『コロロギ岳から木星トロヤへ』
『コロロギ岳から木星トロヤへ』(小川一水/ハヤカワ文庫JA)
プロローグにおいてカイアクの発した言葉、「謙虚で優しい気持ち」、おそらくこれがこの物語の重要、と言うか、これは”そういう話”なのだろうと思う。「謙虚で優しい気持ち」を巡る物語、それはつまり「想像力」についての物語なのだ。
想像力と言うのは、現実的には地続きにはならない発想に飛躍する力のことだ。例えるなら、人間はタイムマシンを発明することは未だに出来ないが、しかし、タイムマシンがどういうものなのかを知っている、と言うことだ。そんなことを知っていたとしても現実的には何一つ役に立たないし意味もないのかもしれないが、それでも人々はタイムマシンを”想像”してきたのはなぜかと言うと、もしタイムマシンが本当にあったとしたら人間は何が出来るのだろう、と想像したのだ、と言うことが出来るだろう。それを考えることで、人間は時間について思いを馳せ、過去や未来を変えることの是非について思考する。それはただ現実を生きているだけでは、決して思いもつかないことだ。つまり、”自分には直接関係のない出来事について考える力”、それが想像力と呼ばれるもののことなのだ。それはとても優しい考えだと言えないだろうか。
そういう意味で、この物語に登場する人々は想像力が豊かな優しい人たちだ。200年先の、未だ生まれてもいない少年たちの安否を気遣えるコロロギ岳の科学者たちは、その「謙虚で優しい気持ち」を十分に持っている。登場する女性科学者が200年後の少年たちの関係をBL的に妄想するシーンがギャグっぽく挿入されるけれども、これもまた想像力の一つのあり方として描かれているように思う。まだ見ぬ相手の関係を想像し、感情移入すると言うのは、実のところ恐ろしく高度な精神活動であって、それをなくしては人間が他者を気遣うことは出来ないだろう。あれは確かにギャグではあるのだが、人間の想像力が持つ力の偉大さを描いている場面でもあるのだ(たぶん)。
結局、コロロギ岳と木星トロヤはすさまじく迂遠なやりとりしかしていなくて、お互いがどういう人間なのかを知ることは最後までなかった。けれども、それはお互いの信頼を損なうものではまったくなくて、むしろ一度たりとも信頼が揺らぐことはなかった。お互いが精一杯に自分のやるべきことを実行し、相手もそうであることを疑わない。これがただのご都合主義や、空疎な理想主義に陥らないで済んでいるのは、まさに想像力の賜物だ。相手が何を考えているのか、そしてどんな判断をする人間なのか”想像”すること。それは実際の相手がどうであるかはあまり関係なくて、ただ想像することで見えないどこかに誰かが存在していることを実感すると言う奇跡、あるいは必然が描かれているのだ。それこそが「謙虚で優しい気持ち」が持つ意味であって、それがある限り人間は世界に失望することはないのだ、と言う作者の意識が見えるような気がするのだった。
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