそもそもゲーム的なお約束事に踏まえた影響を受けているジャンルなのだということが出来るのかもしれない。まあちょっと勇み足かもしれないけども。

追記。パヴェル・ガラドのベジータ系男子っぷりは大したもので、こりゃ最終的に主人公にツンデレって「お前が真の竜王だ」とか言い出す気配がプンプンしますね萌え。

追記2。雪風の姫は裏ヒロインなのかーまあそうだろうな現状キャラ力が半端ねえからなあ。

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2013.08.12

『ヴァンパイア・サマータイム』

ヴァンパイア・サマータイム』(石川博品/ファミ通文庫)を読んでた。本当に良い作品だと思う。

主人公の不眠症と言うか、昼夜逆転してしまった生活サイクルは、彼が現実に対して違和を感じているということで、それゆえに日常から浮き上がってしまう。そんな彼は夜を生きる吸血鬼の少女と出会うことで恋に落ちるわけだけど、ここで面白いのがこの物語の中ではすでに吸血鬼の存在は社会に認められていて、その人口比もほぼ1:1になっている。つまり、夜しか生きられないが、しかし、ごく当たり前の平凡な存在となっているのだ。だから、吸血鬼の少女は、決して非日常の存在ではなく、日常(昼間)の地続きの存在として登場してくる。

彼女との関係もコンビニの店員とお客だし、出会いに至っては横断歩道でばったりと出会うという特別さのかけらもないもので、本当のこの少女は日常そのものなのだ。しかし、それでも、少女は決して昼間の世界に出てくることは出来なくて、昼間部に通う主人公と夜間部に通う彼女とは、まるでコインの裏表のように交わることはない。昼夜が交わる黄昏時に、登校前の彼女とコンビニのバックヤードで働く主人公の束の間の逢瀬が行われるだけ。その届きそうで届かない向こう側への憧れと失望、そうしたものに揺れながら、それでも恋に振りまわされる二人の姿の鮮やかな喜びと、隠微な(淫靡な)官能が入り混じる姿があまりにも美しく、悲しい。

結局のところ、少女が昼間の世界を訪れることはない(主人公が夜の世界に訪れることはある)。一方で少女の友達があっさりと昼間の教室に”越境”してしまうところがすごく面白くて、決して両者は交わらない存在ではないことを予感させるものの、”主人公と少女”はの関係は、むしろそちらへは行かないことを意味するのではないか。少女は真面目でレールを外れることを恐れていて、昼間と夜の境界を超えることの困難さが幾度も語られている(最後も少女は主人公を”連れていく”ことは出来ない)。だからこそ、昼間から夜への越境を容易く(少女にはそう見える)行った主人公に惹かれたのだとも言えるかもしれない。つまり、これは悲恋物語であるのだろう。

しかし、悲恋を悲恋として描かないところがこの作者の面白いところで、どんなに抒情的で繊細に描いても、ちょっとしたところでギャグを入れたり(しかもかなりコテコテ)するところで、しかも、それが物語の抒情をすこしも妨げないというところは特筆に値する。恋に酔いしれていても、ふと正気にもどってそんな自分が恥ずかしくなったりする、これはそういう気持ちの振れ幅がきちんと描かれているということで、そうして心が振れているからこそ、そこの感情のリアルがある。人間はわりと気持ちが上下左右に散らばっているものであって、そうした気持ちの運動力を描くことで、主人公たちが単なる書き割りではなく、躍動する心を持った存在であると思えるのだ。

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2013.08.08

煮詰まってます

・『パンツァークラウンフェイゼスⅢ』を引き続き読んでいる。ジャレッドと言うキャラクターはとても良いね。年少者を守る大人で、しかも道化でもある。とても人間的な弱さがあって、ある部分では驚くほど強い。退場のシーンもすごく良かったし。ただ、ちょっと作品のテーマ的なことをしゃべり過ぎたような印象だけど…。最後はどうすんだろこれ。これを踏まえた上で、その上の答えを出せるのかな?

・ドラゴンズクラウン。ついにインフェルノ(最高難易度)でラスボスを倒しました。レベル95。しかし、ハスクラゲームにおいて、ラスボスを倒したことは通過点に過ぎない……。ここから最強の武器を探してダンジョンに潜り続ける毎日が始まる……。まあ、ウィザードは楽しいけど、そろそろ他のキャラにいじってみたいような気がするので、並行して進めてみたいと思います。

しかし、オンラインと言うのはゲームの寿命を明らかに伸ばしますね。正直、かなり単調なゲームだと思うんだけど、オンラインで他のプレイヤーとステージを進めていくと色々なプレイスタイルがあるのがわかる。丁寧にアイテムを拾って行く人、すべてを無視して突っ走っていく人、一緒にプレイする人次第で、同じダンジョンでも戦い方から難易度までぜんぜん違う。フォローに追われたり、逆になんにもしてないのにクリアしてしまったり。自分は実のところあまりオンライン要素のあるゲームはしてこなかったんだけど、なるほど確かにこれはハマる。あらゆるゲームにおいて不確定要素は必須ではあるけど、最大の不確定要素は、そりゃ人間に決まっているよな。

