『ヴァンパイア・サマータイム』
『ヴァンパイア・サマータイム』(石川博品/ファミ通文庫)を読んでた。本当に良い作品だと思う。
主人公の不眠症と言うか、昼夜逆転してしまった生活サイクルは、彼が現実に対して違和を感じているということで、それゆえに日常から浮き上がってしまう。そんな彼は夜を生きる吸血鬼の少女と出会うことで恋に落ちるわけだけど、ここで面白いのがこの物語の中ではすでに吸血鬼の存在は社会に認められていて、その人口比もほぼ1:1になっている。つまり、夜しか生きられないが、しかし、ごく当たり前の平凡な存在となっているのだ。だから、吸血鬼の少女は、決して非日常の存在ではなく、日常(昼間)の地続きの存在として登場してくる。
彼女との関係もコンビニの店員とお客だし、出会いに至っては横断歩道でばったりと出会うという特別さのかけらもないもので、本当のこの少女は日常そのものなのだ。しかし、それでも、少女は決して昼間の世界に出てくることは出来なくて、昼間部に通う主人公と夜間部に通う彼女とは、まるでコインの裏表のように交わることはない。昼夜が交わる黄昏時に、登校前の彼女とコンビニのバックヤードで働く主人公の束の間の逢瀬が行われるだけ。その届きそうで届かない向こう側への憧れと失望、そうしたものに揺れながら、それでも恋に振りまわされる二人の姿の鮮やかな喜びと、隠微な(淫靡な)官能が入り混じる姿があまりにも美しく、悲しい。
結局のところ、少女が昼間の世界を訪れることはない(主人公が夜の世界に訪れることはある)。一方で少女の友達があっさりと昼間の教室に”越境”してしまうところがすごく面白くて、決して両者は交わらない存在ではないことを予感させるものの、”主人公と少女”はの関係は、むしろそちらへは行かないことを意味するのではないか。少女は真面目でレールを外れることを恐れていて、昼間と夜の境界を超えることの困難さが幾度も語られている(最後も少女は主人公を”連れていく”ことは出来ない)。だからこそ、昼間から夜への越境を容易く(少女にはそう見える)行った主人公に惹かれたのだとも言えるかもしれない。つまり、これは悲恋物語であるのだろう。
しかし、悲恋を悲恋として描かないところがこの作者の面白いところで、どんなに抒情的で繊細に描いても、ちょっとしたところでギャグを入れたり(しかもかなりコテコテ)するところで、しかも、それが物語の抒情をすこしも妨げないというところは特筆に値する。恋に酔いしれていても、ふと正気にもどってそんな自分が恥ずかしくなったりする、これはそういう気持ちの振れ幅がきちんと描かれているということで、そうして心が振れているからこそ、そこの感情のリアルがある。人間はわりと気持ちが上下左右に散らばっているものであって、そうした気持ちの運動力を描くことで、主人公たちが単なる書き割りではなく、躍動する心を持った存在であると思えるのだ。
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