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2012.10.26

『BEATLESS』

BEATLESS』(長谷敏司/角川書店)

人間と”モノ”の恋愛というテーマになっている今作だが、これはアニメで例えるとその困難さが分かりやすくなる。つまり、アニメに登場しているキャラクターに本気で恋をする、ということに良く似ていると言うことだ。「アニメのキャラなんて架空の存在だろ?そんなのに恋するなんて気持ち悪い…」などと思う人もいるかもしれない。その気持ちは理解出来ないこともないが、これはそんなに単純な話でもないのだと思う。

まあ、恋などと書くからアレなのであって、なんらかの対象に”萌え”る経験と言うのは、オタクならば決して珍しい体験ではないはずだ。それは美少女キャラだけじゃなくて、あるキャラクターの胸のすくような活躍に”カッコいい!”と思うようなものだって”萌え”だ。鉄腕アトムなんかは日本人にもっとも愛されているキャラクターであるといわれて、反論できる人は少ないだろう。他にはキティちゃんとかスヌーピーとか、ああいうキャラクター商品を好むようなのも、まあ広義の意味では”萌え”に含んでもいいんじゃないかと思うけど、この辺はあまり厳密な定義じゃない。あくまでもここではそういうことにしておきたい。

で、そういう、我々が”萌える”キャラクターと言うのは、実のところ確固たる”なにか”であるわけではない。アニメの話をすれば、外見はキャラデザイナーが作ったものだし、仕草はアニメーター(まあコンテもあるか)が作っているもので、性格や言動は脚本家さ書いたもで、声は声優が当てている。目の前の、TVの中で動いているキャラクターは、人格や魂を持たない仮構の存在なのだ。我々は、そうした存在の行動や決意に対して”萌え”たり”感動”したりする。つまり”こころが動く”のだ。これはとても不思議なことだ。ただ、絵と声の集合体があるだけなのに、我々はそれでもキャラクターを”愛して”しまうのだ。

この作品における人造ロボット「hIE」は、こうしたアニメのキャラクターの延長線上にある。彼女たちは人間によって造りだされ、クラウド化されたデータベースから最適な行動を選択する。彼女たちの美しい外見、愛らしい仕草、優しい言葉、そのすべては人間が造りだしたものだ。彼女たちの内面には魂や人格はない。ただその場に応じて必要な行動や仕草、表情を選択しているに過ぎないのだ。そんな彼女たちを”愛する”と言うことは、どのような意味を持つのか?人間とまったく変わらない外見と、まったく区別のつかない受け答えをして、人間と同じように微笑む彼らに、人間はどのように向き合っていかなくてはならないのか?これは、そういう物語なのだと思う。

主人公のアラト少年は、”モノ”であるhIEに対して人間であるかのように接する。それは、彼が幼い頃に重症を負って苦しんでいたとき、自分に懐いてくる犬の姿に励まされたことから端を発する。彼には犬の言葉は分からない。犬が何を考えているのかも分からない。だが、楽しそうにしている犬を見て、彼の”こころ”は動いた。「魂がないからって、響かないわけじゃない」と、彼は言う。その振る舞いを見ているだけで(そこにこころなど伴わなくても)、人は感動することが出来るのだと(まあ、それは現代で例えれば、アニメのフィギュアにさえいちいち挨拶をするような奇行なのかもしれないが)。

そんな彼は、謎めいたhIE、レイシアと出会う。彼はレイシアを一目見たときから強く惹かれる。彼は”モノ”に対してさえ人間と同じように手を伸ばせる人間であるため、レイシアに対して、少年が少女に対するように何かをしたいと強く思うようになるのだった。レイシアがただのアニメのキャラクターであったならば、一方通行であってもアラトに対して慰撫を与えただろう。しかし、レイシアはアラトに対して「自分には魂はない」のだと言う事実を突きつける。それどころか人格さえ持たない人形なのだと。彼女の美しい外見は造りモノであり、彼女の発する言葉は状況に合わせて適宜選択されるテンプレートでしかなく、その振る舞いはクラウド化されたデータベースから引用されているものに過ぎないのだと。

