『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』
『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』(赤城大空/ガガガ文庫)
人間を人間たらしめる衝動を抑圧することで人間管理が行き着いてしまった世界で、人間であることを取り戻そうとしたささやかな戦いを描いたと言う意味で、とても真面目なディストピア小説だと思う。抑圧され、管理されているものが性欲というか、エロというのは一見ふざけているようだけど、抑圧されたときのダメージが読者に容易に想像させうるということを考えれば、なかなか良い題材であるといえるだろう。性欲は人間の歴史において実際に抑圧されてきたと言う実績もあるので、より読者に身近なテーマであるからだ。
いきなり話は逸れるけど、例えば昔のキリスト教は自慰行為が罪とされたこともあって(まあ、現代でも厳密には罪なんだろうけど)、エロネタをおかずにすることさえも許されないわけで、中世暗黒時代と呼ばれるのも伊達ではないな、と思ったりもしています。自分は、大学で中世史を取ったんですけど、そのとき思い知ったのは、キリスト教はマジやばいってこと。カルト宗教が世界を支配するとこうなる、というやつの典型ですよ。びっくりするほどディストピア。
まあ、それは別にどうでもいい話。そんな感じでエロが抑圧されている世界では、エロに関わることはすべて悪とされる。これはどういう事かというと、人間が普通に持っている衝動を、普通に表明することが”悪”だというレッテルを貼られてしまうと言うこと。つまり「生きることが悪」だと言っているのと同義なのであって、エロに限らずとも人間が人間として当然あるべきものを抑圧することが、ディストピアの恐ろしさなのだと思うのだった。
こうした”価値観”によって定められてしまうことは実に恐ろしいもので、あるときまでは正しかったものが、ある日突然悪とされることがある。この物語の主人公はその影響をもろに受けた存在であって、彼はあくまでも健全な範囲でエロの知識を与えられながら、しかし、そのエロが悪だとされたことによって、彼自身の正義と悪が完全にひっくり返ってしまうことを経験している。最初からそれを知らないクラスメイトたちと異なり、彼は、自分の知識が、存在が悪であるというレッテルを、価値観から押し付けられているのだ。
それは”価値観”というなんだか実態の良く分からないものからの勝手が押し付けでしかないのだが、そのことに主人公は気がつけないでいる。価値観に従わなければ”普通”から弾き出されるという恐怖が、価値観にに対して絶対的な強制力を付与することになるであった。
その”普通”には根拠なんてまったくないものであって、ただ誰かが言い出したことが尾ひれがついて流布されただけだ。意味も、理由もない、ただの思い込みのようなものだ。誰かが泥酔したときのぼやきが広まっただけかもしれない。そんな幻のように実態のないものに、人々は支配されていく。そのことに抵抗するか、甘んじるのか、それは人それぞれの自由ではあるが、しかし、”自分がただ生きるだけで悪”とされる世界で生きるのならば、漠然と人々から悪だとささやかれるよりは、せめて戦って悪とされたいという気持ちは、決しておかしなことではないはずなのだ。
追記。ヒロインの一人である華城綾女は全裸でパンツをかぶって疾走するぐらいの気合が入ったエロテロリスト(言葉通りの意味)だが、この世界だと実地経験が出来ないので、つまりは超絶的な耳年増に過ぎないと言う描写にはグっと来た。もう一人のヒロインであるアンナ会長が超天然痴女(性的な事柄に無垢過ぎたがゆえの過剰な発露)を発揮されると顔を真っ赤にする綾女に、なるほどこれがギャップ萌えか……と深く感ずるところがあったのだった。
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