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2013.04.25

『OP-TICKET GAME』

OP-TICKET GAME』(土橋真二郎/電撃文庫)

自分が理解している範囲での土橋真二郎と言う作家は、打算と欲望に満ちた駆け引きゲームを描きながら、そこでどうしようもなくにじみ出してくる倫理観を描いている。全体の比重としては駆け引きゲームがほとんどなのだが、それゆえにこそ作者が本当に重要だと思っているのは論理ゲームから弾き出されてしまうモノ、すなわち倫理なのだ。最善手を選ぶことがゲームで最も有利であるにもかかわず、それを選ぶことを倫理、あるいは良心によって躊躇ってしまう。それによって主人公は敗北してしまうのだが、敗北の中にこそ勝利がある。作者の描いていることはそういうことだと思う。

今回のゲームにおける目的は”おっぱい”である。正常な性欲を持つ高校生男子ならば自己と引き換えにしても求めるものであり、決して笑いごとではない深刻な命題だ(少なくとも本人にとっては)。主人公は己の欲望を真正面から向き合い、そして己の欲望を満たすか、あるいは倫理に従うのかと言う凄まじい葛藤に晒される。これこそ、作者が今まで描いてきた、欲望と倫理の相克そのものだ。たしかに”おっぱい”は自身にとって何よりも欲するものだ。だが、己の欲望のままに女子の意思を無視して、欲望の道具として消費してしまってよいのか?それは人間として”正しい”のか?

主人公は最後までその意味に葛藤し、最終的に”敗北”をする。結局、彼は己の最大利益を追求し続けることは出来なかった。それは弱さだと嘲笑う人もいるだろう。だが、この物語の最後において明かされた秘密によって、実は、彼は”正解”を引き当てていることが明らかになる。もっとも、自分はあれが”正解”だと思うだけど、そうではないと思う人もいるだろう。実際にチケットを使ってしまえば、相手を手に入れることが出来たのかもしれないのに、と。だが、実のところそうではない。”彼女”は、”あそこでチケットを使わなかった主人公”こそに好感を抱いたのだから。

つまるところ、利の追及とは、行ってしまえば自己満足であり、孤独の道だ。己の利を追及するというのは、同時に己以外の損を追及するということだ。だが、人間とは本当に一人で生きていくことが出来る存在なのだろうか?これを是とする人は、おそらく利の追及を躊躇わなないのだろう。しかし、人間は一人では生きられないと考えたとき、己一人の利の追及は最適解ではなくなる。何故なら、利の追及は孤独の道だからだ。そこから離れること、すなわち損を受け入れること。それは他者の存在を許容することでもある。

つまり、チケットを使うことでおっぱいを揉んだ時、相手の少女はどう思うのか?そのことに考えた及んだ時、まったく新しい視野が生まれる。目の前に提示されたルールに囚われず、隠された意味を探ること。それは己の損得という狭い目的から解き放たれるということ。それこそが、ただの駆け引きゲームの枠内を飛び越える視点につながるということであり、真の意味でゲームに勝利するということなのだ。

2013年6月4日追記。友達と話していて気が付いたのだが、このゲームは主人公たち男子による女子のおっぱいを揉めるチケットをめぐる争奪戦の裏で、”いかに気になる男子に自分のおっぱいを揉ませるか”という女子による闘争が繰り広げられているんだ。なぜ女子たちがこんなゲームに参加したのか、と言う理由がそこにある。なにせこのチケットで成立したカップルがいくつもあることを考慮すれば、彼女たちが必死になる理由もわかるというものだ。しかも、実質的におっぱいを揉むかどうかの主導権は女子たちが握っているという点も考えると、むしろ女子たちの闘争の方がメインだとさえ言える。男子たちは女子たちを自由に出来ると思っているようだが、実は男子たちこそが女子の”駒”なのだ。女子たちの望みを叶えるための、手札。自分が主人だと思っている男子たちの裏で、実質的に女子たちこそが”プレイヤー”なのだ。支配しているつもりが支配されている、これはそうした支配構造の皮肉が描かれた作品なのだ。

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2013.04.16

『聖剣の姫と神盟騎士団Ⅰ』

聖剣の姫と神盟騎士団I』(杉原智則/角川スニーカー文庫)

超人的な英雄たちを前にして、小悪党で機転と悪知恵と小細工を武器にして渡り合っていくという極めてボンクラな話なんだけど、こういうのはやはり楽しいものだ。主人公が凡人であるというだけで感情移入の度合いも違うし、そんな凡人が英雄たちの裏を掻いていくのは爽快感もある。もちろん、主人公もただの凡人と言うわけではなく、大きな野心を抱き、それを実行に移す行動力もあって、ある種のカリスマを持っているという描写はきちんとあって、それゆえに彼が活躍していく物語にきちんと納得がいくのはさすがだった。