・いろいろと煮詰まっています。うーん、もうちょっと頑張れ、俺。

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2013.08.07

『棺姫のチャイカVII』

棺姫のチャイカVII』(榊一郎/富士見ファンタジア文庫)

わりとあっさりチャイカシステム(?)が明らかになったあたり、作者側にあまり本物か偽物かと言うことそのものを重視していない姿勢がわかる。それが悪いわけではなくて、むしろ本物とか偽物とかどうでもいいというスタンスは、わりとわかるというか、自分にも親しい感覚だ。オリジナルであることの特権性と言うのは、こう言ってはなんだがただの幻想のようなもので、この世に真実絶対の本物などと言うものは存在しないということが出来る。本物などと言うものが存在するとしたら、それは純粋な観念的存在でしかないだろう。なぜなら、現実として物質となった時点で劣化、いや変化と言った方が正確か、していくからだ。本物がいつまでも本物であるとは限らず、偽物がいつまでも偽物とは限らない。偽物が本物になり替わるのかもしれないし、あるいは全然別のものになってしまうかもしれない。つまり、本物か偽物かと言うのは一つの”状態”である過ぎない、と言えるのかもしれない。まあ、この辺は妄想みたいなものだけど。

作中のギィの言葉からすると、どうも皇帝の遺体争奪戦自体は選別のためであって、と言ってもそれは”本物”を決めるための選別であるかどうかは怪しいもので、おそらく道具の品質チェックぐらいの意味しかないのではないだろうか。黒のチャイカ、赤のチャイカもそのあたりの事実を理解してきたことで、おそらくはそのあたりを悩む展開になるような気配はあるのだが、正直なところあまりその辺は重要な話にはなりそうもないと思う。主人公のトールが本物偽物にこだわりのないタイプなので、彼を頼りにしている気配のあるチャイカもあまり気にしないのかもしれない。まあ、この作者はそういう手続きを経るタイプだと思うので、なにかしらやると思うけどね。その意味では赤のチャイカが危ないかもしれない。

それにしても、どうやらメタ世界だか上方世界みたいな存在があるらしい気配があって、おそらく皇帝にとっての真の敵はそっちにあるようだ。チャイカたちは、その真の敵に対する兵器のような存在なのだろう。遺体争奪戦と上方世界との戦いをどのように両立させるのか。そのあたりはちょっと興味が沸く感じ。

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2013.07.30

『コロロギ岳から木星トロヤへ』

コロロギ岳から木星トロヤへ』(小川一水/ハヤカワ文庫JA)

プロローグにおいてカイアクの発した言葉、「謙虚で優しい気持ち」、おそらくこれがこの物語の重要、と言うか、これは”そういう話”なのだろうと思う。「謙虚で優しい気持ち」を巡る物語、それはつまり「想像力」についての物語なのだ。

想像力と言うのは、現実的には地続きにはならない発想に飛躍する力のことだ。例えるなら、人間はタイムマシンを発明することは未だに出来ないが、しかし、タイムマシンがどういうものなのかを知っている、と言うことだ。そんなことを知っていたとしても現実的には何一つ役に立たないし意味もないのかもしれないが、それでも人々はタイムマシンを”想像”してきたのはなぜかと言うと、もしタイムマシンが本当にあったとしたら人間は何が出来るのだろう、と想像したのだ、と言うことが出来るだろう。それを考えることで、人間は時間について思いを馳せ、過去や未来を変えることの是非について思考する。それはただ現実を生きているだけでは、決して思いもつかないことだ。つまり、”自分には直接関係のない出来事について考える力”、それが想像力と呼ばれるもののことなのだ。それはとても優しい考えだと言えないだろうか。

そういう意味で、この物語に登場する人々は想像力が豊かな優しい人たちだ。200年先の、未だ生まれてもいない少年たちの安否を気遣えるコロロギ岳の科学者たちは、その「謙虚で優しい気持ち」を十分に持っている。登場する女性科学者が200年後の少年たちの関係をBL的に妄想するシーンがギャグっぽく挿入されるけれども、これもまた想像力の一つのあり方として描かれているように思う。まだ見ぬ相手の関係を想像し、感情移入すると言うのは、実のところ恐ろしく高度な精神活動であって、それをなくしては人間が他者を気遣うことは出来ないだろう。あれは確かにギャグではあるのだが、人間の想像力が持つ力の偉大さを描いている場面でもあるのだ(たぶん)。

