『戦車のような彼女たち Like Toy Soldiers』
『戦車のような彼女たち Like Toy Soldiers』(上遠野浩平/講談社)
統和機構によって生み出された戦闘型合成人間である少女たちは、兵士であり武器であり兵器でもある。彼女たちの存在意義はただ戦うためのものだけであって、戦うこと以外にはなにもないはずだった。しかし、ただ戦うことのみを己の存在意義とする戦車のような彼女たちは、いつしか自分の生まれた意味を外れて歩き出していくことになる。それは生まれついて与えられた運命とか、役割とか、そういう”正しさ”と言う意味からは間違っている行為だ。誰も戦車にスピード競技に参加して欲しいとは思わない。そんなことをしても誰も喜ばない。そんなことを誰も求めていない。しかし、間違っていると言われても、自分でも間違っていると思っていても、それで幸せになれないとしても、それでも戦車のような彼女たちは、前に進む。戦うために生まれたから戦うのではなく、自分のために戦うために。
古猟琥依は戦闘用合成人間の<特別製>であり、最強の攻撃力と鉄壁の防御力を目指して開発された、欠陥品であった。強くはあっても安定性がなく、頑丈ではあったが強靭ではなかった。彼女は兵器として生まれたが、生まれながらに欠陥品と呼ばれ、兵器としての価値を否定されている。つまり、失敗していた。生まれることに失敗していたのだった。それは彼女になんの意味も与えられていないという事で、しかし、そんな彼女に意味を与えたのは古猟邦夫という男だった。彼と出会ったことで、彼女は妻になり、それが彼女に与えられた”意味”となった。彼女は、自分に与えられた”邦夫の妻”という意味を守るために戦う。己が生まれついた意味、戦車としての自分を、そのとき初めて肯定した。戦うために生まれた自分を肯定し、戦うために与えられた力を振るう。それが彼女が自分に与えた、新しい意味なのだった。
九嵐舞惟は戦闘用合成人間であり、いわゆる砲撃型に分類される。攻撃力、射程距離の代わりに防御力を犠牲にしており、おそらくは単独での戦闘よりも複数での戦闘支援に特化している。彼女は、琥依と違って、自分が平凡な兵器であると自覚をしていたし、自覚している分、有能だった。彼女は十全に兵器としての性能を発揮していたし、それを認められてもいた。しかし、それ自体は彼女には無意味だった。なぜなら彼女は”戦いそのものを嫌悪していた”からだ。彼女は有能ではあったが、しかし、その有能さは彼女を何一つ肯定しなかった。始末の悪いことに、彼女は己を肯定しないでも生きていくことが出来た。ただ目の前の課題をやり遂げていく使命感だけで、彼女は生きていくことが出来た。それこそが、たぶん、彼女がもっとも嫌悪することだったのだが。彼女がいろいろなものを清算できるようになるのは、マウスと呼ばれた少年と再会するときだろう。
カチューシャは戦闘用合成人間であり、圧倒的な破壊力を持っていた。その攻撃力はまさしく破壊と言うに相応しく、あらゆる敵を吹き飛ばすことが出来た。彼女は冷静で、冷酷でさえあったが、それは”この世に確かなものなどなにもない”という認識から生まれたものだった。あらゆる正しさはいつだって間違っていて、間違いはいつでも正しくなる。この世には確実なものなどなく、ただ都合によってひっくり返されるカードのようなものでしかない。だから、彼女はひっくり返されるカードそのものであろうとした。感情にも道徳にも動かない、どちらにもいない完全なる空白に自分を置こうとしていた。しかし、彼女は生まれて初めて自分を縛る存在に出会ってしまう。一目惚れと言う、鎖の存在に出会ってしまったのだ。そうして彼女は空白ではなくなる。それが幸福か否かは彼女が決めることだ。
彼女たちは戦闘の兵器として生まれながら、兵器としての自分を拒否して歩き出した。戦車のような彼女たちにとって戦車として生きることが皆に望まれた正しい運命であるはずなのだが、彼女たちにとってその正しさにはなんの意味もないのだった。カチューシャが言うように、この世に”正しい”ことなどない。そして間違っていることもない。いつでも正しさと間違いはひっくり変わるこの世界では、なにも信じることが出来るものがない。何も頼ることなど出来ない。だからこそ、だからこそ彼女たちは自分のために戦うことを選ぶのであり、誰かの指示ではなく自分のために戦うことを肯定したとき、彼女たちは兵器ではなく、人間となりえるのだ。
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