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2013.01.29

『魔王が家賃を払ってくれない(5)』

魔王が家賃を払ってくれない(5)』(伊藤ヒロ/ガガガ文庫)

こういうSFネタは卑怯すぎるだろ。未来に行ったらディストピアが完成していて、現代に戻るために独裁者と戦うなんて、手垢が付き過ぎていて元ネタがなんなのかを調べるのもめんどくさいけど、自分はそういうのが好きなんだよな。それだけで好感度が高くなってしまって、なんだか騙された気分。いや、たぶん騙されている。まあいいや。

SFネタはネタとして、それほどきっちり作りこんでいる印象はないんだけど、魔王とトモザキが未来に飛ばされたことを理解してジタバタするあたりの魔王のあざとさといい、作者はさすがプロいなとか思った。そして成長した参謀長が登場した日にはあざといを通り越して卑怯だと思いました。ほんと、こういうネタにはどうしても弱い。なんで自分でも弱いのかいまひとつはっきりした理由はないのだが、もしかすると幼き日に観た『バック・トウ・ザ・フューチャー』の印象が強くあるためだろうか?まあ、タイムトラベルものが嫌いな男の子はいません!と言うことかもしれない。

未来に行ってからも、徹底して馬鹿馬鹿しいネタで突き進んでいるのは偉いと言えなくもない。個人的には最終決戦における例のキーワードには驚かされるというか「や、やりおった…」と言う感じだった。そして時間差でさらに”アレ”をぶちまけた時には感心さえした。一度、日和ったと見せかけて、気を抜いたところで追撃を加えるあたりはなかなかやるな、みたいななんとか。

それにしても、5巻目にして初めて感想を書いてみたんだが、予想通り感想が書きにくいな!不条理と言うほど脱線はしていなく、萌え要素もわりとあるけどメインではなく、カタルシスがあるようなないような感じで、このふわふわとした読後感、嫌いじゃないよ。でも売れているのかどうかが良くわからん。

あ、そうそう。最後だけど、これタイムパラドックスと言うか、辻褄が合ってないよな。特にあの時間軸には魔王とトモザキが二人存在していることになってしまうと言う問題がまったく無視されているようだが……さらに宇宙都知事も今回で倒したように見えて、この時間軸には普通に残っているわけで、そうなると今回の話の存在意義さえも危ぶまれる…。ただ、そのあたりはこれから語られることもありそうだし、今後のさらなる不条理劇に発展しそうな気もするので、なにやら期待が高まりますな。不安もあるけどね。

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2013.01.23

『マグダラで眠れ』

マグダラで眠れ』(支倉凍砂/電撃文庫)

支倉凍砂最新作。今回の主人公は己の夢を追い求める錬金術師で、そのためならば何を犠牲にすることも覚悟していると言うかなり大人な主人公ではある。『狼と香辛料』の主人公は大人ぶっていても青い部分を持っていたのに対して、こちらは一見青臭く見えているにもかかわらず、根っこの部分はかなりドライなところがある。したがって、対となるヒロインもまた前作とは大きく異なる。具体的に何が違うのかと言うと…つまり、今回のヒロインはロリータです。いや、幼女というわけではなくて、無垢で無力で、それゆえに男を惑わせる魔性を併せ持つという意味で使っています。このヒロインの造形は、正直なところライトノベルとしてはかなり異質で、つまり、無力さ、無垢さが主人公の庇護の対象になるのではなく、むしろ主人公を脅かすものと描写されているのです。

ヒロインのフェネシスは修道女であり、錬金術師である主人公、クースラにとっては敵対的な存在であるが、それでもまだ子供に過ぎない。クースラにとってみれば、彼女を扱うのはそれこそ赤子の手をひねるよりも容易い。彼の一言、で一喜一憂するフェネシスは、敵と言うのはあまりにも歯応えがなさ過ぎて、なかなかにそう見るのは難しいようだ。クースラの手管を持ってすれば、彼女を弄ぶことも、あるいは惚れさせることさえも簡単なことで、それゆえにクースラは慎重にならざるを得ない。外道の錬金術師であるくせにクースラにはある種の規範を持っており、フェネシスと向き合うことは非常に注意を必要とすることのようなのだ。

