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2012.09.11

『雛鳥トートロジィ』

雛鳥トートロジィ』(柴村仁/メディアワークス文庫)

この本に納められている二つの短編を簡単に説明すると、前編では自分以外の人間に対してどこか無神経に生きている青年の下に腹違いの妹が訪れて、彼の無神経さを糾弾する物語であるのに対し、後編では家族と言うものに憧れと失望を抱えた少女が新しい家族を得るまでの流浪を描いた物語になっている。それぞれ基本的には独立した物語になっているのだが、併せて読むことによって、それぞれの視点によるコミュニケーションの断絶が描かれることになる。この作品の良いところは、そうした断絶が絶望によって描かれないと言うところがあって、人間とは分かり合えない生き物であるという現実を”肯定”しているところだと思う。

これは前編を兄である青年の視点で描かれているため、とうぜん物語は彼の知っている情報量の中でしか描かれることはない。しかし、もちろん物語には彼の知りえぬ出来事があり、彼が悩んでいるときに妹は何を考えているのかというのは分からない。しかし、後編において妹の視点から物語が語られると、彼女が考えていることは、必ずしも兄が考えているような”薄幸”の少女ではないことが分かってくる。彼女の内面はもっとドロドロとしていて、もっと生々しいものだ。その意味では、兄は妹の”真実”にはまったく届いていないことが明らかになっていて、そこには所詮自分以外の人間の考えていることなどわからない、というある意味醒めた結論が放り出されているように見える。

しかし、それは前編で兄が出した決意の価値を貶めるものではまったくないのだ。彼は、他人に対してどこか無神経さを抱えていて、他人に対して興味を持てない人間だったのだが、それによって妹を傷つけてしまったのではないか思ったことで酷く堪えてしまう。それまではさして気にもとめなかった自身の性質に対して、本当の意味で改める必要性を自覚する。それはつまり、腹違いの妹に対して”無神経でいたくない”という彼自身の欲求によるものであって、それが彼の決意を促している。つまり、妹の存在はあくまでもきっかけに過ぎなくて、相手のことが分からないにしても、それでも相手のことを考えて行こうという考え方を、兄が得る過程が描かれているのだ。

妹の方は、家族というものに対する憧れと現実に対する失望を抱えたまま、家族を求める心の流浪を描いているのだが、正直なところ彼女が本当の意味で求めている家族などというのは現実には存在するものではない。彼女の憧れは夢想、悪く言えば妄想みたいなもので、どう足掻いても手に入るものではないのだ。奇矯な友人を一時の避難所にしても、それはすぐに破綻してしまうし、成り行きで腹違いの兄のところに来ても、彼は少女にさして関心を抱いてくれるものではない。彼女は結局、自分から手を伸ばすということをしていないのであって(それは誰かを不幸にしてしまうのではないかという恐れにもよるものであったが)、ある意味では当然のことなのだ。しかし、誤解に近いとは言え兄が差し伸べた手に対して、彼女は手を伸ばす(あるいは欲求を得る)ことが出来たとも言える。それを成長と呼ぶにはあまりにもささやかではあるが、変化を受け入れるという意味で、やはり成長なのだと思える。

結局、妹は兄が思っているような少女ではないし、兄は少女が夢見る理想ではないにしても、そうやってすれ違い、誤解しあいながらでも家族というのは成立しえるものなのだということだ。そのすれ違いは決して褒められたものではないにしても、別に非難するようなものでもななくて、それを受け入れていこうという恬淡さがある。結局、母親が最後まで勘違いしたままなのに、なんとなく受け入れられてしまっているところなど、非常に象徴的だろう。結局、この家族はそれぞれの家族同士の間でものすごい秘密を抱えて、本当の自分なんてものは少しも見せていない状態なのだが、それでもまあ、なんとかやっていけるだろうという希望のようなものが見えていて、不理解も嘘も、カラっとした明るさで受け入れているようなところがあるのだ。

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