結局、コロロギ岳と木星トロヤはすさまじく迂遠なやりとりしかしていなくて、お互いがどういう人間なのかを知ることは最後までなかった。けれども、それはお互いの信頼を損なうものではまったくなくて、むしろ一度たりとも信頼が揺らぐことはなかった。お互いが精一杯に自分のやるべきことを実行し、相手もそうであることを疑わない。これがただのご都合主義や、空疎な理想主義に陥らないで済んでいるのは、まさに想像力の賜物だ。相手が何を考えているのか、そしてどんな判断をする人間なのか”想像”すること。それは実際の相手がどうであるかはあまり関係なくて、ただ想像することで見えないどこかに誰かが存在していることを実感すると言う奇跡、あるいは必然が描かれているのだ。それこそが「謙虚で優しい気持ち」が持つ意味であって、それがある限り人間は世界に失望することはないのだ、と言う作者の意識が見えるような気がするのだった。

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2013.07.16

『寂滅の剣 日向景一郎シリーズV』

寂滅の剣 日向景一郎シリーズV』(北方健三/新潮文庫)

日向景一郎シリーズもこれで完結か……。単行本が出ていることは知ってたけど、文庫版が出ていることに気が付かなかったので、最近になってようやく読んだ(と言っても読んだのはけっこう前だけど)。最後の最後までストイックと言うか、失われたものは決して取り戻せずに、ただ受け入れるしか出来ないという救いようのない話だったなあ。けれど、それが駄目と言うわけではなくて、そのどうしようもなさがむしろハードボイルドな美学に繋がっているとも言えるので、まあ北方健三先生らしいよな、と思った。

あ、ちなみに自分は北方作品の熱心な読者と言うわけではなくて、ハードボイルド小説と時代小説をいくつか読んでいる程度の読者なんだけど、この無駄をそぎ落とした文体や、ストイックな美学(それはカッコつけと表裏ではあるが、なに男のダンディズムなどやせ我慢のカッコつけ以外のなにものでもない)がわりと好きなのだった。

さて、最終巻である『寂滅の剣』においては、シリーズを通して描かれてきた景一郎とその弟、森之助の対決が描かれる。この二人は決して憎しみ合っているわけではなく、それどころが景一郎は弟が超一流の剣客となるよう導きさえしている。森之助も超人的な剣腕を持つ兄を畏れつつも憧れの存在としてみなしている。その二人が殺しあう理由はただ一つ、森之助の”父”、名前も同じ森之助を、景一郎が殺したからだ。父・森之助は、景一郎にとっても父があるはずなのだが、しかし、そこには余人には測りがたい過去から続く因縁の結果として、景一郎は父を殺した。そして、彼は弟を育てる。「20歳になった時、父の仇討ちのために、自分と戦え」と言い聞かせながら。

江戸の町で焼き物を作りながら日々を過ごす景一郎と、その背中を見て育つ森之助。彼は、いつかは兄を殺さなくてはならないと思いながら幼少期、青年期を過ごしていく。この二人の関係は恐ろしく歪つであり、それでいながら静謐なものでもあった。己の運命を嘆くようなものとは無縁の生活であるようだった。なぜなら景一郎は、人間的であるものを削ぎ落とた”けだもの”であるからだ。”けだもの”に育てられた森之助もまた”けだもの”として育つ。彼らには怒りや悲しみ、あるいは憎しみから離れている。彼らはただ生きるために戦い、生きるために食らう、ただそれだけの生き物なのだ。なぜ戦うのか、それは彼らにとっては些末な問題でしかないのだった。

そんな二人の姿は、周囲の人間たちに様々な波紋を投げかける。人は、彼らを無視することが出来ない。なぜなら、彼らは人の姿をした”けだもの”だからだ。否応なしに彼らは人を惹きつける。ある人は彼らに魅了され、彼らの人生を見守りたいと願う。ある人は彼らを憎み、彼らの破滅を見たいと狂う。ある人は生と死を超越した生き方に嫉妬する。ある人は彼らのあり方を憐れみ、あるいは悲しむ。そのような人々に触れて、景一郎は時に彼らを守り、時に容赦なく斬り捨てる。森之助もまた、それを学んでゆくのだった。

そしてさまざまな屍と血を乗り越えて、二人はついに向かい合う。背中を見続けた兄を、背負ってきた弟が刀を構える。それを見守る人々の顔は複雑で、しかし、誰も止めるものはいない。止められるものではない。永遠にも似た一瞬の後、すべては終わった。二人は一人となり、彼はもはや”けだもの”ではなくなった。”けだもの”であったはずの男は、己が失ったあまりにも大きなものの、その空白を抱える。彼はただ、”失う”ということを得ただけで、それ以外のすべてを失ったのだった。

この物語は、そのようにして終わる。なにも求めず、ただ失うことによって生きてきた男は、失うことによって、再び生まれた。それが救いであるのかどうか、それはこれからも生きて、定めなくてはならないのだろう。

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