クースラはフェネシスをからかいながらも、相棒となるウェランドと共に目的を追い求めていく。それはフェネシスには決して明かせないことだ。なぜなら、クースラとフェネシスの利害は一致していない。フェネシスを助けるためにはクースラは夢を諦めなければならず、それは決して彼には出来ないことなのだから。いかに規範を持っていても、夢のためならばそれを踏みにじることが出来る。クースラは根っからの錬金術師なのだ。

フェネシスはクースラと対峙する。クースラを追い詰めるために選んだ彼女の武器は、まさに彼女にしか持ちえないことだ。それは、彼女が無垢であり、無力であるということ。まさにそのことがクースラを追い詰める。自分が手を差し伸べなければ、この白い少女は踏み躙られることになる。それが彼女の武器であった。今までに幾度となく命の危険を冒してきたクースラにとって、この瞬間こそが最も追い詰められた瞬間であったことだろう。それほどの武器を、彼女を構えたのだった。

だが、クースラはその名が示す”利子”の通り、決して諦めず止まらない、合理の続く限り歩き続ける存在だ。そして合理とはなしえる選択肢の中で常に最善を目指すもの。すべてを救うことが出来るのなら、すべてを救うことを選択するものだ。結局、クースラはフェネシスを引っ張り上げる。それが彼にどんな意味を持つことになるのか。ただの気まぐれか、それとも彼女こそが姫なのか?それを決めるのはクースラ自身であるし、フェネシスもまた、いつか選択をすることを許されるのだろう。

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2013.01.17

『マークスの山(上)(下)』

マークスの山(上)(下)』(高村薫/新潮文庫)

読んだのがずいぶん前のなのでうろ覚えだけど、確か高村薫作品としては二作目に読んだ作品。合田雄一郎サーガなんて呼ばれているのは読み終えてから知りました。なので最初はマークスが主人公だと思っていたので、合田の視点がメインになり始めて「あれあれ?」などと思ったものだがそんなことは別にどうでもいい話だった。

物語としてはある悲劇的な生い立ちによって精神を病んだ”マークス”と名乗る殺人鬼を追う合田雄一郎のサスペンスとして展開していくのだが、物語のほとんどは合田刑事に付きまとう絶望的な”重さ”の描写に費やされる。この”重さ”と言うのは、有能だが強引な彼に対する同僚刑事たちの嫉妬や妨害であったり、あるいは警察組織の持つ非人道的な側面であったり、あるいはマークスを追い詰めていく社会そのものに対する慨嘆であったりと様々だ。いかに合田が強引に立ち回っても突破することの出来ない”重さ”に、彼は疲労していく。この疲労は彼が登場したその瞬間から始まり、物語が終わっても解消されない。

それはつまり、この物語がもろもろの問題を解決することを目的としていないということなのだろう。合田の屈託も、マークスの悲劇も、この物語は冷酷に突き放している。彼らを救済しようという意図はほとんど感じられない。事件にまつわる様々な謎は解明されたとしても、合田の屈託は最後までしこりとなって残るし、マークスは救われないままで、それでも物語は閉じていく。その冷酷さには読者としては身震いするほかはないのだが、同時にこれ以外にありえないような感じもある。だって、合田の屈託が解消されるためにはたぶん警察を辞める以外にないだろうし、マークスに至ってはとっくの昔にどうしようもなくなってしまっていることなのだから。マークスはもう”終わってしまった”いて、今はただ辻褄を合わせているだけでしかない。彼を”救う”ためには、それこそすべてが始まった”あの日”に助けなければならなかった。それが出来なかった時点で、もう”終わっていた”のだ。

