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2013.06.30

『デスニードラウンド ラウンド1』

デスニードラウンド ラウンド1』(アサウラ/オーバーラップ文庫)

アサウラ先生のガンアクション物とはずいぶんと懐かしく、また、この人間の命や倫理観が妙に乾いている感覚もまた同じように懐かしいいのだった。この乾いた感じは人の生死が軽いと言うことではなくて、単に人が生きること死ぬことが当たり前のものとして扱われているということであって、それが正しいかどうかはともかくとして、少なくとも読者に感動を強制しようとするものとは無縁であるというのはそれだけで好ましいものだった。

そうした恬淡さは物語上にも表れていて、主人公はかなり悲惨な状況に陥っているのだけど(内臓を売るか、売春するか、その辺と同レベルで悲惨)、それなりに楽しくやっているように見えなくもないのだが、それはただそう見えるだけでやっぱり悲惨なものなのだ。ただ、その悲惨さに悲惨がってない、と言うと変な日本語になるのだけど、まあ別に苦しい時に苦しんで見せる必要は実はないよね、みたいな。まあ、それと彼女を陥れているおっさんに悪意が見えないのも大きくて、それがこの物語の恬淡さを支えていると言ってもいいのだろう(勿論、人間とは悪意なくしても他者を破滅させることが出来る生き物であるのだが)。

前半の、悲惨な状況なのにあんまり悲惨には見えないのに、よく考えなくてもやっぱり悲惨なヒロインが前向きに頑張っているシーンもけっこう良かったけれども、後半のトンデモバトルシーンもなかなか良かった。いきなりマジックとか言い出したキャラの超人的能力で真面目にガンアクションをしている主人公たちを蹴散らしていく展開には驚かされるというか、ギャップが面白かった。やっていることは本当に生きるか死ぬかの極限バトルなのだけど(名無しのモブたちは悲壮でカッコイイ覚悟や信念の中で死んでいく)、しかし、表に出ているのはギャグでしかないというのは、やはりベン・トーの作者らしいと言えるだろう。そして、ベン・トーで見せたシリアスなギャグ、あるいはギャグっぽいシリアスと言うのは、作者の元来持っているひねくれ具合と言うか、そういうのの現れなのだな、と思った。

その結末もまた、苦味の強い残酷さを描きながら、苦いままで描かないようなところがある。しかし、やはり実際には苦いし残酷であることにはまったく変わりなく、その事実をほんの少しだけずらして描くようなところが、とても面白いと思うのだった。

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2013.06.20

『世界征服』

世界征服』(至道流星/星海社文庫)

第一印象としては、同作者による『羽月莉音の帝国』のプロトタイプと言う印象だが、それは『帝国』よりも劣っているというわけではなくて、むしろ濃縮された今作『世界征服』の要素を分解、再構築されたのが『帝国』なのだという印象だ。むしろ物語の疾走感、飛躍っぷりにおいては『世界征服』の方が優れているという言い方も出来る(もっともそれは序盤の展開だけで、『帝国』の後半の展開は、長く続いた物語特有の大河ドラマのようなうねりが生まれており、あれはあれで得難いものだ。だけどまあ、それはさておく)。世界征服を最短で行うと言うのは、現代において世界≒経済と言う認識があってのことで、意図的に政治的な要素は排除されているのだが、この点は『帝国』との大きな相違点かもしれない。あくまでも金の流れ、人の流れだけが世界である、と言う極端にもほどがある認識を元に物語が動いていく感覚は、確かに独特の圧縮された物語が感じられる。

ライトノベル的に言うと、ヒロインの凛と言うキャラクターの強烈さがまず挙げられるだろう。彼女は『帝国』における莉音と恒太と柚の役割を一人に集約されたようなキャラクターだ。勿論これは逆で、彼女をモデルとして三人が構築されたということだろう。だが、そのキャラクターはあまりにも万能であり、超人過ぎであって、およそヒロインとしては突き抜けすぎている。つまり、あらゆる苦難を本人の力だけで突破出来るような、およそ人間としての弱みのないキャラクターなのだ。それではヒロインとして機能しているのかと思われるかもしれないが、これが存外に、なかなか面白いキャラクターであると思うのだった。彼女は本当に天才的であり、その天才性に相応しいほどにエキセントリックな人格でもある。それはほとんど性格破綻者スレスレではあるのだ。だが、よく考えて欲しい、ライトノベルのヒロインの大半は、そもそも性格破綻者ではなかったか、と(暴論)。つまり、彼女はあまりにもキ○ガイ過ぎるために、結果的にライトノベルヒロインとしての精度が高いのだ。その言動のほとんどは凡人である主人公には想像もつかないレベルの意味があり、行動のほとんどにも彼女独特の意思のもとに意味を持つ。それを主人公は翻弄されるしかないのだが、しかし、その独特の振る舞いと言動が凛の魅力であることは疑いえないだろう。

