どんな過去であってもなかったことにしてはいけない、と言う話
・映画「風立ちぬ」に対して日本禁煙学会が苦言、と言う記事を読んだ。ほんとに世の中には下らないことに血道を上げる人がいるもんだな。
これの何が下らないって、ようするに「喫煙シーンがこの世に存在することが気に入らない」って言っているだけだからね。正直、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、みたいなもの。本来は喫煙に伴う副流煙こそ憎むべきものなのに、もはや喫煙と言う概念そのものを憎悪している。なんかもう本末転倒しているよね。この人たちは、きっと副流煙を一切出さない画期的なタバコが発明されたとしても、「喫煙している人が存在することで生じる精神的苦痛を考慮していない」とか言ってまったく認めるつもりはないだろうな。それ、もうほんとに何の大義名分もない。喫煙者は死ね、と言ってるだけ。ただの差別だよ。
喫煙シーン自体が不快である、と言う気持ちは想像することは出来るんだけどね。他人のゲロを眺めた時、決して愉快な気持ちにはならないし、そうした不快な出来事に対する生理的な嫌悪感は否定するつもりはないよ。けれども「風立ちぬ」についてはまったくそれとは関係がない話で、これはその時代の常識というものをどのように扱うのかということに関わってくる。つまり、物語中の時代では、人前でタバコを吸うことが非礼とはされていなかったというh常識があって、むしろそれが描写することで”時代を描いている”と言うこと。それを現代から見て駄目だと非難することは意味がないと思うんだよね。つまり、あの映画から喫煙シーンを省けと言うのは、時代を描くなと言っていることと同じことで、この考え方を突き詰めていくと、「日本ではタバコを人前で吸っていた歴史を抹消する」と言うことに他ならないわけで……。
まあ、きっとこの禁煙学会と言うところの人たちは、そういうシーンが存在することで、喫煙と言う習慣がカッコいいものだと認識されるんじゃないか、とか言い出すのかもしれない。けどね、日本が数十年前まではどこでも喫煙がOKとされていた時代があったという歴史は覆せないし、覆してはいけないものだと思うよ。過去あった悪い事はきちんと反省して、未来に繰り返さないようにする。それをするのが大人というもので、そうすれば未来に向けてよりどうすればいいのかを考えることが出来る。このままではただの感情論でしかないと思うし、建設的な道も開けるはずもないよ。
・『リライト』(北条遥/ハヤカワ文庫JA)を読んだ。実にタイムリーなことに、これこそまさに「自分の都合の良いように過去を改変することの醜さ」を描いた作品だった。まったく、実に醜悪で恐ろしい。「過去は改変出来る」と言う命題と「過去は改変出来ない」と言う矛盾する命題が両方とも成立してしまうという、理屈が通用しない狂った理屈がきちんと描かれてしまっていることも恐ろしい。なんだこりゃホラーじゃねえか!
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