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2013.08.17

日記(ガッチャマンクラウズについて少々)

・最近、寝不足が続いていたので昼寝をしたら寝汗がすごくて(枕がずぶ濡れ)かえって疲労してしまった。

・『ガッチャマンクラウズ』を観た。ついにはじめと累が出会うことで、何かが始まりそうな予感が出てきた。ここからどうなるのか…。

はじめは躊躇なく装甲を解除して素顔を晒し、累は女装と化粧で素顔を隠す。はじめは何かにつけて「はじめっす!」と自分の名前を主張して、ギャラクターたちは「騎士」や「お姫様」と言った記号化された匿名性に支えられている。これは実に明確な対立項のように見えるけれども、実のところはじめにとっては、化粧に隠した累も、匿名性に潜むギャラクターも”敵”ではない。むしろ好意的でさえあって、そうした部分(はじめにとっては不自然な部分)を含めて”そういうもの”だと思っているようだ。

はじめが決して直感だけで動いているわけではなくて、そこには彼女なりの論理(そして倫理)に基づいて動ていることは明らかだ。はじめが迷わず素顔を晒したのは、人と分かり合うためには、目と目を合わせて会話しなくてはならないという信念のためだ。ギャラックスの利便性、可能性を賞賛しながらもそれに盲目的には受け入れないのも、彼女のシビアなリアリズム(自分の手の届く範囲以上のものに自己を預けない)の賜物だ。

つまり、はじめは徹頭徹尾リアリズムの女であり、彼女の”現実”は強固なものだ。それはある意味、女性的なものであり、そこに”世界”などと言う曖昧なものを”理想”を抱く累の男性的な欲望が立ちはだかる。それが何を意味するのか。

また、はじめを巡る男性として清音の存在があるが、彼は累とは別方向に”現実”が見えてない男性として描かれている。彼は自分がそうであるべき、という理想がまずあって、それに周囲を合わせようとしている。それは世界を見ていないということであって、そのギャップが彼を消耗させていくのだが、あくまでも現実しか見てないはじめと接することで、己と周囲のギャップというものを理解するようになってきている。そうしたギャップを理解した上で、改めて自分がどうであるべきかを考えることは、一見したところ同じ事をしているようでも、内実はまったく違うものになる。

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