例えば、彼女の癖の一つとして、常に”主人公と手を繋ぐ”というのがある。二人で外出するとき、彼女は当たり前のように手を繋ぐのだが、しかし、それが恋愛感情だとか、あるいは親愛の現れであるかとか、そういうものでは(たぶん)ない。少なくとも物語中では明らかにされない。それがどのような意味を持つのかはわからないが、彼女の行動には常識、あるいは一般的な論理では計り知れない”破綻”があって、それが彼女を魅力的なものにしているように思う。つまり、”ラノベ的にキャラが立っている”のだ。これは作者が最初からラノベヒロインとして構築しているというよりも、彼女のキャラクターが過剰すぎるがゆえに、”結果的に”ラノベヒロインとして成立しているように思う。つまり、彼女の人格的偏りは、彼女の完璧さを損なうものであり、損ないがあってこそ人間的である、と言うことだろう。

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2013.06.11

『魔法少女育成計画 episodes』

魔法少女育成計画 episodes』(遠藤浅蜊/このライトノベルがすごい!文庫)

今までは極限状況下での魔法少女の壮絶な戦いを描いてきたシリーズだったけれども、今回は魔法少女たちの日常的な活動が描かれている番外編的な内容のようだ。魔法少女としての本来の活動についての話なのに、『番外編』になってしまう言うあたりに面白味を感じてしまうのだが、それはまあ置いといて。それにしても、今更になって魔法少女たちの明るく前向きでキュートな活躍が描かれることの意味は、なるほどいろいろと考えさせられるものがあった。本編において無残な死を遂げる魔法少女たちに、この物語集のような輝かしくも優しい瞬間があったことを描写することは、彼女たちの死を際立たせることになるではないか。しかし、それと同じくらい、”だからこそ”描く必要があったとも思う。それは無残な死を遂げる少女たちの日常を見ることで悪趣味で暗い喜びに浸る、と言うだけではないくて(そうした喜びを感じることは否定はしないけれど)、ここで描かれるからこそ”救い”になるのではないか、と言う想いだ。

この短編集、と言うか掌編集では、本編のバトルロイヤルでは欲望や愛憎が暴走していた魔法少女たちの本来の姿が描かれることになる。本来の姿と言うのは、絶望や恐怖で歪められていない姿、と言う意味だ。人間、追い詰められた時に本性が出る、みたいな言い方をされる時があるけど、個人的にそれが”その人間の真実”とはまったく思えない。それは単に人間の生存本能が表に出ているだけであって、本質とはまったく異なるものだと思う。本能で生きるだけなら、それは動物と変わらないのだし。”人間の”本質というのなら、それは理性とか知性とか、あるいはそう”優しさ”とか、そういうものこそが人間だと言える。人間だけが本能の抑圧から(完全ではないにせよ)離れてそれらを発揮できる存在なのだから(もちろん、極限状況下においてさえ理性や優しさを持ち続けることは素晴らしいことであり、それは誰にでも出来ることではないこと。それ自体は人間の尊厳や素晴らしさであるけれども、それが出来ないからと言って見下げるようなことではない。それはまったく別の話なのだ)。

エピソードの中で、魔法少女たちの華やかな活躍や、何でもない日常、あるいは凄惨な非日常の中で過ごす姿が活き活きと描かれている。魔法少女たちの喜びや悲しみや、時に困惑したり怒りをぶちまけたりしながらも、それでも彼女たちは彼女たちなりに生きた。その生のほとんどはすでに失われてしまっているとしても、それでも少女たちは生きていた。彼女たちの最後は、決して生前を肯定できるものではなくて、恐怖と絶望と憎悪の中で惨めに死んでいったものたちがほとんどであっただろう。死んでしまえばすべては終わり、それはもうどうしようもないことである。しかし、彼女たちが死んだという事実は変わらなくても、その”意味”を変えることは出来るのだ。彼女たちは無残に、そして無意味に死んだかもしれない。しかし、それでも、彼女たちには光り輝くような瞬間があって、その光を誰かのために使っているのだ。

