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2013.02.21

『空ろの箱と零のマリア(6)』

空ろの箱と零のマリア(6)』(御影瑛路/電撃文庫)

前巻から引き続いて醍哉が”願い潰しの銀幕”によって追い詰められていく展開なのだけど、どうもこう、醍哉の追い詰められた感じがなくて、どうもしっくりこない。醍哉の過去の罪を本人に見せ付けることで精神を崩壊させようとしているのだと思うのだが、正直、劇の内容に人間の精神を砕くような不気味さは感じられないわけで(勿論そこで語られているのは悲劇であるのだが、それだけで人間が”壊れる”ものなのだろうか?)、醍哉が苦しんでいればいるほど、読者としては他人事としてしか捕えられなかった。

と言うか、そもそも醍哉の苦しみがまったく理解できないというか、自分の中で理屈が通らないものを感じる。まあ、自分の罪や過ちを客観的に突き付けられるのは、ある意味、死ぬよりもつらい事であるのは理解出来るし、それを続けられるのは拷問のようなものであることもわかる。実際、自分の失敗や他人を傷つけた過ちをちょっと思い返すだけでも頭をかきむしりたくなったり、胸がギリギリ痛み出すということは、ままあるものだ(あるよね?)。ただ、それによって”壊れる”かって言うと、どうなんだろうなこれ。

いや、別に罪悪感の痛みを軽くみるつもりはないんだ。それが人間を殺すのに十分な力があるのは自分もまったく同感だし。ただ、醍哉が本当にそうした痛みに耐えているのかどうかが、イマイチ伝わってこないんだよね。まあ、彼の精神力が常人離れしているから、という説明で納得してもいいんだけど、それにしたって劇の終盤に入ったところで「これ以上は耐えられない」って言っているわりに、まだまだ思考能力を残しているんじゃないの?と思ってしまった。 まあ”願い潰しの銀幕”の力が罪悪感によって相手を壊すものでなくて、劇の最後まで観た人間の心を壊すという力を持っているというのなら、やっぱりそれでもいいんだけど(最後まで見ることが条件なら、途中経過での醍哉の状況は重要じゃない)、それだとなんか美しくないしなあ。

個人的嗜好を述べさせてもらうと、”願い潰しの銀幕”によって見せられたものが”醍哉の精神を壊す”だけの説得力を有して欲しかったんだよね。でも、正直なところ、この内容で一人の人間の精神を”壊す”と言われても、ちょっと納得しきれなかった。個人的な感覚だと、人間の精神ってのはそんなに簡単に壊れるものじゃなくて、一見壊れたように見えても、なにかの拍子で元に戻ったりすることもある(もちろん戻らないこともある)。だから、そもそも”願い潰しの銀幕”という能力がいまいちピンとこなかったんだよね。たぶん、作者の感じていることと自分には大分隔たりがあるんだろうなあ、と思った次第です。

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