日記
・最近放置気味になってしまったので、一念発起して日記などを記してみようと思う。と言う決意をしたのも何度目になるのか忘れたが、まあ、今回も飽きるまでは続けてみよう。一カ月ぐらい持ったらおなぐさみ。
・書く内容は、本の所感とかゲームとかアニメとか考えたこととか。まあ、twitterで書いているのと変わらない。どうやって差異を出していこうかと悩むところだけど、書いているうちに思いつくといいな。思いつかなかったらまた一カ月坊主かもしれん。
・『ドラゴンズクラウン』を買いました。まさか今の時代にベルトスクロール2Dゲームを出す心意気があっぱれ。しかも、事前の予想以上にレトロゲーの匂いが強い。芸術的な映像と音楽を除けば、昔プレイしたファイナルファイトを思い出した。懐かしいねー。自分のプレイキャラはウィザード。レベルは57。わりとゲームとしては単調な気がするんだけど、雰囲気と、単調ゆえの中毒性があってやめられない感じ。オンラインも面倒なコミュニケーションがない簡素な感じがいい。
・『パンツァークラウン フェイセズIII』(吉上亮/ハヤカワ文庫JA)を買ってきて最初の数十頁を読んでみた。ここまで冲方丁の完全コピーをしていると凄みがあるな。わりと批判もあるみたいだけど、そもそも冲方丁の文体をコピーすると言うだけですごいと思う。あの人、明らかに無人の荒野を一人で切り開いている感じがある。誰も後に続いていない、と言うか、追いついていけない。だけどここに追随者が一人出てきたと言うのは、これはもう歓迎するべき事じゃないの?と思う。
・『スピリットサークル02』(水上悟志/少年画報社)も良かった。なんか説教くせえなあ、って思わせるところをそれっぽく見せないってのは、いったいどういうノウハウなんだろうなあ。
・『戦姫絶唱シンフォギアG』、良い。ブログで書いたかどうかわからないけど、一期が大好きなんですよ(BDも全部揃えました)。はっきり言って制作サイドが好きなものを好きなようにぶち込んで視聴者のことを無視したマスターベーション以外のなにものでもないんですが、しかし、他人の自慰行為を眺めるAVがそれなりの需要があることを考えれば人気が一定数出るのも当然でしょうな(しかし、なんつー例えだ)。戯言はともかく、昔の特撮(ウルトラマンや昭和ライダー)が大好きな人ならシンフォギアを否定出来るはずもない、と思うね。
・シンフォギアGは、一期と比べると”歌”の扱い方が格段に良くなっている。一期が悪かったというわけではなくて、”戦いながら歌う”と言う設定が、一期では手探りでやっていた感じがあった。けれど、二期からはミュージカルバトルとしての描写が素晴らしくなっていて、これこそ自分が見たかったシンフォギアだ!と一人で興奮してた。歌い手たちの心情を代弁しつつ、攻防の流れさえも歌が支配している感じ。一話で、翼(主人公の一人)がカッコよく歌いながらマリア(敵のリーダー)に止めを刺そうとしたとき、マリアの仲間の歌が割り込んできて攻守がひっくり返ったあれね。つまり、歌が戦闘の流れを支配している当たり、通常のバトルアニメとはまったく異なる論理が生まれている。ま、分かり易く言うと、ブリーチのオサレバトル。カッコいい見栄を切った方が勝つという、あれ。……かえって分かり難いですかね。
・まあ、今日はこんな感じ。一応毎日書くことを予定にしているけど、こんなに長文を書くことはないだろうなあ。三日坊主になること間違いなしだよ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
クランチ文体そのものは(冲方先生経由で)他にも使ってる人がいたっぽいですが、ハヤカワで、しかもマルスク読者への推し方で出してきたのが特殊かなと思います。>パンツァー
同人作品を読んでもあのスタイルのようですから、下地として冲方先生の作風を真似ていたのでしょうね。
Amazonの評判が悪いのは、文体が読者んとって作者とイコールというか不可侵というか、作者の固有性と結び付いて考えられてるからじゃないかと思います。
イラストよりも模倣者を作りやすい文章においては、読者にとって文体は、作者という刻印なのかなと。
そんなこと言ったらあの人もあの人もと無数にそんな例を思い付きますが、文体にクセがない作者の多いハヤカワ作品でという事や、真似るとあちこちが似通ってしまう後期冲方作品がその対象だったからかもしれませんね。
実際には引き出しや構成の妙味、テーマを描く際のタッチや背景を書く際の感性、それらが連携して生み出す情感など、真似しようと思っても真似できないものが大量に含まれているのが小説だとは思いますけど。
村上春樹が無数にフォロワーを生みつつも、フォロワーが自分のスタイルを確立するしかなかったのは、何も圧力のせいじゃなくて、あの隠喩と感性が本人以外には構築できなかったからでしょうから。
