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2013.07.30

『コロロギ岳から木星トロヤへ』

コロロギ岳から木星トロヤへ』(小川一水/ハヤカワ文庫JA)

プロローグにおいてカイアクの発した言葉、「謙虚で優しい気持ち」、おそらくこれがこの物語の重要、と言うか、これは”そういう話”なのだろうと思う。「謙虚で優しい気持ち」を巡る物語、それはつまり「想像力」についての物語なのだ。

想像力と言うのは、現実的には地続きにはならない発想に飛躍する力のことだ。例えるなら、人間はタイムマシンを発明することは未だに出来ないが、しかし、タイムマシンがどういうものなのかを知っている、と言うことだ。そんなことを知っていたとしても現実的には何一つ役に立たないし意味もないのかもしれないが、それでも人々はタイムマシンを”想像”してきたのはなぜかと言うと、もしタイムマシンが本当にあったとしたら人間は何が出来るのだろう、と想像したのだ、と言うことが出来るだろう。それを考えることで、人間は時間について思いを馳せ、過去や未来を変えることの是非について思考する。それはただ現実を生きているだけでは、決して思いもつかないことだ。つまり、”自分には直接関係のない出来事について考える力”、それが想像力と呼ばれるもののことなのだ。それはとても優しい考えだと言えないだろうか。

そういう意味で、この物語に登場する人々は想像力が豊かな優しい人たちだ。200年先の、未だ生まれてもいない少年たちの安否を気遣えるコロロギ岳の科学者たちは、その「謙虚で優しい気持ち」を十分に持っている。登場する女性科学者が200年後の少年たちの関係をBL的に妄想するシーンがギャグっぽく挿入されるけれども、これもまた想像力の一つのあり方として描かれているように思う。まだ見ぬ相手の関係を想像し、感情移入すると言うのは、実のところ恐ろしく高度な精神活動であって、それをなくしては人間が他者を気遣うことは出来ないだろう。あれは確かにギャグではあるのだが、人間の想像力が持つ力の偉大さを描いている場面でもあるのだ(たぶん)。

結局、コロロギ岳と木星トロヤはすさまじく迂遠なやりとりしかしていなくて、お互いがどういう人間なのかを知ることは最後までなかった。けれども、それはお互いの信頼を損なうものではまったくなくて、むしろ一度たりとも信頼が揺らぐことはなかった。お互いが精一杯に自分のやるべきことを実行し、相手もそうであることを疑わない。これがただのご都合主義や、空疎な理想主義に陥らないで済んでいるのは、まさに想像力の賜物だ。相手が何を考えているのか、そしてどんな判断をする人間なのか”想像”すること。それは実際の相手がどうであるかはあまり関係なくて、ただ想像することで見えないどこかに誰かが存在していることを実感すると言う奇跡、あるいは必然が描かれているのだ。それこそが「謙虚で優しい気持ち」が持つ意味であって、それがある限り人間は世界に失望することはないのだ、と言う作者の意識が見えるような気がするのだった。

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2013.07.16

『寂滅の剣 日向景一郎シリーズV』

寂滅の剣 日向景一郎シリーズV』(北方健三/新潮文庫)

日向景一郎シリーズもこれで完結か……。単行本が出ていることは知ってたけど、文庫版が出ていることに気が付かなかったので、最近になってようやく読んだ(と言っても読んだのはけっこう前だけど)。最後の最後までストイックと言うか、失われたものは決して取り戻せずに、ただ受け入れるしか出来ないという救いようのない話だったなあ。けれど、それが駄目と言うわけではなくて、そのどうしようもなさがむしろハードボイルドな美学に繋がっているとも言えるので、まあ北方健三先生らしいよな、と思った。

あ、ちなみに自分は北方作品の熱心な読者と言うわけではなくて、ハードボイルド小説と時代小説をいくつか読んでいる程度の読者なんだけど、この無駄をそぎ落とした文体や、ストイックな美学(それはカッコつけと表裏ではあるが、なに男のダンディズムなどやせ我慢のカッコつけ以外のなにものでもない)がわりと好きなのだった。

さて、最終巻である『寂滅の剣』においては、シリーズを通して描かれてきた景一郎とその弟、森之助の対決が描かれる。この二人は決して憎しみ合っているわけではなく、それどころが景一郎は弟が超一流の剣客となるよう導きさえしている。森之助も超人的な剣腕を持つ兄を畏れつつも憧れの存在としてみなしている。その二人が殺しあう理由はただ一つ、森之助の”父”、名前も同じ森之助を、景一郎が殺したからだ。父・森之助は、景一郎にとっても父があるはずなのだが、しかし、そこには余人には測りがたい過去から続く因縁の結果として、景一郎は父を殺した。そして、彼は弟を育てる。「20歳になった時、父の仇討ちのために、自分と戦え」と言い聞かせながら。