合田は事件を追う過程でマークスに感情移入していくことになるのだが、それはマークスを自身の屈託と重ね合わせているところがあるのだろう。彼は、たぶん、マークスのような人間こそが”救われなければならない”みたいな感覚があって、けれどもそれは決して実現できないことだ。社会も法律も人間の作りだしたものである以上、それは完全でも無謬でもなくて、だからこそマークスのような”被害者”が”加害者”とされてしまう世界が生まれてしまう。それはもちろん正しいことでないのだが、それでも生きていくのが”現実”で、しかし、合田はそれをどうしても飲み込むことが出来ないのだ。

物語は何一つ決着をつけられないまま終わる。だが、それが欠点と言うよりも、決着をつけてはいけないものでもあるからだとも思う。合田は世の理不尽に納得できないがゆえに屈託し、疲労していく。それを吹っ切ってしまえば、おそらく彼は楽になるのだろう。それが出来るのなら、この物語はむしろ爽やかさを獲得することが出来たのかもしれない。けれど、高村薫はそれをしなかった。合田は最後まで屈託に押しつぶされそうになりながら、それでも重荷を捨てようとはしなかった。”納得”しようとはしなかった。つまり、彼は”カタルシスを求めなかった”のだ。

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2013.01.14

『獣の樹』

獣の樹』(舞城王太郎/講談社文庫)

異形の生まれをした主人公が異能を備えるという、昔話から累々と続く物語の原型を思わせる物語だ。まあ、桃太郎とかアレですよアレ。もっともこの世界には、桃太郎のようにわかりやすい悪役である鬼とかはいないくて、むしろ桃太郎的存在であるはずの主人公が人間社会から浮き上がってしまうことになってしまう。まあ、冷静に考えれば桃から生まれた人間なんて気味が悪いし、お前の親はなんなんだよ!?自分で気にならないのかよ!?ってことになるので、むしろ現代の物語としては当然の話ではあるのだが。

主人公の河原成雄も自分の生まれは気になってしまうようで、物語は彼の”正体”を探る形をとって展開していくことになる。彼の出生についてはいくつもの謎が散りばめられており、成雄は彼にとっては義兄に当たる正彦と共に自身の出生の謎を解明していくことになるのだ(まあ、その謎そのものはいわゆる”舞城節”とも言える未読の人には説明の難しいアレではあるのだが)。だが、奇妙なことに、物語の中盤から成雄の出生は物語において重要性を失っていくのだった。

成雄自身は、まあけっこう思い悩んでいるつもりなのだが、どこか軽い。あんまり真剣に悩んでいる感じがない。なにしろカウンセラーに相談したら「でも、アイデンティティってそんなに重要かなあ?」なんて答えが返ってきて「あ?別に気にしなくてもいいんだ!?」みたいな反応をして、本人も気にしなくなってしまうぐらいだ。そうなった成雄は自身の出生にはあまり注意を払わなくなって、むしろ気になる女の子である楡と会いたくてたまらなくて、でも彼女を取り巻く危険な子供たちに邪魔されて会えなくなっていろいろ悩んだりしている。はっきり言って、自分のルーツなどを探っているよりも恋の方が重要だし、大切なもののようなのだ。

もちろん、平行して成雄の背景についての物語は続いていって(そのあたりは義兄の正彦がいろいろ頑張っている)、最後に彼の正体(らしきもの)が明らかになったりもするのだが、このあたりはもう成雄は(そして物語そのものも)完全にそれを重要視していなくて、すごく投げやりな扱いをしてしまっている。そんなことよりも彼は楡を助けるためにその異能を存分に駆使して、風に乗って爆走したりミサイルでサーフィンしたりテロリストと戦ったりと異能者としての力を使っていくのだが、もしかしたらそれもあんまり重要なところではないのかもしれない。そこには対峙するべき鬼はなく、世界から外れた怪物たちと、世界に喧嘩を売ったテロリストがいて、そしてどちらも成雄にとっては敵じゃないのだ。むしろ彼らに好感を持ってさえいるようである。