この物語は、おそらく主人公の立身出世+戦記ものになると思うのだが、全体的に非常に明るくポップな感じになっている。今回はあまり人間のドロドロとした感情がメインではないようだ(もちろんこれから描かれる可能性はある)。どうも主人公のダークが良くも悪くも陽性の人物であることと無関係ではないだろう。物語そのものは、行間ではかなりの人数が死んでいるし、そもそもダークが仕掛けた策略はかなり悪辣なものなのだが、そこにはどこか抜けたような隙があって、陰惨な気配がまるで生まれないのだ(ダークがいちいちウィズゲーマーっぽい発言が多いのも原因かもしれない)。

これを不真面目と取るかユーモアと取るかで印象は変わってくるだろうけど、個人的にはこういう主人公も悪くないと思う。実力も伴わないのに野心だけは大きく、欲望に忠実で道徳観は薄いと、作中でも描かれている通り小悪党以外のなにものでもないのだが(実のところ彼が大成しそうな感じはあんまりしない)、なんとなく地位や名誉とは関係のないところで大きなことをやりそうなところがあって、そういう中途半端な大物感を漂わせる主人公の描写はけっこう面白い。『烙印の紋章』の主人公オルバも英雄と言うには実に屈折した主人公だったので、きっと作者、ひねくれた英雄が好きなんだろうな(たぶん『皇国の守護者』シリーズが好きに違いない。自分も好きだ)。

そんな主人公が、次々に現れる”英雄”たちとどんなふうに渡り合っていくのか、なかなか楽しみを感じさせる序章だったと思う。

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2013.04.12

『マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス(6) 膺懲の火影』

マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス(6) 膺懲の火影』(吉宗鋼紀/ファミ通文庫)

アニメの方で一足先に展開を観てしまったのだけど、どうもこちらの方が悲惨なことになるみたいで、今から戦々恐々。まあ、その方がマブラヴらしいってものだけどね。好きなキャラが無残な死を遂げていく……ああこの甘美な快感よ(変態です)。

とは言え、やはり一度ストーリーを知ってしまっているから、どうしても話の流れは意識してしまうね。だからこそアニメで描かれた部分と異なる点をいろいろ見てしまったりもした。やはりキャラクターの心理、つまり印象や思考に基づく部分はどうしても小説の方が情報量が多くて、アニメではなかなか読み取れない部分が見えてくるのが良かったと思います。小説をアニメ化するのは、そういう膨大な情報をどのように絵に置き換えていくのか、と言うところに作り手の真価が問われるのかもしれない、などと考えたりもしました。つまり、単純にオリジナル展開に注目するのではなく、表現の解釈の違いそのものに注目する方法。文字を絵に変換する際に零れ落ちるはずの情報をいかに救い上げるか。まあ、戯言ですけど、アニメを視聴する立場からしてみれば、あるいは一つのスタンスではあるかも。

話が逸れました。まあ、なんというか、物語としてはえらい深刻な話をやっているのに、ラブコメ成分がいい感じにそれを台無しにしていますね。もちろんそれで深刻な話がなくなるわけではなくて、ユウヤ自身は至極シリアスにやっているのに、周りの女性たちが動きまわっているという感じ。いや、女性たちもシリアスと言えばシリアスで、何しろ好きな男と死に別れることなんて普通な世界なんだから、それでも好きな男と添い遂げるなら積極的に動かないとダメなんで、その意味ではイーフェイさんは何も間違っていない。唯衣やクリスカがピュアすぎるだけですね。おめーらメインヒロインの座を約束されているからって安心してんじゃねーぞ(なぜか上から目線)。

そして続きはゲームで、と言うことになるんだろうか。まあ、ゲームがどれくらい突っ込んだ話になるのかわからないけど、アニメのあれで終わりと言うのはどう考えても納得できないので、ゲームをやってみるしかないだろうなあ、とは思います。

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2013.04.08

『シュヴァルツェスマーケン(5) 紅蓮なる弔鐘の中で』

シュヴァルツェスマーケン(5) 紅蓮なる弔鐘の中で』(内田弘樹/ファミ通文庫)

主人公テオドールが、己にとって大切なもの、すなわちアイリスディーナ、カティア、リィズのすべてを助けようとして、結果的にすべてが瓦解していく姿が描かれる。アイリスディーナを切り捨てていればカティアとリィズと共にあるいは平和な日常に戻れたかもしれない。リィズを切り捨てていれば中隊は無事であったかもしれない(まあフォート級を倒せたかどうかわからないが)。しかし、そうだとしてもどれかを切り捨てることなど選べないテオドールは、自身の能力を限界まで振り絞ってかつ最善を尽くし切って希望を見出そうとしたのだろう。