これは、hIEに対して感情移入して、人間のように扱うことに対するhIE側からの糾弾とも言えるものだ。魂を持たず人格もないレイシアにとって、アラトがレイシアに対して抱く”望み”あるいは”欲望”は、そのまま鏡写しに人間側に跳ね返ってくることを期待する自己完結的なものだ。そこには所有者の欲望だけがあって、hIE側に対して誠実なものではない、と言うことなのだろう。その言葉に対して、アラトは真剣に向き合い、そして答えを返していく。

物語は、レイシアが言葉を投げかけ、それにアラトが答えていくという形を取る。アクションがあったり陰謀があったりするけれども、基本的にはそういう話だ。レイシアが投げかける問いとは、「人間は、人間ではない”モノ”とどのように関係していくのか?」というものだ。アラトはレイシアを愛おしく思うが、同時に”レイシアとはなんなのか?”と言う問題に迷う。レイシアの容姿も、言葉も、仕草も、すべてが計算の上に積み上げられた既製品でしかないのであれば、ならばアラトが抱く”愛しさ”はどこへ向けられたものなのか?レイシアの外見も言葉も仕草でさえ、彼女にとって固有のものではないのなら、アラトの愛情はどこへ向けられているのだろうか?

しかし、アラトはそれでも”レイシア”に手を伸ばした。少女の姿をしたhIE、人形、モノに手を伸ばしたのだ。それは自己の欲望を反映させる器としてではなく、”レイシアというインターフェイスを介在して自身にコミュニケートしてきている異形の知性体”に対して手を伸ばしているのだ。たとえレイシアの微笑みがテンプレめいた反応でしかないとしても、”微笑むことを選択している知性”が存在していることを間違いない。少なくともアラトはそう信じている。”人間のために微笑みを選択した知性”を、彼は信じたのだ。

それは、レイシアを人間とはまったくかけ離れた知性であることをそのまま認めると言うことだ。”人間と形しか似ていない生命”であること受け入れるということだ。だが、たったそれだけを受け入れるためだけに、これほどの膨大な物語が必要だった。一人の少年が背負うにはあまりにも重い責任と、莫大な犠牲を払わなくては、人間はそれを受け入れるだけの精神の土台を作ることは出来なかったと言うことなのだ。アラトがレイシアを受け入れ、二人の関係が世界を改変していく。

少年はレイシアを受け入れた上で”レイシア”を愛することを選んだ。それはレイシアを理解したわけではない。人間には所詮”形”しか見えず、魂を見ることは出来ない。だが、人形を、形をそのままに愛することは出来る。”それ”は人間の感情移入の道具ではなく、それでいて人間のように想うことはなく、しかし、それでも知性であり、生命であるのだと、信じることは出来るのだ。形のあとに、こころがついてくる。そうして世界は変わっていく。人間の世界から、人間とモノの世界へ。人間の造り出したモノが、本当の意味で人間と共にある存在を受け入れた世界へ、社会が変化していくのだ。

その世界では、アラトは微笑むレイシアを見て喜に溢れ、その奥にあるものについては想像することしか出来ないまま、手を取り合って生きていくことだろう。

 

追記。人間は魂が見えない。それはつまり、自分以外の人間に本当に中身があるのか確認する方法はないと言うことだ。本当に人格があるのかを確かめられないまま、けれども、それでも他人を信じることで人間は他者と繋がっている。その意味ではhIEとの関係も変わらないもので、理解出来ないままに信じるということなのだ。

追記の追記。最後の”帰って来たレイシア”については、いろいろ考えさせられる。データを保持できないと言うのは嘘だったのか?アラトに対するアナログハックでしかなかったのか?あるいは本当のことで、このレイシアの中身はまったく別物なのか?”レイシアだったモノ”が他のデータを参照して構築しなおしたものなのか?それを確認することは、おそらく無理だろう。だが、確認することに意味もないだろう。人間は形に縛られる。その上で信じることだけが人間の出来ることであり、希望でさえもあるからだ。

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コメント

追記の追記について

 最後の帰還に関しては、私などは読み手として、「幸せになりましたとさ…」のお話のパターンでよいんじゃないの…と思って満足していると書いた上で、どうして帰ってきたかについて、個人的な推測を書いておきます。

