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2013.05.26

『下ネタという概念が存在しない退屈な世界(3)』

下ネタという概念が存在しない退屈な世界(3)』(赤城大空/ガガガ文庫)

性的知識が禁止されたディストピアにしているだけに、あっさりと活動の枠が広がってきた。一巻はそれでも学園モノの枠ではあったけれども、二巻でそれが怪しくなって、三巻ではもう完全に世界と戦う革命家の話になってきている。もちろん世界などというものは形のあるものではなくて、もっと曖昧でなにが敵なのかわからない化け物のような存在で、主人公たちは何と戦えばいいのか良くわからないところで戦っている。そういう雰囲気みたいなものが出てきたのが良かった。

結局、主人公たちが自己の生存をかけて戦っているディストピアと言うのは、どこかにわかりやすい悪がいるのではなく、ただ利害の調整や妥協の結果として生まれているもので、その戦いはどこか空虚な空回りをしている感触がある。それは真剣にやればやるほどに滑稽なものとなってしまうのだが、主人公たちはその滑稽さと正面から逃げようとはしない。おそらく、世界と戦うというのは必然的にそうした滑稽さを伴うものであって、それとどのように向き合うのか、と言うことが重要なのだろう。

その滑稽さは、つまりどんなに必死になったとしても”敵”に相手にされていないことから生じるものだ。つまり、彼らのやっていることは、結局のところ一人相撲でしかないのだ。彼らがやったことは、結局のところ世界になにほどの影響を与えたのか良くわからないし、もしかしたらなんの影響も与えてないだけかもしれない。主人公たちは常にそうした疑いの中、それでも行動をし続ける必要がある。

滑稽であるというのは徒労感につながり、徒労感は用意に失望へ変化する。これは明確な結果、勝利を求めるほどに強く作用する。だから、彼らの為すべきことは”勝利”ではなくて、ただ行動を起こしたことが巡り巡ってどこかにつながることを祈ることだ。つまり、勝利を求めないこと、そもそも”世界は戦う相手ではない”と言うことなのだ。だから戦いは終わることがないし、終わってはいけない戦いと言うことでもあるだろう。

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2013.05.24

『一年十組の奮闘(3) 絶対孤独のアンチテーゼ』

一年十組の奮闘(3) 絶対孤独のアンチテーゼ』(十文字青/MF文庫J)

大変打ち切り臭溢れる終わり方だったけど、最後まで作者らしいポップさがあって良かった。ポップと言ってもそれは単にオシャレと言う意味ではなくて、その内側に泥臭いまでの劣等感が潜んでいて、その上であえてポップに振る舞っているという感じ。少なくとも自分が好んでいる十文字青作品にはすべてそれがあって、そうした泥臭さがあるからこそポップに振る舞うことの切実さが描く価値があると思うのだ。

まあ、今回は主人公のテーマに決着をつける必要もあったせいか、非常に物語が圧縮されている感じがあって、そのせいで作者特有のドロドロとしたポップ感があんまり出ていなかったようではある(十文字青の作品は長ければ長いほどに根底にあるドロドロが熟成していくので、あまりライトノベルには向いているとは思えないのだが、それはまた別の話)。シリーズのヒロインらしきマリカは、結局、今回も脇役で終わってしまったし、主人公を描くことで精いっぱいだったのかもしれない。

ただ、みんなに仲良くして欲しい、という素朴な、それでいてこの上なく我儘な欲望を持っている主人公が初めて相手に殺意を抱くと言う展開はなかなか好きな展開だし、憎悪を感染させるイラカと言う少女の不気味さはこの上なく描かれているので、これはこれで悪くないと思う。ただ、今回の話だけだとイラカと対立しただけの話なので、ここから止揚されていくはずの物語こそ本番であるはずなのだ。憎悪と愛と言うのは対立するものであるけれど、重要なのはそれを継続することだ。一度の対立ですべてが決着する事柄などほとんどなくて、”対立から生まれる”ものを描くのが物語の持つ意味だと思うのだ。

たぶん、作者は”向こう側”について描くつもりがあって、その種がいくつも見えるだけに、ここで打ち切りと言うのはつらいものがある。なんとか続いてくれないものかと思いつつ、それは読者が考えるべき事かもしれないとも思うのだった。

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2013.05.14

『大日本サムライガール(5)』

大日本サムライガール(5)』(至道流星/星海社FICTIONS)