実際、彼の機転や判断は絶望的な事態を切り抜ける希望となったこともあるし、それによって幾人かの命を救いもしている。彼はすでに自分の選択が正しいのかどうかはわからないまでも、正しいと思う選択を積み重ねていこうと決意しているのだ。今までアイリスディーナに依存していた状態から、たとえ相手の意に反することだとしても、自身が信じる道を選択できるようになったのだ。それは実に正しい成長であるし、それは希望であるかに見えた。しかし、それでもなお届かない。すべてを救い上げたと思った瞬間に、彼の手から多くのものが零れ落ちてしまう。なんというか、そこに”絶望”と言うものを感じた。絶望とは希望がないことではなく、希望を奪われることを言うのだ、というような。

結局、彼が必死になってつかみ取った救いは、その後奪われるためだけのものに過ぎなかった。果たしてこの事実はテオドールをどのように受け止めるのだろう。再び希望を掲げて立ち上がるのか、あるいは絶望に飲み込まれてしまうのか。少なくとも、あらゆる状況は彼に”選択”を迫りつつあるようだ。何を救い、何を切り捨てるのか。その選択が、またテオドールに何をもたらすのか、今はまだわからないのだが、それでも残酷はすぐそばまで迫っている。それにどう向き合うのかが描かれることになるのかもしれない。そのあたり、なんともマブラヴシリーズらしい物語だと思うのだった。

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2013.04.04

『星界の戦旗V 宿命の調べ』

星界の戦旗V 宿命の調べ』(森岡浩之/ハヤカワ文庫JA)

『星界の戦旗Ⅳ』の出版されたのが2004年の12月。途中で外伝が入っているといえ、本編としては八年と三~四か月ぶりの続編ですね。もう年単位で続編を待っているシリーズが多すぎるので間隔が麻痺しているけど、あらためて数字を出してみるとなかなかのインパクトだなあ。八年もかかったというより、八年たってもまだ本を出すつもりがあったんだ、みたいな。たまたま去年ぐらいに星界シリーズを読み返す機会があって、おかげで違和感なく読むことが出来たけど、そうでない人は感覚を取り戻すのに一苦労かもしれないが、まあよくある話ですね。

今回の物語は、<人類統合体>に奇襲を受けた帝都ラクファカールがメイン。ぶっちゃけ負け戦ですよ。アーヴの象徴として決して侵されぬ帝都がついに陥落する。これまでのアーヴの華麗なる戦いと比べれば、圧倒的な戦力差の前にひたすら消耗戦、持久戦、あるいは時間稼ぎのためだけの防衛戦など、極めて泥臭い戦いが繰り広げられる。とはいえ、人間とは敗北の時にいかなる態度をとれるのかで真価を発揮するもの。勝利のときには華麗でも、敗北のときに身の処し方が見苦しいなどいくらでもあることだが、アーヴは違う。彼らの泥臭い戦いは、すべては次の戦いのためにあるもの。アーヴという種族全体ため、帝都の防戦準備を整え、都と市民を遷都させるための数十時間を稼ぎ出すためだけに、皇帝自らが近衛を率いて泥沼の、そして不帰の戦いに挑む。それは皇帝だけではなく、老人や予備役、多くの貴族が率先して捨て駒になって行く。アーヴには正しい意味での強い共同体意識があって、無駄死には嫌うものの、全体のために意味ある死は称揚され、評価されるというわけだ。

合理性に満ちた精神はいかにもアーヴという感じだが、一方でアーヴの伝統に対する考え方、引いては民族的な意思のようなものもまた描写される。今までアーヴを描写するのに<歴史や伝統>といったものはあまり重視されてこなかったように思える。彼らは常に現在と未来だけを見つめており、過去は尊重されるものではあっても囚われるものではないようであった。しかし、実のところ彼らだって過去への感傷があり、受け継がれてきた伝統があり、過去への愛着が存在する。あとがきで作者も書いているように、そこには単純に文化とか風習とか宗教とか、そういうものを超えた、あるいは遍在的な、場所に宿る記憶のようなものがあるようだ。

<忘れじの広間>はアーヴの非合理性の最たるものであろうし、最期の戦いに臨む前にラマーシュ皇帝がラクファカールの公共施設を眺めて過去を思い起こすところなども関係しているかもしれない。合理だけでは人間は一つの集まりとして機能することは出来ないということかもしれないし、そしてそういうことを作者が考え出したということに時間の流れを感じる。アーヴのあり方には多分に現代の日本を風刺したところがあって(もちろん偏見である)、それゆえの合理性と明快さがあった。そこから外れることがなにを意味するのか、今後の展開に期待したい。

