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2012.08.31

江ノ島見物

ふと夏の江ノ島を見に行きたくなったので家を出た。珍しいことは重なるもので、なんとなく写真を撮りたい気分になってしまったので、母からデジカメ借りてしまった。自分は写真と言うものが嫌いで、散歩をするときも写真を撮りたいと思ったことはあまりないのだが。外へ出ると、8月ももう終わりだと言うのにまるで秋めいたところのない強烈な日差しが降り注いできて、むしろこうでなくては行く意味もないと思えた。僕は夏の日差しでギラギラした江ノ島が見たいのだ。

長いこと電車に揺られて江ノ島にたどり着いた。駅に降りてから周囲を見回すと丈高い建物はほとんどなくて、どこか塩の匂いがした。あたりには海水浴場に向かうと思われる男女が歩いていて、自分がとても場違いな存在なような気がした。自分はあくまでも散策のつもりなのだが、周囲は完全に遊ぶ雰囲気がある。雰囲気の違いを意識しつつ歩いていくと観光案内所があって、『つり球』と『TARITARI』のノボリが立っていた。そういえば両方とも江ノ島が舞台のアニメだった。と言うか、突然江ノ島に行きたくなったのはこのあたりのアニメを見た影響なのは明らかではあるけれど、自分が影響を受けていたことにそのとき始めて気がついたのだった。なんと言うか、サブリミナル的と言うか、あんなわかりやすいサブリミナルがあるものか、と言う気もするが。

それからしばらく歩くと、江ノ島が見えてきた。海の中から森がぽっかりと盛り上がっているような姿には、どこか不思議な感触がある。どこか周囲に馴染めない感じがあって、違和感と言っても良いかもしれない。どこか周囲から隔絶されているような。後から思えば、中に入ってからよりも、対岸から見たこの景色が一番良かった。中に入ってしまうとその場所が持つ雰囲気に取り込まれてしまって、違和感に気がつけないような感じがする。まあ、そのときはちょっと感心しただけで、すぐに歩き出してしまったのだけど。

対岸から江ノ島につながる橋を歩いていると、真っ赤に日に焼けた半裸のおじさんが自転車に乗っているのにすれ違った。膝までのズボンで上半身は裸のおじさんは、そこらへんに買い物に行こうとしているような無造作な感じで観光客の間をすり抜けていく。どういう人なのかわからないけれど、その人には観光地にいるという気負いがなくて、この辺りで生活しているのが当たり前だという感じの無造作さなのだった。

江ノ島に入ってからはまず「ひたすら歩こう」と思った。もともと目的を持って来たわけではなくて、しいて言うなら風景を見に来たというだけである自分は、むしろ行きたいところが思いつかなくて、ただただ道のあるところを歩くしか選択肢がなかったのだとも言える。商店街の極端に狭い道はなかなか面白かったのだが、神社などはあまり興味がわかなかった(ただ、児玉神社と言うところがあって、100年前の名士、児玉さんを祭った神社があって、由来を読んでいたらびっくりした。児玉さんすげえ。どういうことだ)。なのでほとんどを横目に見ながらひたすら歩いた。途中、切り立った山に挟まれて谷になっている景色があってちょっと心が動いたが、絵になり過ぎる感じが気に入らなかった。自然の風景に言うことじゃないけど、作為的過ぎるというか、絵画的と言うか。むしろ途中にあった切り立った崖にへばりつくように立てられている家の方が良かったが、これもまた自分の廃墟好みが入っている感じがして良くない。人間、自分の主観からは逃れられないものだが、自分の好みなものについては特にノイズが多くなるような気がする。好きだからこそ、自分の判断力が信用出来ない感じがあるのだ。

そこからしばらく行くと急勾配の階段があって、そこに一匹の白猫が鎮座していた。別に座ってはいなかったのだが、観光客が近くを通るのにも完全に無視して微動だにしないふてぶてしさは、なにやら大物めいた雰囲気がある。他の観光客もどこか気圧されて迂回するように歩いていた。自分もどこか恐る恐ると言った心境で横を通り抜けた。階段を降りてから見上げると、森の中に階段が吸い込まれて行くように見えて、一瞬、見当識を失った。階段の向こう側には太陽の日差しで白く白く漂白されていて、別の世界があるようにさえ思えた。いささか対人恐怖症、視線恐怖症の懸念がある自分にしては珍しく、そばを通り過ぎてゆく他の観光客の視線も気にせず、おもわず写真をとってしまった。もっとも、無駄だろうとは思っていたけれど。しばらく歩いてから撮った写真を確認したが、そこにはやっぱりただの階段が写っているだけで、自分が引っかかったものがなんなのかわからなかった。