個人的に片桐杏奈はラスボスになるのではないかと思っていたのだけど、実はそうでもないのかもしれない、と思った。どうも杏奈は何を考えているのかわからなくて、日毬に対して最初から好意的であるという描写はあったのだけど、どうも本心が明らかにならない。二重三重に存在する”片桐杏奈”と言うペルソナがあまりにも強固であり、美城春菜が何を考えているのかぜんぜん見えてこないのだった。

個人的な印象を言わせてもらうと、彼女のようなタイプはこわいし、正直リアルにはあんまりお近づきになりたくない。何故かと言うと、あの手の自己制御が強い人間は、必ず周囲を自分の都合のよいように動かしていくため、近くにいるといつのまにか”駒”にされてしまうことさえあるのです(実体験)。実際、今回の話は良い話みたいに描かれているけど、結局のところ杏奈の一人勝ちという感じだ。彼女が主人公や所属事務所の社長を巻き込んで、自分の思った通りの結果を出した。まったくさすがだと言わざるを得ない。

ただ、個人的に面白いと思ったのは、そうした彼女のペルソナの強さを、作者はむしろ肯定的に描いているところだ。ほんと、作者と自分は生きている世界が違うな、って感じ。作者の世界観(物語の設定と言う意味ではなく、個人として持つ世界への視点のこと)では、建前と本音は常に切り離しているもの、むしろ建前こそが本物になりかねない、というような認識があるように思える(まあ、自分がそういう世界にはあまり踏み込みたくないタイプなので、ちょっと偏向している可能性は無きにしも非ず。あまり真に受けないでください)。

自分はそういう価値観に対しては苦手意識と言うかうんざりしているところがあるので、杏奈がラスボスであるのがもっとも据わりが良いのだけど(他者を駒にして操るフィクサーとしての敵と言う意味で)、しかし、至道流星という作家にとって、杏奈は否定するのではなく味方とするべき存在であるのかもしれない、とも思う。虚々実々が入り乱れる世界に生きるのであれば、虚構さえもリアルとして受け入れていかなくてはならない。それは自分にとっては遠い考え方ではあるものの、そもそもが虚実入り乱れる政治とメディアの話をやっていることを考えれば、この選択も十分に意味があるのだろう。そういうまったく違う価値基準で描かれているところが面白いなあ、と思ったのだった。

(まあ、だから俺は政治とメディアが嫌いなんだけど、それはどうでもいいですね)

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2013.05.05

壁の中の街

最近、すっかりブログを放置気味になってしまっていたが、それもこれも『Fate/extraCCC』のせいである。修理に出していたPSPが戻ってきたのでプレイしてみたところ、ふと気が付けば一週間くらいぶっつづけでやってた。てっきり番外編かと思ったら、今回はガチ。ガチすぎるFate。RPGのくせに初めての戦闘まで二時間かかるという、RPGの定石など完全放置した異形のゲーム。それが『Fate/extraCCC』。Fateシリーズのファンで、前作をプレイしたことがある人はマストバイ。逆に前作をプレイしていない人はやってはいけない。内容がまったく理解出来ない。詳しい内容はまた後日に書きたいと思う。今日はまた別の話。

実はGW中に友人と温泉へ行った。ブログの更新を放置していたのはこれのせいでもある。場所は武田信玄ゆかりの地である甲府。そこの山に分け入ったところにある温泉宿だ。やたらと不便なところにあるせいか、静かで人も少ない穴場めいたところなのだが、まあそれは別にいい。とにかくいろいろ刺激になった。別に刺激的な場所であったわけではなくて、見知らぬ土地と言うのはそれだけで刺激的なもの、という意味だけど。

甲府周辺は四方を山で囲まれている盆地になっていたのだが、その周囲の山と言うのがそれほど高いわけでもないのにひどく峻厳な印象があった。山(と言うよりも”壁”と言った方がいいのかもしれないが)は鋭く垂直にそびえ立っているように見えるのだが、これはおそらく木々の密度が凄まじく高く、それが威圧感めいたものを感じさせたのだろう。これは自分の生活県内ではあまり見かけないもので、奇妙に印象に残った。

周囲を眺めようと高台に上ってみると、周囲の山がくっきりと見えた。それほど高い建物がなく、せいぜい駅前周辺のテナントビル(あまり店舗は入ってない)がそびえ立っているぐらいで、山のふもとまで見渡すことが出来た。そうして見るとそこは本当にぴったりと山に囲まれた場所で、ここから出るためにはトンネルを使うか山道をゆくしかないのようだ。遠くに霞んで見える山は、その向こう側への想像力を不思議なほどに沸かせない。と言うより、その山を境にして世界が切り替わっているような印象さえ受ける。世界はこの内側にしかないのではないか、そう言った感覚は、実のところ地方都市を舞台にした小説で幾度も読んだことがあるのだが、そうした想像力の端緒がここにあるように思えたのだった。