まあ、続きが出ればいいけどなあ。この世に第一部完という名の終了が多すぎる。

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2013.04.01

『冴えない彼女の育てかた(3)』

冴えない彼女の育てかた(3)』(丸戸史明/富士見ファンタジア文庫)

主人公が”そう”なんで当然と言えば当然なんだけど、視点が「創造性のない消費型オタク」に固定されているのがほんと面白いね。創造性がないってことは本来物語を動かすことさえも難しいと思うんだけど、それでも主人公の中には物語を駆動するための力がある。それは情熱と言うか、あるいはもっと支離滅裂で意味不明な代物のようにも思える。オタクなら誰もが持つ、アニメやゲームや小説に接した時に持つ感動や喜びや快楽、と言ったものが入り混じった何か。これは直観なんだけど、たぶんこれはそういうものを描いている作品なのだと思う。

このシリーズの変なところだなあ、と常々思うのは、創造性がない消費型オタクなのに、それでも創造と言うものに憧れがあって、自分にはメジャーには絶対になれないと言う認識の上に、それでも創造、そして表現と言うものに関わり続けたいと思う気持ちを描き続けているところだ。世の中には”創造する”ことに関する物語は多いけれども、”創造出来ない”ことについて書かれた物語は、まあ少なくともライトノベルの世界ではほとんどないと思う。そう、これは最初から才能なんてこれぽっちもない人間の、最初から挫折することが運命づけられた物語なのだろう。いや、それは前回、いや一巻の時点から明らかではあったのだけど、そんな物語がちゃんと描けるんだと言うことがようやく自分にも納得出来たと言うか、そんな感じがあるのだった。

今回は英梨々の物語であったのだが、実は彼女もまた”創造出来ない”側であることが明らかになる。彼女は同人作家としてはスゴイけれど、本当の才能の前では木っ端のような存在であることが描かれている。本物の前では身を竦めているだけの、弱く情けない一山いくらのクリエイター。つまり、自分のような底辺の消費型オタクにとっては”作品を作る”と言うだけで神聖なもののように思えるけど、実際にはその中でさえ残酷な序列があると言うこと。物語を描くことさえ難しい倫也のような消費型オタクには届かない世界の中で、そこでさえ絶対的な天才と凡人の差が描かれる。なんとも救いようのない話であるように思えるけれど、自分にはむしろ、どこに居たところで人間なんて変わらないと言われているようにも思える。消費型オタクも、同人活動をしているオタクも、それどころかプロとして活躍しているオタクであっても、その場所では純然たる実力の差があり、門外漢が神聖視するようなものではないのだ。

結局のところ、そこには優劣なんてものはないはずなのだ。 倫也のように情熱だけで物事を動かすことも一つの才能であるのだし、絵梨々のように万人に受ける萌え絵を描くことも才能であるし、詩羽のように物語に取りつかれたような才能もあるのだろう。それはただ”そのようにある”だけであって、どれが優れていると言うものではない。単なる適材適所だ。世の中、一つの才能だけですべてが解決するほど単純じゃない。たかだか同人ゲームを一つつくることでさえ、いくつもの才能が結集して、それぞれがわが身を削って頑張ることで成立するのである。それを思えば、才能がない”程度”で諦めるなど愚の骨頂と言うものだろう。傍からみて才能がある人たちでさえ挫折と後悔を繰り返していると言うのに、才能がないだけで諦めるなど、怠慢も甚だしいと言うものではないか。才能がないと知りつつ、それでも頑張っている人がどれほどたくさんいることか。彼らはどれほど必死の思いで生きているのだろう。

結局のところ、才能などと言うものはただの言葉に過ぎない。才能がない、やるだけ無駄、そうした言葉を乗り越えた先にこそ、我ら凡人の向かう先がある。上手く行かないから諦める?断言するが、”上手くいくことなんて此の世にはない”。上手く行かない中で足掻き続けたものだけが先に進める。そういうことを、この作品は描いているのだろうと思うのだ。

追記。ヒロイン(?)の加藤恵について書くのを忘れてた。彼女は主人公のオタク趣味にまったく共感してくれないのだが、それでも拒否しようとはしない。こういうキャラクターがいることで、主人公たちの自分たちの世界で耽溺していこうとする自己憐憫を回避していく。『中二病でも恋がしたい』におけるくみん先輩と同じ立ち位置だ(彼女の存在もすごく良いと思う)。まあ、そんな立場のメインヒロインと言うのもすごいと思うが……。

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