例えば、ルーラと言う魔法少女がいた。彼女は高圧的でヒステリックで自己中心的な、実に問題のある人物だった。彼女は自分が生き残るために周囲を踏みつけにすることを躊躇わず、そしてその性情ゆえに足を救われ無様に死んだ。しかし、その性情は、同時に責任感の強さにもつながるものであって、魔法少女になって右も左もわからないでいた”たま”を救ったのは間違いなくルーラでもあった。スイムスイムを凶行に走らせたのも、結局はルーラのそういうところが影響を与えた結果であろう。彼女は確かに問題の多い人物であり、なんの同情も出来ない死を遂げた。その事実は変わらないだろう。しかし、それでも彼女は魔法少女であり、彼女なりに人を救いもしたのだ。そこに”意味”がある。ルーラの死そのものは不可逆であっても、彼女の死の意味は変化するのだ。彼女は何人かの人を助けて、そして死んだ。そういう”意味”が、新しく生まれる。

そうして、人間は、”生きた意味”を獲得していく生き物なのだろうと思うのだ。

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2013.06.05

『なにかのご縁―ゆかりくん、白いうさぎと縁を見る』

なにかのご縁―ゆかりくん、白いうさぎと縁を見る』(野崎まど/メディアワークス文庫)

野崎まどと言えばどぎついまでのケレン味とひそやかな繊細さ同居した不思議な作家と言う印象がある。弱い人間や選ばれなかった凡人の悲しみや切なさをリアルに描きながら、一方でそうした地に足がついた描写を一瞬で粉砕するようなインフレ感が漂うナンセンスさを描きもすると言うか。ナンセンスとリアル、その二つのバランスが絶妙と言うか絶妙な噛みあわなさが、面白い、と言う作家なのだと思う。

今回の作品は一見したところ、そうしたケレン味が息を潜めているように見える。一部に異常な天才描写があったり、うさぎさんと言う不思議設定もあったりするものの、全体的に見れば現実的な登場人物たちによる繊細な人間模様が描かれている。これはそうした平凡な人々の”縁”をめぐる小さな奇跡の物語と言えるのだろう。この辺りは作者らしいポップでありながら上品なセンスでまとめられていて、これは本気で一般層へ向けて勝負をかけてきているな、目指すはドラマ化だな、と思わされるものがあるのだけど、まあそれは置いておいて。ともあれ、とても爽やかにまとめられているように見えるのだった。

とは言え作者らしい”毒”がないかと言えばそんなこともなくて、むしろ上品な中にもほのかに見えるそれが不思議な印象を与える。この作品の主軸となく”縁”というものがあるのだが、これは人と人を結びつける強い力としてあって、作中の人々はすべてそれに翻弄されることになる。しかし、この”縁”というものは、あくまでも人との結びつきであって、それ以上でもそれ以外でもない。つまり、必ずしも”幸福”とは関係がないようなのだ。

考えてみると、作中の登場人物たちの”縁”は、あまり本人たちの問題解決になっていないことに気づく。”縁”で結ばれたとしても、例えば友人との別離をなかったことに出来るわけではない。”縁”があったからと言って、必ずしも恋が成就するわけではないのだ。それはただ”縁”が出来たというだけで、そこからどうなるのかは誰にも予想が出来ないし、予想するものでもないのだろう。なにしろうさぎさん自身、縁というものはわりと簡単に結ばれたり切り離されたりするものらしいので、それに絶対性を見出すことも難しいのだし。

つまるところ、”縁”があるから幸福なのではなく、縁を幸福なものとしてとらえることによって、初めて幸せなものとなりうる。つまり、結局のところそれは”気の持ちよう”なのだろう。そうした恬淡さ、突き放した感じは確かに今まで他のシリーズを読んできた作者のそれに通じるものがある。大いなる存在に容易く破滅させられていくことも、”縁”というわけのわからんものに人生を左右されることも、実際にはそんなに変わらない。それは受け止め方で絶望にも希望にもなりうる。結局のところ、幸福も不幸もコインの裏表のようなもので、誰かにとっての恋の成就が、誰かにとっての失恋であるようなものだと思う。つまり、幸福か不幸かはそれほど問題ではなく、それらにどう向き合うのかが大事なのだ。

(と思うのだが、それが作者の言いたいことかどうかは知らない。ただ、そう考えるのが前向きだと自分は思うだけなのだが)

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