しばらく歩くと岩だらけの海岸にたどり着いた。どことなく見覚えがある。それ以前に来たことがあるというわけじゃなくて、『TARITARI』に出てきた場所だったということ。ほら、主人公が海岸に佇んでいて、彼女が自殺しようとしているんじゃないかと勘違いした友達が逆に水たまりに落ちてしまうあれ。岩にはフジツボがびっしりしがみついていて、フナムシがあちこちを走り回っていた。フナムシは岩陰に集まっているらしく、近くと通り過ぎたときには、ザザッと音がするぐらいに吹き出してきて、なんだか申し訳ない気持ちになった。お寛ぎのところすいません。岩の表面には引っ掻き傷にも似た跡があった。あちこちにかつて打ち込まれてたと思しき杭の跡もあった。海水に侵食されているのか、あちこちにかなり深い穴が空いていて満潮時に流れ込んだと思しき海水で満たされている。遠くから見るとただの水溜りにしか見えないのだが、近寄ってみると、深いところでは一メートルぐらいの深さがある。水の中に目を凝らしてみると、3センチくらいの小魚が何匹も泳いでいた。水溜りの中に閉じ込められているはずだが、岩に生えている苔を食べているようで、むしろ敵がいないぶん気楽そうにさえ見える。満潮になれば海に帰るのだろうが、水溜りの中だけで完結しているようなところがあって、認識と空間の問題について考えさせられた。

もう大体見るものは見た気がするので帰ろうと思い、さすがに疲労を覚えたので近くの食事処で江ノ島丼を食べた。しばらく休憩した後下山道を通った。下山道は完全に山の中の道になっていて、どこか甘い腐敗臭にも似た匂いがする。かなり狭い上に周囲が木々が密集していてかなり圧迫感がある。夜にはあまり歩きたくない感じだ。下山の途中にアーチ状にかかっている橋の下をくぐった。紅く塗られているのに目を引いたが、別になにかしら変わったものには思えなかった。しかし、通り過ぎたところは入口近くの商店街につながっていて、途端に明るい雰囲気になって、潜り抜けてから振り返ってみると、紅く塗られた橋がまるで鳥居のように見えた。木々に囲まれていることもあって、まるで違う世界への門のようにさえ思えた。自分のいる商店街の人混みと比較すると、人を拒絶するような気配があって、最初に江ノ島を見たときの違和感を思い出した。周囲に馴染まない感覚。まるで自分のいる場所の方が間違っているような。思わず手にしたカメラのシャッターを切った。なかなか思うようにいかず三回撮りなおした。最後に取った写真を確認して、自分にはやはり写真のセンスがないと思った。気配を感じて振り返ると、そこではカップル(夫婦かもしれない)が、同じように橋を撮っていた。自分はそのカップルを背を向けて、そのまま江ノ島の出入り口にあたる橋へ向かった。

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2012.08.30

『あるいは現在進行形の黒歴史(8)キモウトのシナリオで俺が嫁?』

あるいは現在進行形の黒歴史(8)キモウトのシナリオで俺が嫁?』(あわむら赤光/GA文庫)

第二部開始ということもあって、物語の目的そのものが変化していくようだ。前巻までの目的はあくまでも”ヒロインの攻略”にあったわけだが、今回からヒロインたちと協力して”敵”と戦っていく形になるのだろう。ただ、第一部で死神と幽霊という物語から始まりながら”まったく別の物語で上書きする”ということをやった作者のことだから、もう少しなにかあるのかもしれない。この作者は、なんと言うか、そういう”舞台”に対して非常に自覚的である感じがあって、次はどういう”舞台”を見せてくれるのかとても楽しみなのである。

