« 『烙印の紋章XII あかつきの空を竜は翔ける(下) 』 | トップページ | 『這いよれ!ニャル子さん(10)』 »

2012.10.19

『内海の漁師』

内海の漁師』(アーシェラ・K・ル=グィン/ハヤカワ文庫SF)

(あれ、これイメージがないのか……まあ、古い作品だしな)

ル=グィンの描く作品は、SFともファンタジーともつかない境界線をたやすく踏み抜くところがある。本人もそのことに意識的であったようで、前書きでも自身にレッテル(SF作家orファンタジー作家、ハードSForソフトSF等)を貼ろうとする人たちに対する、穏やかなれど頑固に反論を繰り返している。作品を読めばそういうところにも納得できるところがあって、とにかく一面的に物事を分かりやすく了解しようとする力に対する反発と言うものがそこここにあるのだった。そこがル=グィンの面白いところで、とにかく決まりきった物事をひっくり返してやろうと言う意思がある。これも勝手なレッテル貼りではあるんだけど、とにかくひねくれた人なんだろうな、と思うのだった。そして自分はひねくれた人が好きなのだった。

収録されている物語もSFとかファンタジーとかをカテゴライズすることに困難を覚えるタイプの作品が多い。もちろん、舞台や設定、シチュエーションだけに焦点を当てればカテゴライズが可能なのだが、その設定で描かれているのはそういうカテゴリとはあまり関係がない。だからと言ってそれら背景がないがしろにされているわけでもなく、ガジェットとしては存分に活躍しているのにも関わらず、それだけに留まるものでもないのだった。

ル=グィンは、なによりも人間を描いているのだと思う。前書きにもそれらしいことを書いていたのだけど、「SFと言うのはアイディアだけがすべてだ」と言う言葉に対して、それはもう激烈なまでの反論をしている。このような発言の意味は、SFではSFガジェットがすべてであって、文芸作品のように人間について描いたり文学的な表現の美しさなどはないと言っているのだと思うのだが、それに対してル=グィンは「SFで人間を描いて何が悪い!」と言うようなことを言っているのだと思う。”SFと言うジャンルではこれしか書いてはいけない”と言う、一方的な決め付けに対して、SFとはもっと自由に描いても良いジャンルなのだと言うような。

まあ、自分は当時のSF事情なんて分からないのでまったく見当違いなことを言っているかもしれないのでほどほどにしておく。ただ、作者の視点はいつだって人間に当たっていて、人間の生きることそのものに対する切なさ、やるせなさ、そしてまばゆいばかりの輝き、そういったものを描いているように感じるのだった。

以下、作品ごとに簡単に感想。

「ゴルゴン人との第一接近遭遇」
とある夫婦が異形の宇宙人(?)と出会う。言葉にするとただそれだけの話なのだが、夫に従うことしか出来なかった女性の自立の物語と言うきわめてフェミニズム作品のようでもある。もっとも作者はフェミニズムに対しては非常に複雑な態度がありそうだけど。

「ニュートンの眠り」
これは単純に”自然回帰”物語と読んでいいのかな?ル=グィンはものすごく思弁的な作品を書いたかと思うと突然俗っぽい作品も書くから注意が必要だ。まあ、地球を捨てて宇宙に出た人間たちが、根っ子を失ったことでゆっくりと正気を失っていくホラーとも読めるな。
まあ、それよりもなによりも、主人公であるお父さんの性格が、あまりにも自分にそっくりで参った。胸が痛い……。何事も合理的に物事を理解する一方、驚くほどに人間の心の機微が理解出来ない。そのくせ、合理的であるゆえに自分が正しいと信じて疑わない。つまり、”幼稚”なのだ。

「北壁登攀」
雪山登山の作業日誌と言う形で書かれる話。言葉が簡潔に過ぎるために、そこかしこにはさまれる異文化に対する違和感が面白い、のか?良く分からん。ただ、最後の部分にはびっくりした。そして脱力感あふれる良いオチである。