まずレイシアはアストライアとどのような取引をしたかです。

気になったのはP-644の『レイシアの主機は回収され超AIとして隔離』されたという記述と、P-647『停止したヒギンズの代わりにAASC』の更新をしているという記述です。

これに、「ヒギンズ訪問(襲撃)」に対し何故レイシアの「非効率ともいえるヒギンズの内部(作業)公開にこだわったか?」です。
この公開をしたことで、超AIでさえAASCの更新作業には学習が必要なことと、その学
習作業の結果「人類未到達物」が開発される背景が公表されます。

ここでレイシアの狙いは「ASSCの更新業務をヒギンズから奪う事が訪問の狙い」であり「アストレイアとはヒギンズ停止後のASSC更新業務を受け継ぐことを了承させた」だとしたら すべて辻妻があうと思うのです。

これだけの騒ぎを起こした超AIレイシアが「本体が人間界から封印される」事は当然です。この封印の中には「ASSC学習作業のための空間と作業内容をアストライアから監視」をされる事も含まれるでしょう。
ASSC更新業務を行なうレイシアが「手持ちの作業空間で流行に追いつくための学習の制限」を補う方法として、「自分の外部端末で野作業経験」をASSC更新に反映させたいと提案された場合、アストライアには1、「レイシアによる人類未到達品が製造されるリスクが少ない」2、現状ではASSCの更新作業は継続されなければならない
の理由から認めざる得ないのではないでしょうか?

 つまり帰還した「レイシア」はASSC更新のための情報収集端末が名目です。
こうなるとp-602の「家に戻れたら、これからは、ずっとアラトさんのお帰りを待つようにしたいですね。」という言葉の重みがかわって来ます。

 このような推察にたどりついた際思ったことは「レイシアの生存戦略のしたたかさ」ですが、「何故 アラトの元に戻るかは?」です。

 読み手としては「二人は幸せに暮らしましとさ…」と読みたいので私は「アラトの元に戻る」と「自身の生き残り(人類から敵対せずに)」を同等に扱った選択の結果が帰還を可能にしたと思っています。
なお、「ヒギンズ訪問という賭け」にはヒギンズ内部でのレイシア停止後のアラトの行動という不確定要素が計算に入っています。
この不確定要素の計算にはアラトへの信頼が無ければ成り立たないということを指摘しています。

長々と書きましたが、「二人は幸せになりました」という解釈から このように私は読みました。

ではでは

投稿: Doburoku-TAO | 2013.03.17 16:03

なるほど、いろいろ考えられていますね。面白いと思いますし、わりと説得力もあると思います。レイシアAIの生き残った理由として、それはありそうですね。

自分もまた「その後、彼らは幸せに暮らしました。めでたしめでたし」で終わっていると思います。ただ、誤解されるかもしれないですが、自分はレイシアAIが生き残ったかどうかそのものにはそれほど興味がないのですね。あそこでレイシアが消滅していようと、あるいはなにかしらの手段で生き残っているとしても、それは物語としてどちらも幸福な終わり方だと思います(もちろん生きていて欲しいと願うのは当然だと思いますよ)。

自分はこの作品を「思考も論理も、そもそも意識自体が異なる異種生命体との恋愛物語」であって、まったく理解を拒絶する存在とどのように”交流”していくのか、という物語だと思っているわけです。レイシアの容姿、言葉はすべてプログラム、つまり仮面みたいなものです。”本当のレイシア”と言うのは、どこかにあるAIそのものですよね。けれど、どうすればAIと恋愛することが出来るのかと言う問題は避けて通れません。アラトはいったい”何と”恋愛しているのでしょうか?

で、ここからは自分の妄想になりますが、アラトの選択は”信じること”だったと思うのです。それはレイシアが自分にしてくれることはすべて自分のためだ、ということを信じると言う意味ですね。レイシアが可愛らしい態度を取るのだけとすれば、それはレイシアのAIが”アラトのために”そう振る舞っていると信じると言うことです。本文でも書きましたが、”レイシア”と言う存在そのものはフェイクでありプログラムの集積であるとしても”そのように振る舞わせているのはAIの判断”であるわけです。その判断を信じることが、二人の関係の始まりだと思うのです。