ヒロインたちとの契約?みたいなものは前回で一度切れているので、今回から再び再契約をしていくことが当面の目的になるようだけど、はっきりいってヒロインたちは全員主人公にベタ惚れ状態なので、再契約自体はつつがなく行われることになると思う。そこで登場するのか今回の敵になるわけど、まあネタバレを気にしていては何もかけないので書いてしまうが、今回の敵は主人公によって幾度か言及されていた超優秀な兄なのだが、彼は本気で日本転覆を目論むことになって、ヒロインたちの再契約の障害になっていくのではないかと思われる。ただ、気になるのが、今回現れた四天王の一人が倒されたわけだけど、四天王がそれぞれ一冊の敵役になるとしても、再契約するためには数が足りないんだよね。兄貴を含めても、五人のヒロインと再契約したら話が終わってしまう。これは切り札か黒幕が出てくるフラグだろうかね。まあ、その辺は今後の楽しみに取っておくことにする。

しかし、日本を転覆してしまった兄貴には、いかにもラスボスの風格が漂っているわけだけど、見方を変えれば、またしても家庭の兄弟の問題に過ぎないとも言えるわけで、楓子といいなんと迷惑のスケールがでかい兄妹なのかと感心してしまう。間違いなくお前たちは日本一迷惑な兄妹だ。複数のバトルヒロインでハーレムを作っている主人公も大概なので、ようするにこのご家庭の構成員は全員超人ということなのだろう。話が逸れたので戻すけど、そういうご家庭の話に終始していくのなら、第二部の目的は兄との和解、あるいは決別となるのだろうが、兄貴の内面がさっぱり分からないので、このあたりも保留にしておきます。主人公の兄貴コンプレックスは深刻なものがあるので、”主人公の物語”としてはかなり強く出てきそうな気もするけどね。

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2012.08.28

『泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部』

泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部』(酒見賢一/文藝春秋)

第壱部、第弐部の感想を書いたっけ……といまいち自信がなかったので調べてみたらちゃんと書いていた。しかし、第壱部が2005年、第弐部が2007年か……そんなに前の話だったのか。書いたことを忘れるわけだよ。

この物語は基本的に三国志演義を元にしていて、史実とはあまり関係ない諸葛孔明の神算鬼謀の活躍を描いているのだけど、三国志演義というのはもともとエンターテインメントであるわけで、冷静になって考えてみるとおかしなところが多い。いくらなんでも孔明を持ち上げすぎだろ!ってところから始まって、物語的に筋が通らないところやキャラがぶれているところもあったりする。この作品の面白いところは、そういう筋が通っていないところをあえてそのままにして、作者が一生懸命に妄想をたくましくて、どうしてそんな話になるのかを補完していくところなのだ。

今回は赤壁の戦いということなので、三国志演技的には一大クライマックスと言えるところなのだけど、作者はそこでも妄想をたくましくしていく。魯粛と言えば呉における親劉備派の筆頭のような人物だけど、彼の立ち回りは三国志演義のそのまま真に受けると迂闊というか外交官としては判断力がないんじゃないか?と思わざる得ないところがあって(敗北して素寒貧の劉備軍団に執着しすぎだろ、みたいな)、そういうところを埋めるために、孔明がいかに悪辣に魯粛を篭絡していくか、劉備が魔性であるかを描いていく。そうして描かれた孔明像、劉備像は喜劇かコントかと思えるほどに極端でコミカルな存在になっていくのだ。

一方、悲劇の知将としても有名(だと思うんだけど)な周愉の描写にも筆を裂かれていて、こちらは演技での扱いがあまりにも悪すぎるためか、整合性が取れるようにするための作者が妄想をしていくと、非常にカッコイイキャラクターになっている。もともと三国志演義において孔明の存在をクローズアップするために、無理矢理貶められているところがあったので、そういうところを解いていくとカッコよくなってしまうようだ。まあ、周愉の描き方はあまりにもまっとうなので面白くはないんだけど(ひどい事を言っているような気がする)。

このようにこの作品は三国志演技をだしにしながら、作者の妄想を楽しむ作品なのだと言える。基本は三国志演義を元にしながらも、面白くなるようなら正史や他の資料や歴史書の著者たちの言葉までの引っ張ってきて、ああでもないこうでもないと悶々と妄想していく。そのやり方は非常にいいかげんのようで、実際にいいかげんなんだけど、いいかげんであるゆえの自由さもあって、楽しいのだった。

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2012.08.25

『聖断罪ドロシー01 絶対魔王少女は従わない』

聖断罪ドロシー01 絶対魔王少女は従わない (角川スニーカー文庫)』(十文字青/角川スニーカー文庫)