それは不謹慎な態度だろうか?ある意味においてはそうだろうが、それは彼の”世界に属すること”に対する興味のなさの表れでもあるのだろう。彼にとって世界から浮き上がることは、さして気にするべきことではない。別に反社会的たろうとするのではないし、自身のエゴを肥大化させているわけでもない。彼はただ彼らしくそこにいるだけで、そこには彼の出生とか義務などは関係のないことなのだ。

彼は名前を与えられ、その名前によって自己を確立してきた。つまり。、”名前を与えられたことで自分が人間だという気になっている”だけに過ぎない。彼が”その気”であることだけが、彼が人間であることを支える唯一のもの。デカルトではないが、彼が”そうである”と思ったことが、彼にとっての真実となるのだ。それはむしろ真剣に人生に向き合ったがゆえの態度だと僕は思うのだ。

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2013.01.10

『演じられたタイムトラベル』

演じられたタイムトラベル』(土橋真二郎/メディアワークス文庫)

作者のシリーズの中でも、トップクラスに”お金がかかっていない”ゲームになっているのが面白かった。舞台装置はただ広い空間に線が引かれただけの無味乾燥なもので、そこにはプレイヤーや読者の想像力を刺激するようなものは何一つない。”にもかかわらず”それでも人が死んでしまう厳然としたルールが存在しており、プレイヤーたちはルールの存在から”状況を想像していく”ことまで含めて委ねられているというのがひどく悪趣味なユーモアを感じるのだった。

例えばゾンビが存在するとして、目の前で人が食われる場面を見れば、理解できるか否かは別としても危機意識が生まれるはずだ。目の前の危険から逃れようという本能、それをどれだけ迅速に引き出すことが出来るかどうかが非常事態における人間のサバイバル力に直結している。しかし、目の前に青く点滅する円柱がゾンビだと言われても、人間はなかなか危機意識を持つことは難しい。それがゾンビなのだ、ルール上ではゾンビとして扱われるとしても、それを実感するためには”想像力”の助けが必要なのだ。目の前の円柱を、本物のゾンビだと思い込むだけの想像力の助けが。それが無くては生き延びるための危機意識を呼び覚ますことが出来ない。

舞台設定は無味乾燥で、敵役となるゾンビさえもその有様だ。だが、最初に書いたように”にもかかわらず”人は死ぬ。ゾンビに捕まれば食い殺され、タイムトラベルで矛盾が生じれば時空の捻じれに飲み込まれてしまう。目の前に引かれた何の変哲もない線は、しかし、紛れもなくショッピングモール以外の何物でもないのだ。それが”そうである”と想像しなくては、そこで身動きすることさえも出来ないまま、そうとは実感できないままにゾンビに食い殺される。

かと言って過剰に想像力を働かせると、今度は恐怖によるパニックを引き起こしてしまうことになる。最初の方はまだしも”ゲーム”として取り組んでいた主人公たちが、本当の怪物を幻視し、恐怖の中で暴走を始めていくことになり、そうして想像力の中にあったゲームの世界が現実として構築されていくことになる。本物の恐怖に突き動かされた彼らにとって、ただの円柱は紛れもない怪物のように見えるし、線で引かれただけの枠は本当のショッピングモールそのものとなる。彼らの目に映っているものは何一つ変化していないのにも関わらず、見ているものの”意味”が完全に変質してしまっている。本来あるべき現実を塗りつぶして、そこにはまったく別の現実が形を持つようになっているのだ。

さして重要ではない追記。最後の主人公とヒロインの関係のオチはちょっと意外な感じもあった。でも、よく考えるとあれで惹かれあったのは典型的なつり橋効果だったし、あんなゲームを作った奴らの手によって結び付けられるというのも業腹な話だ。いわゆるハリウッド的なものの逆を行ったということでしょうかね。

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2013.01.08

『魔法少女育成計画 restart(後)』

魔法少女育成計画 restart(後)』(遠藤浅蜊/このライトノベルがすごい!文庫)