冲方先生のシュピーゲル・シリーズはポップさと毒々しさをラノベという媒体でこそ書き得たという、本人の拘りを感じます。
投稿: 名無し | 2013.08.05 07:43
読み直すと、なんか長々と勝手な感想をすいません(汗)。
個人的には賛成とも反対とも言えないのですが、自分の作風を作り出す上では、アイデンティティと結び付けられて考えられてるのが文体なのではないかなと、ふとそんなことを思いました。
投稿: 名無し | 2013.08.05 07:48
小説における文体と言うのは、言ってみれば漫画における絵のようなもので、つまりは作家性の根幹に関わるものなのでしょうね。だからこそパクリやオマージュというものに対して、読者も敏感になってしまうのでしょう。
ただ、自分は模倣と言うものに対してわり気にしないというか、模倣元から別に文章を抜き出しているわけでもないし、それで非難をするようなものではない。もちろん、先駆者と比較されてしまうのは仕方がないと思うけど、模倣であるというだけで不当に低い評価をしてしまうのは良くないと思いますね。
もともと小説を書くのなんて模倣から始まるものですし(冲方先生も、デビュー作は夢枕獏先生の影響を受けたものでした)。名無しさんも仰っている通り、どんなに真似をしようとしても、本人のセンスでどうあがいても独自のものになってしまうのでしょうし。そこを土台にして、決してそこに安住することなく成長していく、それを期待することが、読者として大切だと自分は思いますね。
投稿: 吉兆 | 2013.08.06 09:49
ああ、あのデビュー作は夢枕先生と言えばそうですね。
かつては平井先生他、好きな伝奇作家の影響から抜け出そうと本気で色々と試していたのを告白してた気がします。
今、あれだけ広範の作品を書き得る素地と環境を得られたのは、本人が試行錯誤の中でこれまで突っ走ってきたからこそだと思います。
だからではないですが、独自の道を行く職人作家的なあの姿勢を見てると、他にはラノベオンリーの「職人」として、たとえば榊一郎先生なんかも凄いなと感じますね。
ライトノベルを自覚的に書く、という意味で、冲方先生とは違う意味で突き抜けてるなあと。
スタイルをスタイルとして扱ってしまえる榊先生の作風などを見ると、文体というのは作品に対して従属的なものにすら見えます。
まあ、これは榊先生のような例だからかもしれませんが。
最近のパクリやオマージュの境界が微妙になっている事情には、日本のWEB文化(広い意味での「二次創作」文化)や、ネタを扱う姿勢、あとはラノベ自体が書きたい人を大量に抱えているという、少し微妙な要件もあるように思います。
あとは単純にいわゆるテンプレートをどう扱うかが前面に出てきて、似通いやすい、という事態があるのかもしれませんが。
題材をそのまま扱えば拙いけど、じゃあアレンジとは何か、アレンジの定義は何なのか、と突き詰めていくことを本質的に不可能としているのが創作ですし(境界の扱いを無限に後退することはできないので)、ここはデリケートだなと。
明らかに物語の文脈で「浮く」のに挿入された元ネタとか、さらっと紛れ込んでても作者が「これはオマージュだよ」と言わんばかりの表現とか、そういうものまで批判されたりするのを見るとちょっとどうかなと思ったりします。
好きな作家を「~のパクリだろ」と言われて腹が立つことは度々あったんですが、何かもう「パクリ」という言葉がマジックワード的で、議論に困るな、と思うことは結構あります。
センテンスの切り方やキャラの特徴など、真似しようと思えば真似できても、作品一つを完成させる中で「元ネタの作者」の性質までトレースできないでしょうしね。
目立つ「フォロワーの多い」作品だと西尾維新、というか化物語の会話劇フォロワーについてとかもですけど、あれは大半が西尾維新に「影響受けてる」と見るべき作品は多くても、あれだけ膨大な言葉遊びと、半ば以上にメタ的な態度へ言及して、話の構造もキャラ優位の特殊な形で作り上げてしまえるあたり、あれはもう西尾維新「しか」やれてないと思ってます。
読んでるとすいすい読めるけど、会話とキャラを主体にあれだけのドラマを作り上げてしまえるスタイルは本当に奇抜だし、あれで完成度を落とさず……というか、固有の作品として成立させてしまえるのは、西尾維新ならではの力技なので。
だから西尾っぽいと言われる会話劇+ミステリみたいな作品を読むと、物語偏重でテーマを語ることが多くて、「ああ、やはり違うな」と思うんですよね。
それもまた差異となるので、あとはもう本人の実力次第なんでしょうけど。
