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2013.09.01

マーボー三昧

・昨日作った麻婆豆腐を消費するために食い続けている。この調子では明日も麻婆豆腐だな。

・twitterに書いたものをコピペ。

ライトノベルとは文章を簡素化していくかを突き詰めたジャンルだと思うのだが、同時に簡素化された(悪く言えばスカスカな)文章にいかに”意味”を持たせるかを追及しているジャンルでもあるのではないか。例えばアニメや漫画の意匠を持ち込むことによって情報を極限まで圧縮することによって。

だから単に文章を簡素化しただけでは、ライトノベルとしては成り立たない。成り立つにしても面白くはならない。それはただ小説をスカスカにしただけだからだ。それでもなお面白い小説を作るとすれば、文章以外でいかに情報を詰め込むかが勝負になる。おそらく本来はイラストもその一つなのだろう。

つまり他ジャンルの共有化された意匠が前提にあって(いわゆる属性と言う形で情報が圧縮されている。ツンデレと書けば人格を表現できるように)、それらの圧縮されたツールを用いることで小説として初めて成立し得る。そうした共有化されていない人には書けないジャンルなのだとも言えるのだろう。

・共有化された意匠ってのは別にライトノベルに特有のものではなくて、実は他のジャンルの小説も持っている。SFならばSFの、ファンタジーならばフファンタジーの、ミステリなミステリの、それぞれジャンルのお約束、圧縮された情報の鍵のようなものがあって、それを理解していないと描写が読み取れない。まあ、ライトノベルほどにそれに偏重しているわけではないけどね。ただ、初めてのジャンルを読もうとするとき、上手く頭に内容が入ってこないような時は、そうしたお約束を理解出来ていないだけのことが多いのだと思う。

・あと、別にこれはライトノベルの定義をしているわけではなく、ただライトノベルを他ジャンルの劣化品(ただ密度を減らしただけ)ではないとしたらどういうところなのか、ということの一つの意見に過ぎない。

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コメント

似たようなことをミステリやSFで考えたことがあるのですが、編集(と、レーベル)が担う役割というのは、ジャンルリテラシーというかお約束を把握して、読者にそれを不可分なく提供することなんでしょうね。
ジャンル内での目利き、というか。
SFなら世界を扱う手付きに、ミステリだとどんでん返しのパターンなど、ロジックを扱う手付きにそれを感じています。

ライトノベルでは、仰るように文章以外からのデータの引用を可視化することで読者を惹き付ける力が大きいのだと思います。
外見を仔細に描写する必要なくイラストを想起させ、時期に応じたネタを引用することで作風を読者と近付けたりとか。
ネットサーフィンしながら時事的な情報を繋ぎ合わせてる感覚に近いと感じたりするんですが、別の場所で見た情報が飛び地的に情感として把握される感じだなと(抽象的でわかり辛くてすいません)。
キャラやアイディアの属性を、いかに読者と共有するデータから効率的に引き出せるかを、単語や文脈の単位で操作する技巧がラノベの中にあるなと思います。
だからネタの引用が新しいか古いか、そもそも引用が巧いか、なども評価の対象として読んでしまいますが。
西尾維新は、ぱっと思い付く中ではその最先鋒だなと。

投稿: 名無し | 2013.09.02 18:33

>別の場所で見た情報が飛び地的に情感として把握される感じ

まあ、一概に決めつけるのは危険ですけど、ライトノベルはそういう印象が強くありますね。キャラクターや物語の展開など、多くにアニメやゲーム的なものから引っ張って来たりする。それは単なる手抜きと言うわけではなくて(いや、手抜きの場合もけっこうありますが)、読者にかける負荷を極限まで減らすための肉抜きなのだろうと思います。

そんなの小説じゃない、と思う人はいるでしょうけど、エンタメとしての一手法としては面白いやり方だと思うんですよね。

>西尾維新は、ぱっと思い付く中ではその最先鋒だなと

色々なところから引用するにしても、西尾維新のやり方はかなり独特なもので、誰も真似の出来ないものですね。

まあ、自分としては、西尾維新はライトノベル作家なのか微妙なところがあると思っていますが……。

投稿: 吉兆 | 2013.09.02 21:57

恐らく、西尾維新と同じ事は、センス的にも立場的にもラノベではやれないのではないかと考えてます。
どこかしら、ネタを引用しつつもあくまで物語レベルで読者と接するのがライトノベルですが、西尾維新はそれがややメタというか。
作風からして属性をそのままキャラとして扱い、メタ的に読ませてしまう手法なので、シリーズによってはキャラが正に「キャラでしかないこと」を強く意識させられますね。
扱ってるパーツそれぞれがライトノベル的でも、結果的に「特殊なキャラクター小説」を読んだ気になります。
これはまあ、ラノベのお約束というか、世界観や作風としてのライトノベルのお約束と外してきてるからだ、という事だとは思いますが(世界に関わっていくキャラを語る、それを楽しませるというライトノベル独特の作風の存在など?)。

あと一巻ごとの単位で読者に発信する媒体として見るには、ライトノベルは分量が足りないし、そうやって楽しませるのが本分ではないなというのもあるかなとも思いますが。

こうした作風は、多かれ少なかれ時流に影響される各ジャンルの中でも、最も漫画やアニメのように時流と直結している理由かなと思いますね。
その瞬間に最も効果的な属性は何かを追求するというか。

>エンタメとして
アクションなどを描写するには、視覚的、描写の軸的な方面に情報量が足りない文章媒体は、同じ手段では漫画などに対抗できませんしね。
漫画などからイメージを拝借というか、読者の中で自然に結び付けてしまうことで、文章は単なる脚本以上で、尚且つイメージを伴った物になる面もあるのかなと。
どんな時代も「文章から想像できる範疇」が小説というのはそうだったのでしょうけど、今はそれがネットの普及や媒体の氾濫も手伝って、かなり過剰になっているのかもしれませんね。
純粋に商品として考える場合、漫画よりも長い時間楽しめる、という点では中高生読者にも優しいメディアになるでしょうけれど。

音楽だと「このジャンルだと濃すぎるけどこっちで試したら良い感じに薄くなるんじゃ?」という事をやったアーティストが何人もいますが、そういう例に近いのかもしれません(笑)。
定石についてどう向き合うかという話になると、まあ、小説は色々と別の話になるのでしょうけど。

投稿: 名無し | 2013.09.03 00:47

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