いやー面白いねー。こういうバトルロイヤルものを自分が好むということを除いても、とても面白く読めた。面白く読めすぎてどうも上手く評する言葉が出てこないんだけど、まあ、やっぱり登場キャラクターが平等に殺されていくような話は良いね!なんて書くと人格破綻者のように思われてしまいかねないので補足すると、殺されるのが良いのではなくて、平等に殺されていくというのが良いということ。やっぱり、主人公補正で死なないことが確定しているような登場人物がいるとバトルロイヤルは面白くないしね。

バトルロイヤルの面白さと言えば、容赦なく殺されていく登場人物にも、様々な葛藤や意思があって、その上で大いなる不条理や他人の意思によって押しつぶされていくという無常観もあると思うんだけど(言うまでもなく個人的な嗜好です)、今回はその点も良かったですね。なんといっても、今回殺される魔法少女はなんだかんだで前巻を読んでその背景や想いもきっちり描写されているし、いろいろな冒険を見守っていたこともあってそれなりに愛着もある。そういう子たちが志半ばで殺されていくのは、やっぱりグっと来ますよねえ。……いや、負のね、カタルシスと言うかね、そういう話ね。

でもまあ、バトルロイヤルものだとキャラクターがすごく多くなるから、キャラ一人一人を書き分けていくことを考えると、ある程度の長さがあった方がやっぱりいいね。一巻も良く出来ていたけど、どうしてもスポットが当たるキャラは限定されているところがあったので、今回は上下巻になったことで、ちょっとした脇役を描写することも出来るようになっているのが良いですね。ちょっとしたエピソードがあるだけでずいぶん印象が変わる。例えばディティック・ベルとか。実は自分、彼女がすごく好きなんですよ。探偵に憧れてその業界に入ったけど、現実にはそこには華やかなものなんてなくて、それでも探偵という職業に対する愛情は変わらない。自分がなりたい自分となれる自分のギャップ。結局、彼女には真実を暴くような力はなくて、作中でも彼女は見当違いのことばかりしてしまうのだけど、そうした自分と、なにより現実と折り合いをつけていって、その上で自分の理想を現実に積み上げようという懸命さ。あーもうどれをとってもたまらん。後半でプフレを見て「こういう人を本当の名探偵と言うんだろう。まあ推理の出来ない探偵と言うのがいてもいいさ」みたいなことをつぶやいたディティック・ベルが本当に良かったね。これだけ抜き出すと諦めただけのセリフに見えるかもしれないけど、これは現実と理想を見据えて、自分の才能のなさに葛藤を潜り抜けた上でのセリフだからね。すごく強くて切ないけど前向きな言葉だと思うよ。だからこそ、彼女に降りかかる運命が悲しく、そこから足掻く姿に感動を覚えるんだ。

ディティック・ベルが好きなんで彼女を話題に出したけど、基本的にメインの活躍をする魔法少女たちはみんなそういう懸命さがあって、生まれてくる残酷さもそういう懸命さが生まれていくというのが無常観がある。どうしようもない現実と、そこで理想をかなえようとする意思。残酷はそうした崇高な意思さえもねじ伏せていくが、いくつもの意思が重なって、ようやく少しの命が救い上げられる。それがきっと本当の魔法だと思うし、奇跡ってはそのようにして生まれていくものなんじゃないかと思うんだよね。

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2013.01.05

『RPF レッドドラゴン(3) 第三夜 妖剣乱舞』

RPF レッドドラゴン(3) 第三夜 妖剣乱舞』(三田誠/星海社FICTIONS)

もうTRPGリプレイ(いやRPFだが)とか関係なく異常に面白いぞこれ!?なんかこう、なんだ、ほら時々さ、小説を読んでいると「お、こういう展開って俺大好きなんだよね!無条件でワクワクするぜ!」っていう感覚があると思うんだけど、それが一冊読んでいる間ずっと続いている感じだ。おかしいだろ!なんでこんな感覚がずっと続くんだよ!