誰も同じ事はやれないし、別の人間にはなれないし、そもそも積み重ねてきた物が知識から感性からそのベースになる感情の発露の仕方から違う訳で、そうしたものはさらっと出てくるフレーズなんかに生きてるんじゃないかなと思ったりします。
追記でどちらにも賛成と言えないとしたのは、基本的には上記的な考えなのですが、特定の、それも極端に愛着のある作品を持つ人にとって、それは特別なのかもしれないな、とも感じるからですね。
それもまた自分には体験できない感情である以上、エピゴーネンは許せない、とする人の意見もあるのかなあ、と。
恐らくそうした意見には業界の推移(多様性の縮小など)があるのかもしれませんけれど。
これについては作品流行のサイクルが早いラノベにおいて、作家ではなく「流行の使い捨て」という形で見られているのを偶に目にします。
そうした雑多さ、熱気の中で作り出されては変化し続けていくのがラノベだというのもわかる話なのですが。
この辺りは泥沼なので突き詰めたりできないのですけれど(苦笑)。
基本的には最初と最後の節に同じような感想を持ってるのかなと思います。
お返事、ありがとうございました。
投稿: 名無し | 2013.08.06 19:38
見直したらまた読み辛い部分があったので、すいません、追記を(汗)。
ぼっとしてた訳ではないのですが、疲れてる時に一気に書いたのでなんだか訳のわからないことに……。
>最近のパクリやオマージュの境界が微妙になっている事情には~
何かラノベ前提みたいな書き方になってしまいましたが、それに限らずですね。
炎上する例にラノベが多いので、念頭にあったのがラノベなのは間違いないのですが。
>恐らくそうした意見には業界の推移(多様性の縮小など)が~
思考をそのまま文章に流してしまったような感じで、申し訳ないです。
流行の追随が起こる事で、業界内がトレンドの流れに埋め尽くされるのではないか、という危惧があるのかな、という事ですね。
残念ヒロインとか日常系タイプの作品とか、流行として「ある」と言い切るのは強引にせよ、トレンドとして存在してるのは見えるので。
そうした「レーベルプッシュが生み出す流行によって、多様性が消失する懸念」みたいな物はもしかしたら(フォロワーの存在に対して)あるんじゃないかなという意図で書きました。
ただ、冲方作品に関しては吉兆さんがエントリで仰ってるように、そもそもフォロワーがあまりいないというのもあって、ジャンルの飽和を危惧する必要はないと思いますがw
ハヤカワでもイーガンタイプの作品が増えてきたからと言って誰もツッコミは入れていませんしね(これはハヤカワがこれまで新人賞を休止していたから、という推測も成り立ちますけど)。
だからここはちょっと的外れだと思うので、すいません、忘れて下さい。
たぶんこれは単純に、その姿勢に対して頷けるかそうでないかなのでしょうね。
考察したつもりで、ここは蛇足になっていました。
失礼致します。
投稿: 名無し | 2013.08.06 21:11
ただの持論、妄想みたいなものなので聞き流して欲しいのですが、ライトノベルと言うのは変化の激しいジャンルですからね。他のジャンルだと、数十年あるジャンルを読み続けている読者なんてのもザラですが、ライトノベルの場合、まあ自分のように読み続けている人もいるでしょうけど、中には他のジャンルに移ったりするので、読み手が常に更新されているのではないでしょうか、と断言するには情報を持ってませんけどね。なんとなくそういう傾向がややある、ぐらいに言っておきましょうか。
そして、そういうジャンルだと、読み手の嗜好や流行が凄まじい勢いで変化してしまうわけで、成熟されにくいのかもしれません。そうした未成熟さは別にただそういうものであって別に悪いものでもなんでもないんでしょうけど、ただ共通認識と言うかお約束みたいなものが生まれにくく、読者層ごとに細分化してしまっているような気がします。それぞれにローカルルールがあるみたいなものですね。
そういうところだとオマージュに対する反応もいろいろあって、結果的にすれ違いが起こることもあるのではないかと。まあ、結局、こういうすれ違いは会話してすり合わせていくしかないんですけどね。
まあこうした未成熟さは悪いものとばかりではなくて、名無しさんの仰っている業界の多様性の縮小ですか、狭いところに陥ってしまう危惧は、それほど高くはないのではと思います。なにしろすぐに読者が入れ替わるかもしれませんからね。きっとそのうちまた新しい流行やモチーフが出てきて、古い読者が唖然とするような奇抜なものが出てくるのではないでしょうか。最近だと、川原礫先生によるソードアートオンラインなどは、最初に読んだ時はえらく驚かされたものです。いまどき、こんなベッタベタな話が許されるのか?みたいな感じです(勘違いして欲しくないですが、あれはとても優れた作品で、僕も全面的に受け入れられるわけではないにせよ、面白い作品だと思います)。ああいう作品が定期的に出てくるのも、ライトノベルと言うジャンルの未成熟さの表れであると考えれば、それも一つの特色として受け入れていくしかないかなあ、と思えて来るんですよね。