少年と少女の逃避行物語という事で、なんとなく同作者による『いつも心に剣を』シリーズを思い出した。『いつも心に剣を』は価値観や生まれの問題から世界から排斥された主人公たちが、それでも生きていこう願い、それが果たせないためにひたすら傷ついていく物語だった。『聖断罪ドロシー』シリーズとはどこかイメージ的に響きあうところがあって、曖昧な印象ではあるが『いつも心に剣を』と姉妹作のようにも思えるのだった。ただ、その現れ方は正反対と言っても良いくらいに違うのだが。

まず『聖断罪ドロシー』の物語では、主人公のカルアたちは世界からのそれほど強い断絶は感じていないように思える。すべてを失って、追っ手に脅かされながら、それでも世界に絶望していない。これは主人公が世界と対峙できるだけの、まあ無敵とは言えないまでもそれなりの力を持っているという事が大きいのだろうし、そこには余裕があるからこそ人は優しくなれるという作者の身も蓋もない結論が垣間見えるのだが、それだけではない。個人的にはヒロインであるドロシーの在り方こそ重要なものなのだと思う。

ドロシーは困っている人を見捨てられない正義感の強い性格なのだが、それは物語において無条件には肯定されない。むしろ、逃亡者である彼女たちにとって、正義感を振りかざすのは過ぎたる行為だと言える。彼女の正義感は大抵は空回っており、多くは事態を混乱させ、しばしば彼女を守ろうとするカルアの身を危険に晒す。他人のために行動することは尊い行為ではあるのだが、自分の分をわきまえない行動は、自分だけではなく他人に害を為すものという事が描かれている。世界は善意が無条件で報われるほど優しくないのだ。

しかし、それでもドロシーの行為は大切なことなのだと思う。善意が報われなくても、むしろそれが自身の身を危険にさらすことでも、なにより自分以外の人間にさえ害を為すことであったとしても。それでもなお、誰かのために行動することは大切なことなのだ。それは別に他人に親切にするは正しいことだ、みたいな道徳の問題ではなくて、現在における身の安全と言ったもので収まらない、もっと広い意味での利益につながることなのだ。

それが”世界からの断絶”に関わってくることなのだが、つまり、世界から拒絶される人間とは世界を拒絶している人間のことなのである。他人を信用せず、他者の善意を拒否し、自分の利益だけも求める人間、それが”世界を拒絶”するという事だ。まるで卵が先か、鶏が先かの問題のようだが、個人的には、世界から拒絶される人間とはそういうものだと、自分は思う。だからドロシーの態度は世界からの拒絶と戦うと言う意味でとても正しいことなのだ。世界から拒絶されようと、善意を悪意で返されようとも、自分の大切な人の負担になったとしても、それでも、やはり、他人に手を差し伸べる行為はいつしか自分の利益になる。情けは人のためならず。他人に手を差し伸べ続けた人間だけが、他人から手を差し伸べられる権利を持つのだ。

けれど、この物語において肝要なのは、そうしたドロシーの正義感は、あくまでも”無思慮”の元に行われているという事だ。自分の正義感がカルアの負担になり、いつかはカルアの命を危険にさらすことになるという事に、彼女はあまりにも無自覚である。そのことに自覚したとき、彼女はそれまでと同様に他人に向けて無条件に手を差し伸べ続けることが出来るのか。それはとても大切なことで、正解なんてないことだけれども、考えないではすまされないことでもあるのだろう。

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2012.08.23

『シュヴァルツェスマーケン Requiem -祈り-(1)』

シュヴァルツェスマーケン Requiem -祈り-(1)』(内田弘樹/ファミ通文庫)

戦争ってのは平和の時に是とされたものがことごとく否定されていくものなんだろう、と言うのは戦争を知らない人間のあくまでも想像、妄想みたいなものだが、そう思う。そこでは思いやりは否定され、客観的な冷静さは排斥され、個性は押しつぶされ、何より命についての価値が否定される場所だ。日常の非日常が切り替わることで、日常の”正しさ”は否定される。

その非日常に適応してしまえばそれはそれで話は簡単なんだろうけど、人は戦争が終わった後のことも考えて生きていかなくてはならないのが難しいところだ。非日常を生き抜くためにはそれに適応することがもっとも簡単なのだが、それでは日常に適応出来なくなってしまう。非日常に適応してしまえばそこが日常になるからだ。そうなれば生き抜くための目的そのものだった日常への帰還が無意味なものになってしまうのだ。