「物事を変えた石」
寓話だと作者が書いているから寓話なんだろう。それが何を意味しているのかは……なんだろう?抑圧的ながら主人とそれに使える奴隷。主人たちは奴隷が自分たちの見えないところで芸術を作り上げていることを知らない。世界観が違う、って言うのかな。騙し絵みたいなもので、ひとつの視点からでは老婆にしか見えないけれど、視点を変えると貴婦人に見えるような。なんとなくフェミニズム作品(男に虐げられ家庭に押し込められる女のイメージ)のようにも思えるけど、やっぱりこれも一方的な価値観に対する反逆の物語なんだろう。
ところで登場人物たちの外観がいまひとつイメージがまとまらない。少なくとも触手とか複眼みたいなのは持っているのかな?

「ケラスチョン」
これは美しいファンタジーだと思う。”芸術とは形としては残らないものだ”というイメージが強烈な鮮やかさを持って描かれている。前半の寓話性の強い作品よりもこういうただ美しい作品の方が好きだ。前半の作品はちょっと啓蒙しようと言う意識があからさま過ぎるんだ。

「ショービーズ・ストーリイ」
これはすげえ。チャーテン理論と言う、いわゆる超光速航行エンジンについての物語なんだけど、強烈な幻想性が漂っている。SFなのに読んでいる感触はファンタジー以外のなにものでもない。なんだこれは。
いわゆる観測者の認識が世界を作り変えてしまうというタイプの物語なのだが、それ自体は、今となってはそれほど珍しくない(あくまでもそういう作品をいくつも読んでいるというだけだ)。しかし、多視点の認識がごちゃごちゃに絡まった結果、彼らの世界を認識する力が崩壊してしていくことによる混乱を纏め上げるために、クルーたちが自分の物語を語り始めるところに痺れた。
それはまるで、焚き火に車座になって語り部たちの昔話に聞き入る家族の姿じゃないか。

「踊ってガナムへ」
これも良かった。ル=グィンらしからぬスペオペ的なマッチョヒーローが出てきたことに仰天したが、そこにチャーテン理論が入り込むことによって、実にグロテスクなものになっている。なんども繰り返しているけど、世界と言うのは本人の認識によって作り上げられる。それを徹底的に戯画化するのがチャーテン理論であり、己の中にある”物語”に囚われて、あらゆる事象を自分を主人公とするドラマに”解釈”していくことの滑稽さ、恐ろしさが描かれる。しかし、それだけならばヒロイズムに対するニヒリズムの物語に過ぎなくなるのだが、そこで終わらないのがル=グィン。ヒロイズムに囚われたヒーローは滑稽なピエロだったのか、あるいは本当に神に選ばれた英雄だったのか、曖昧なまま物語は終わる。それはきっと紙一重のもので、凡人には届かない世界なのかもしれない。

「もうひとつの物語―もしくは、内海の漁師」
浦島太郎をモチーフにしたSFだったとは驚いた。タイムトラベルものとしても読めるけど、それはまああんまり重要じゃない。これは時間と空間に隔てられた世界での人間の孤独を描いた物語であり、小さな恋の物語でもある。
家族たちの時間がずれていくことに、少しずつ孤独感を募らせていく主人公の姿とか、結婚してしまった幼馴染(しかも、一足先に中年になっている)の姿に対する喪失感など、異世界なのに共感性はかなり高いんじゃないか。個人的には恋愛小説的な側面が強く感じるのだけど、主人公が住んでいる星の特殊な風俗などの異世界描写が非常に具体的なのが面白いとも思った。明らかに恋愛小説としては異質と言うか浮いているんだけど、ここではない違う世界で起こる出来事に対する執拗さのようなものがあるような気がするのだ。

|

« 『烙印の紋章XII あかつきの空を竜は翔ける(下) 』 | トップページ | 『這いよれ!ニャル子さん(10)』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29313/55913139

この記事へのトラックバック一覧です: 『内海の漁師』:

« 『烙印の紋章XII あかつきの空を竜は翔ける(下) 』 | トップページ | 『這いよれ!ニャル子さん(10)』 »