なんかまとまりがない感じで申し訳ありませんが、自分のスタンスはそんな感じですね。
投稿: 吉兆 | 2013.08.07 19:48
年単位でのこちらの読者としては、業界の推移なども参照しながらこちらの記事は窺えてます。
>それぞれにローカルルールがあるみたいなものですね。
というのは、自分でも似たようなことを考えていたことでした。
サブジャンルの拡大によって、それぞれの読者がもしかして『お約束』を理解してないのではないか、と。
SAOのようなベタベタな話が、というのもそうで、明らかに西尾維新前後、電撃で言えば一般小説との壁を跨ぐ作家が出てきた時期と今では、根本的に事情が違うと思います。
サブカル系雑誌などを読むと、ラノベ作品単体の批評としてはむしろやり辛くなってるように思いますが、『ラノベ全体への言及』は増えてきてるというのが今の状況を表してるなと。
これは仰るように、ライトノベルというジャンル内に存在するサブジャンルに対するリテラシの問題などが大きいのでしょうね。
動画や実況のネタになる作品が好まれる傾向は感じますし、やや主人公の承認を求めすぎと感じるとはいえ、SAOの扱うテンプレ的な快楽はそうした欲求に合致していたのではないか、と。
80年代のソノラマなんかを読んでも、あそこまでベタではないというか、あのベタさはそれを更に突き詰めることで生まれる類の、心地良さを主体に考えたらああなったのではないかと。
元来WEB小説であったという出自からも、SAOがまだWEB小説だった当時、ラノベの主流ではなくても、草の根レベルで広がっていた「わかりやすい」楽しさというのはあるんじゃないかなと考えてます。
それ以前のラノベが世紀末前後の厭世観をどう扱うかに視点を置いていた、というのはあるなとも思いますので。
SAOそのものは、逆にあのベタさがあるからこそ語れている物も多い、と感じています。
それに、ライトノベル全体で見ると、他のコンテンツと比べられる中で尖ってきた傾向、みたいなものはあるのではないかと思っています。
ゲームが題材の作品が増えてきたのも、ゲームという読者と近い目線で共感を得ることができる作品だからではないかと。
そうした「わかりやすさ」を武器にした作品や、他には題材をメタなレベルで扱うまでに絞り込まれた(俺の妹、etc)作品など、今「ライトノベル」というフィールドが提示しているのは、そうした過剰さなんじゃないかなとも。
あとはもっと単純に、リテラシを必要とした作品としてではなく、よりさくっと楽しめる作品へと、『商品として』ラノベが提示される事情があるからではないかとも感じますが(悪い意味ではなく)。
非オタクとライトなオタクの境界が薄れて、否応なくライトノベルに求められる位相が変わってきた今、どう定義を捉え直すかは見所でもあるかな、と。
分析的な読みはぼっち系を対象にすることが多くなりましたけど、これは単にそれが目立っているからというだけではなく、その目立ち方が読者層の心象として受け止められてるのではないかと考えたりします。
ライトノベルと言えるかは怪しい物ですが、カゲロウデイズ他のボーカロイド作品なんかも『旧来のラノベと違う』読者を獲得している例でしょうね。
自分語りになってしまうのですが、最近、「ラグナロク」を今更に読みまして、今の異能ラノベがバトルに求めてる文章との差などを感じました。
バトル物にしてはややセンテンスの区切りがまだるっこしい、と感じてしまうのは、今の作品に慣れているからだと思うのですが、ただの文章の流行、こうしたサブジャンル内の時流も変わるものなんだなあと。
作家個人のクセがあるとはいえ、時代毎の作家のサンプルを取ると、やはり変わってるなとは思いますので。
とりとめのない話ですいません。
ただの補足ですので、このコメントは気になさらないで下さいませ。
前回コメントを頂いたのは一年ほど前になりますが、度々こちらを参考にライトノベルを摘んできた者ですので、詳細なお返事を頂けたのが嬉しかったですw
投稿: 名無し | 2013.08.09 23:10
どうも、まあ暇潰し程度の役に立てたのなら良いのですが。
まあ、物事には変化はつきもので、それをなくしたときにジャンルを死ぬのだから、ラノベが先鋭化しすぎているのも悪いことではないのだと思います。先鋭化の果てに袋小路に入り込んで滅びるのかもしれませんが。まあそれで新しく生まれるものもあるかもしれないし、悪い事ではないのでしょう。
投稿: 吉兆 | 2013.08.10 21:53