江戸の町で焼き物を作りながら日々を過ごす景一郎と、その背中を見て育つ森之助。彼は、いつかは兄を殺さなくてはならないと思いながら幼少期、青年期を過ごしていく。この二人の関係は恐ろしく歪つであり、それでいながら静謐なものでもあった。己の運命を嘆くようなものとは無縁の生活であるようだった。なぜなら景一郎は、人間的であるものを削ぎ落とた”けだもの”であるからだ。”けだもの”に育てられた森之助もまた”けだもの”として育つ。彼らには怒りや悲しみ、あるいは憎しみから離れている。彼らはただ生きるために戦い、生きるために食らう、ただそれだけの生き物なのだ。なぜ戦うのか、それは彼らにとっては些末な問題でしかないのだった。

そんな二人の姿は、周囲の人間たちに様々な波紋を投げかける。人は、彼らを無視することが出来ない。なぜなら、彼らは人の姿をした”けだもの”だからだ。否応なしに彼らは人を惹きつける。ある人は彼らに魅了され、彼らの人生を見守りたいと願う。ある人は彼らを憎み、彼らの破滅を見たいと狂う。ある人は生と死を超越した生き方に嫉妬する。ある人は彼らのあり方を憐れみ、あるいは悲しむ。そのような人々に触れて、景一郎は時に彼らを守り、時に容赦なく斬り捨てる。森之助もまた、それを学んでゆくのだった。

そしてさまざまな屍と血を乗り越えて、二人はついに向かい合う。背中を見続けた兄を、背負ってきた弟が刀を構える。それを見守る人々の顔は複雑で、しかし、誰も止めるものはいない。止められるものではない。永遠にも似た一瞬の後、すべては終わった。二人は一人となり、彼はもはや”けだもの”ではなくなった。”けだもの”であったはずの男は、己が失ったあまりにも大きなものの、その空白を抱える。彼はただ、”失う”ということを得ただけで、それ以外のすべてを失ったのだった。

この物語は、そのようにして終わる。なにも求めず、ただ失うことによって生きてきた男は、失うことによって、再び生まれた。それが救いであるのかどうか、それはこれからも生きて、定めなくてはならないのだろう。

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2013.07.10

『カンピオーネ!(14) 八人目の神殺し』

カンピオーネ!(14) 八人目の神殺し』(丈月城/スーパーダッシュ文庫)

相変わらず、奇人変人カンピオーネさんの奇人変人ぶりを愉しむ話になっている。どう考えてもまつろわぬ神よりもこいつらの方が頭がおかしい。まあ迷惑度では(そんなに)高くないのでその分マシなんだろうね、などと思っていた時期が自分にもありました。

今回登場するカンピオーネはアイーシャ夫人で、彼女は天然でお人好しと言う人間としては非常な美点の持ち主ではあるのだが、これが、彼女の持つ権能『妖精の通廊』と組み合わさると非常に危険な存在となる。過去や異界に移動できるその能力を持ったアイーシャ夫人は、天然ゆえに過去改変の怖さを知らず、お人好しゆえに介入を躊躇わない。こんな人間に歴史が握られているとか恐ろしい話ですね。

まあ、カンピオーネが迷惑な存在であるのはいつものことで、そうしたカンピオーネの迷惑ぶりを愉しむ作品であると言っても過言ではない。もう一人現れた、過去世界のカンピオーネ、ウルディンはいわゆる分かり易い意味での戦国世界の英雄と言う感じで、これはこれで面白そうであるのだが、今回のエピローグで、さらにドニの介入が明らかになることによって、まさに時代は(なんだ時代って)戦乱の様相を呈しているのだった。

これ、次回から四人のカンピオーネがローマ帝国を舞台に国取り合戦をする展開になって、きっとフン族の大移動と関わってくるんだろうな。ローマ帝国衰亡の理由と言われるフン族の大移動だけど、きっと本当の理由はカンピオーネが帝国を分裂させ、ボッコボコに殴り合うからなんだろうぜ!つまりカンピオーネ三国時代の幕開けである(アイーシャ夫人は積極的に戦争をするタイプではないので例外です)。

次回はどんなふうに「ローマ帝国涙目(笑)」になるのか楽しみですね。

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