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2012.11.27

『下ネタという概念が存在しない退屈な世界(2)』

下ネタという概念が存在しない退屈な世界(2)』(赤城大空/ガガガ文庫)

鬼頭鼓修理(おにがしら・こすり)…それ自体がセクハラと言うすごい名前だな。でもこれ、良く考えたら名前だけで捕まっちまうんじゃねーか?とも思えるが、どうなんだろう。まあ、鬼頭を”きとう”と読むケースもあるし、それに比べたらマシなのかな。マシという問題ではない気もするけど。

今回の話は、まあ基本的には主人公、狸吉のコンプレックスの話になるんだろうと思われる。下ネタ好きの自分をようやく肯定することが出来た主人公は、偉大なるペロリストである華城綾女に対して憧れと尊敬の念を抱いているんだけど、それを比較しての自分自身のあまりの卑小さに劣等感を抱いている。彼女に比べれば、思想も頭脳も行動力も足りない自分に対する引け目のようなものを抱いているようだ。もっとも、それならばなんらかの行動をすれば良いだけであって、その意味では彼は甘えていると言ってもよい。意識的であれ無意識であれ自分の中の劣等感を直視しないようにしているからだ(まあ、個人的には別にそれはそれでもかまわないと思うがね)。

そんな彼の前に現れたのが鬼頭鼓修理。テロリストの大物支援者と見られる人物の娘である。彼女は極めて有能であると共に過激な思想を兼ね備えたテロリストとして優れた資質を持っていて、狸吉は劣等感に向き合わざるを得なくなっていく。自分より年下でありながら、彼女はあまりにも有能で、次々に成果を上げていくのを見ていることしか出来ない。それは彼の無能(と彼自身が思っているもの)を浮き彫りにするのだった。

まあ、今回の話をネタバレをしてしまうと、結局彼の空回りに過ぎなかったりする。結局、彼は自分で思うほどに無能と言うわけではないし、そもそも綾女と同じような存在になる必要もない。適材適所、みんな違ってみんな良い(だっけ?知らんが)。まあ、有能、無能などと言うのは、結局は”物差し”の問題でしかなくて、”物差し”が変われば有能、無能と言うレッテルもひっくり返ってしまうものなんだからね。官僚と芸術家では、求められる資質がまったく異なるように。

とは言え、この手の空回りは自分だけではなかなか気が付けないものだ。と言うか、劣等感と言うのは理屈じゃねえと言うか、最初に”劣っている”と言う認識が先立っているものだから、実際にどうかと言うのはあんまり重要じゃないんだよね。適材適所だ、などと説明したところで、きちんと納得できる人はいないだろう。「そんなこと言ったって、明らかに自分は駄目だし…」なってことを思ってしまう人も多いんじゃないか。まあ、そういう意味では、狸吉も”頭のいい馬鹿”の一人ではあるのだ。

こういうのは環境が激変するか、自分を客観的に見つめなおす時間が必要で、ようするに一度”物差し”を捨てることが必要なんだよね。で、今回の狸吉は劇的に物差しが変化する事件に遭遇したわけだけど、まあ、こういうのは幸運な例であって、大抵はもっと泥臭く苦労していくものなんだよね。劣等感に陥っている人を他人は決して救うことは出来ない。なぜなら牢獄を作っているのは本人そのものだからね。まあ、人間の認識する世界なんてものは、すべては脳が作り出したものに過ぎないとも言うし、別に珍しい話じゃない。まあ、自分で救えない限り、救われる望みなんてねーんだよな、こういうのは。

追記。稀代の下ネタテロリストでありながら、下ネタを実践されると真っ赤になってフリーズしてしまう綾女はぜひとも汚したいぜ(変態)

追記2。あとがきにおける作者の友人Aの意見に共感。なるほど不破さんで黒と白のコントラスト…その発想はなかったわ。

追記3。なんかラスボスっぽい人が裏事情を説明してくれるパートの存在意義が良く分からなかったわ。大きな話をしたいのかもしれないが、こういう独白だけで説明してしまっては、大きな話にはなりえないと思うのだが。まあ、これはそのうち分かるだろう。

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