やっぱりさ、参加しているプレイヤーとFM(GM)全員が”創る人”であると言うのが大きいんだろうね。普通の小説って、なんだかんだ言っても作者は一人なわけで、一人で書いているとどうしても緩急が生まれてくる。これは読者に必要以上に負荷を与えないということだけではなく、緩急の落差によって読者を最小限の力でショックを与えることにも意味があるんだろう(まあ、もちろん緩急の意味はそれだけじゃないけど、ここでは一応そういうことにしておく)。

しかし、この作品では創作者が一人ではないせいで、全員が”自分の話”をガンガン本編にねじ込もうとすることによって物語がどんどんヒートアップしていくんだ。「緩急なんてしったことじゃねえ!そんなことをしている暇があったら自分のキャラの話をさせろやコラ!」と言わんばかりに(偏見)各PCのドラマがすさまじい勢いで展開して言って、読んでいるこっちは「ちょ…ちょっと待って!?」と言いたくなるぐらいにドラマの波に翻弄されるのだった。

ウロブチ先生、ちょっと一人で血と闘争の宴に耽溺しすぎ!剣に対する恋慕にも似た狂気とともに、破滅に一直線に突き進む婁震戒(ロー・チェンシー)は完全にウロブチ暗黒武侠ストーリーの主人公と言う感じなのだが、それに対して立ちふさがるは、奈須きのこが演じるスァロゥ・クラツヴァーリ。己の剣にすべての狂気を捧げる婁に対して、”己の触れるものすべてを破壊してしまう”呪いを持つ彼は、見た目はのんびりとしたお人良しの青年にして見えない。しかし、その内実に「大切なものを何一つ持てない」という絶望的な狂気を抱えており、”己の剣にすべての狂愛を捧げる”婁に対して、”そもそも一つに拘ることが出来ない”スアローは、存在のとしての在り方そのものが相容れないのだ!なんだこりゃ宿命のライバルじゃねえか!? 己の全存在をかけて否定しあわなければ自分が崩壊しちまう関係じゃねえか!!お前ら二人、グルになって関係を作り上げただろ!?しかもゲームセッションだから本当の意味でどっちが勝つのかわかんねえじゃねえか!!

もう、この二人が緊張感をもって接しているだけで異常に面白かったのだが、ついに今回、婁がその牙をむいたことによって、二人の関係は緊張の限界を突破してしまったのにはびっくりした。しかも、ウロブチ先生も奈須先生も、どっちも”わかっている”と言うか、「宿命のライバルたるもの、このようにして相容れない対立を深めていくもの」という共通了解があるせいで、これがまたリアルタイムで宿命が見事に紡がれていくのだ(相手にとって重要な意思を否定する、相手にとって大切な女性を傷つける、等…)。二人で打ち合わせでもしていたんじゃないかと思うのだが、それにしても明らかに神が降りていた……。

このあたりは前も書いた気がするんだけど、なんというかさあ、昔読んでいたRPGリプレイってのはさ、やっぱりGMが物語の語り手だったんだよね。プレイヤーはGMの語る物語を体験する読者の立場だったと思うんだよ。でも、やっぱこのシリーズは違うわ。全然違うわ。FMはあくまでも世界を提供するだけで、そこで語られるのはプレイヤーの作る物語なんだよね。しかも、今回で明確になったんだけど、”プレイヤー同士もまたお互いに協力して物語を創っている”んだ。婁とスワローの関係は完全に宿命的に対立する二人だし、紅玉先生としまどりる先生が演じるキャラだってそうだ(エィハと忌ブキの関係は完全に数奇な運命に翻弄される少年と、それを支える少女の恋愛物語になっている)。この関係は、それぞれの”物語”を紡いでいくにあたって不可欠な存在になっているのだが、それでもお互いが完全に予想通りに動かないために、時に破綻しかねないほどの流動性を持つ。これはもう、全員に”物語を描く”と言うことに対する強い目的意識(まあ、あるいは創作者としての業かもしれんが)が共有されているからだろうね。だからこそ、作者一人の手によってコントロールされた物語にはない、生々しい面白さがある。前から同じようなことは思ってはいたんだけど、今回、それをはっきりと実感したと言うか、いや、やっぱプロは違うな!うん!

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