まあでも、実際にその判断が本当に“そう”なのか、限られた知性しか持ち合わせていないアラトには理解するのは不可能です。目の前のレイシアが本物かどうかなんて、誰にも分らない。けれども、それを疑ってしまっては、そもそもAIとの恋愛など不可能だと思うんですよね。AIそのものを理解することは人間には不可能なので、そこから表面に出てきているものから理解していくしかない。ある意味、“虚構としてのレイシアを愛する”ことが必要になる。どこにもいないレイシアと言う少女の姿をしたキャラクターを愛すること、つまり、二次元キャラクターに萌えること。それが完全なる異種知性体と恋愛する、一つの解答のように感じます。だから、最後の場面は、どんな形であれアラトが自分の愛を貫いた形であろうと思うのです。

(ただ、このあたりは自分も迷っていて、きちんとした理解が出来ていないところです。虚構を愛すると言うのは不毛ではないのか、と言う感情はちょっとあります。まあ、アラト自身、自分たちの愛の形が他者に理解されないものだ、と言っているので、こんな風にもやもやするのも当然なのかもしれません…)

投稿: 吉兆 | 2013.03.18 19:38

吉兆様

 返信を読み気がついた事は、私と吉兆様とは、この物語のAIについて受け取り方が違うとの事でした。

 「理解を拒絶する存在」としてAIを見ているのは人間側であり、AIはむしろ狂おしいほどAIとしての己(キャラクター)を人間に認めてもらいたがっているのではないでしょうか(特に「ヒギンズ」)。

 AIと人間が良好な関係を結ぶには「お互いが相手を信じるしかない」という点は私もそう思います(最短で最高得点を出す戦略は正直にスタートし、相手の手を同じ事を繰り返すという「囚人のジレンマ」というゲームを思い出します)。

 レイシアとアラトの良好な関係が成立した背景には、アラトのおおらかさというか無頓着さ(劇中では他の登場人物にはひどい人物評価をされていますが…)があると思います。

 ところで最後のレイシアの
「この体は、<人類未踏産物>ではない、”かたち”だけが同じ既製品のカスタムですが、それでもかまいませんか?」…P648
という問は、『「超AI の恩恵」という打算抜きでも「私」を選ぶか?』
というなかなか「重い問いかけ」であったと思います。
彼女という「形」を無条件で受け入れられることが確認できた事で、アラトのもとに戻ることにしたのだと。
(まぁ、詩織の行動を踏まえてタイミングを計っていたかもしれませんが…4コマのネタにはなりますね…)

長々とすみませんでした。

投稿: Doburoku-TAO | 2013.03.19 00:56

そうですね。自分は、基本的に理解不能な存在として(この物語上の)AIを捉えています。お互いに理解しあおうとするだけの物語が、これほど長大なものになったのは、つまり、それだけ両者の間には理解不能の壁が横たわっているということだと思ったのですね。困難であるからこそ、より一層に求める。そういうこともあるんじゃないかと。まあ、これが正しい見方だ、みたいなことを言うつもりはありません。

> レイシアとアラトの良好な関係が成立した背景

まあ、アラトでなければこの物語は始まることさえもなかったのでしょうから、そういう意味でアラトもやっぱり非凡な存在なのでしょうね。

>最後の言葉

ああ、そこもちょっと自分と受け取り方が違いますね。これもAIの解釈の違いと関係しているところですが、自分は、<レイシア>という存在は”AIが作り出した虚構の存在である”だと思っているんですね。で、そうなると”外見だけが同じで中身が違う”存在は果たして同一の存在みなせるのか?と言う問いかけのようにも感じたんです。

あんまり良い例えが思い付かないんですが、あるアニメのヒロインの声優が突然変更になったとしたら、外見が同じでも以前と同じような思い入れが出来るのか?という問いかけられた感じでしょうか。

正直、あんまり理解出来ている気がしないんですが、なんにせよノータイムでレイシアを受け入れたアラトさんは尊敬の念を抱かずにはいられません。あそこで一瞬も躊躇わなかった奴こそは真の漢よ。

まあ、妄想するしかないところなので、正解と言うのはきっとないんでしょうね。Doburoku-TAOさんの解釈が伺えて楽しかったです。ご意見があればまたよろしくお願いします。

投稿: 吉兆 | 2013.03.20 20:18

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