おそらく、この街では隣町へ行くことでさえも、自分が考えているそれとは意味が異なるのだろう。自分にとって隣町とは、きっちりとした境目もないままに、いつのまにか渡り行きてしまうものなのだが、ここでは山を越えるという厳然とした境界があるのだ。そこでは、自分が持っている”隣町へ行く”と言う言葉とはまったく異なる物理的、心理的な意味を持っていると言うことであり、同時にそこに住む人々の時間的な意味も異なるということになる(山に囲まれていないところに住む自分の一時間と、そこでの一時間は、出来ることも行動範囲も異なる)。

そんなことを考えながらひたすら延々と歩いたのだった。宿から送迎バスもあったのだが、なんとなく歩きたい気分だったのだ。もっとも、途中で山道に入ってからは急勾配が続き、その選択にいささかの後悔を覚えたものだけど(一緒に歩いた友人と一緒に愚痴りながら歩いた)。しかし、ちゃんと舗装された道路を歩くだけでもこれほどなのだから、山の持つ意味と言うのは本当に大きなものなのだな、とも思った。

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『マグダラで眠れ (3)』

マグダラで眠れ (3)』(支倉凍砂/電撃文庫)

無垢であり無力なヒロインであったフェネシス。彼女は主人公のクースラに翻弄され、時に導かれてきた。クースラのフェネシスに対する態度は極めて紳士的かつ誠実なもので、彼女を愛でるのではなく成長を促すことが第一にあった。社会に決して受け入れられることない烙印を背負った少女を、受け入れられないままに立ち向かう武器を与えるようとしてきた。それは他人を疑い、騙し、害するという、元来が清らかな性質を持つフェネシスにとってはもっとも縁遠い行為。だが、自分の身を守るためにはどうしても必要なことだ。それは、あるいはフェネシスの最大の美点、他人を信じること、それを汚す可能性もあったのだが、それは必要なことでもあった。

クースラはフェネシスの手を取って、汚泥の中から引っ張り上げたが、彼は少女を汚泥から遠ざけるだけでは駄目だということを理解していた。なぜなら彼が少女を引き上げた手はいつまでも上げ続けていることは出来ないからだ。人間には限界があり、クースラは”まだ”お姫様を守護する騎士ではない。いつかは少女を汚泥に降ろし、自分の足で歩かせなくてはならないからだ。クースラの少年のような夢想は、合理と言うシステムを駆動させるエンジンであったが、それゆえに夢想に溺れることを許さないのだ。

クースラはフェネシスを教育する。己の価値観と哲学を少女に教えることで少女は彼の思考を体得していく。純粋な聖女から、汚れた俗界の錬金術師へと変化していく。それまでの彼女を、彼にとって”正しい”と思われる方向へ誘導していく。それは教え手の恣意によって人間を作り替えることであり、ひどく重い責任を伴うものだ。なぜなら教育とは何かを与えるだけのものではないから。例えばクースラはフェネシスの”清純”を奪った。無垢で無力であったがゆえの美しさを、クースラは永遠に奪ったのだ。だからこそ、教え手には責任がある。それは生徒の結果に責任を持つということだ。生徒が正しいとしても間違っているとしても、あるいは勝利しようとも敗北しようとも、そのすべての結果を受け入れること。たとえ、それが自身に都合が悪いことだとしても、それを受け入れることが、生徒を教えたものの義務だと思うのだ。

クースラの薫陶を受けたフェネシスは、さまざまな事件を経て、ついに師に対して”いっぱい食わせる”ことに成功する。クースラの目的に反して、彼にギリギリの選択を迫ることに成功した。それはクースラが望んでいた選択とはそぐわないものだった。しかし、少女は自分で考え、自分の望みを実現させるために詐術を用いたこと。それこそがクースラの教育の成果であり、賜物だ。だから、クースラは苦い思いを噛みしめながら、その結果を受け入れる。生徒によって煮え湯を飲まされることもまた、教え手の責任の一つなのだから。

最近、誰かに何かを教えることの難しさを感じるにつけ、クースラの態度はなかなか見事な責任を引き受け方だと思うのだった。教え手は常に生徒に試されている。彼らが正しい道に進むのか、間違った道に進むのか、そのすべてを教え手が責任を背負わなければならない。極端な話、彼らが正しければ教え手は正しく、彼らが間違っていれば教え手は間違っていると言うことになり、それを受け入れる覚悟がなければ、人に教えることは諦めた方が良いのだろう。

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