だから、戦争で生きるために絶対に忘れてはいけないことは、(たぶん)”決して戦争に適応してはいけない”という事なのだ。戦争のために自身を最適化してはならないという事が、あるいは生き残ることを同じくらい重要なことなのかもしれない。それは”戦争に適応することなく戦争を生き延びること”であり、つまり”戦争と戦う”という事なのだ。

ただ、それは戦争をただ拒絶するのものではなくて、生き延びるための闘争は肯定されるべきだとも思う。そのために犯す罪は、人間の業として受け入れていかなくてはいけないはずだ。そこにはたぶん絶対的な意味での正解はなくて、これからも常に考えていかなくてはならない問題だろう。

この辺は妄想でしかないんだけど、わりと本気でそう思っているタイプの妄想なのだった。

以下、各話感想。

「死の都にて」
この戦争に適応しないために必死にすがり付いていた不合理が、無残に押しつぶされていく姿が描かれている。人の命を守る、街を守る。そんな当たり前の”正しさ”が戦場での”合理”によって踏みにじられていく。人々はそんな”正しさ”が無意味だと言う。生き残るためには不必要だとも言う。けれど、そうした”正しさ”を守り続けることが、人々が”帰還”するために必要なことのはずだった。それを見失ったとき、人は戦場の合理となって最適化される。

「焦土の花、幸せの理由」
死の都が戦争合理の話だとすれば、こちらは非合理の極みみたいな話だ。明日死ぬような状況でも、ラブコメをやってもいい。たとえ明日死ぬとしても、今日は恋をしていてもいい。それは生き残ることとはまったく関係ない無意味な行為だけど、それこそが”戦争と戦う”という事なのだろう。

「鋼鉄の墓標 シュルトヴェンブルク一九八一」
傍目からは自己犠牲的に見える行為でも、別にそれは悲壮な決意とか理想があるわけではなくて、それは戦争に対して決して敗北を認めようとしない行為であって、けれどもそれを”勝利”だとかでは語りきれないものがある。話は変わるけど、”選別”と言うのは圧倒的な戦争の合理化であって、それは”戦場に適合しないために生きる”と言う意味では最悪の場所だと思う。どういう精神がそれを可能にするんだろうか。

「アネットの憂鬱」
えーと、その。なんか言いたいこともあった気がするけど、アネットさんのツンデレ疑惑の発生のため、そういうことはどうでも良くなりました。なんか報われないラブコメヒロインの匂いがぷんぷんしますね。今後の活躍に期待が高まります(ラブコメ的な意味で)。

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2012.08.21

『龍ヶ嬢七々々の埋蔵金(3)』

龍ヶ嬢七々々の埋蔵金(3)』(鳳乃一真/ファミ通文庫)

この作品で自分が気に入っているところの一つに、キャラクターが多彩で魅力的であることなんだけど、自分の思う”魅力的なキャラクター”と言うのは、”関係性”が描かれているかと言うことでもある。まあ、”関係性”という言葉をわりと自己流の意味で使っているため、ちょっと大袈裟に捉えられてしまうような気がするので、もうちょっと説明すると、心情的、あるいは立場的に異なるキャラクターたちが交流することで生じる”変化”が描かれている、という事だ。

これまた個人的な見解になってしまうのだけど、自分は”関係性”と言うのは”変化”の中にしか存在しないものだという感覚がある。つまり、キャラクターの設定(性格、背景)は確固としたものがあるとしても、それだけでは関係性は生まれなくて、多くのキャラクターが交わることで生まれる葛藤によって、それぞれの持つ”設定”、つまりキャラクターの心情や立場と言ったものが”変化”していく。その変化こそが、自分の思う”関係性”であって、そこには”関係”そのものはそれほど重要ではない。友達だったり敵だったりというのは関係性の一側面であって、それはいくらでも変化するものなのだ。

この作品にはそういう変化している関係というのが描かれているような感じがあって、つまり、キャラクターの関係を”設定”で語るのではなく、それぞれの交流の上で自分の立場を決めていくような物語の流れに身を任せているような印象があって、そういう”動き”のある描き方がとても好ましいのだった。(まあ、これは勝手な思い込みであって、作者すでにキャラの関係を決めている可能性もあるけど、それはそれでかまわない。)

キャラクターがとにかくいっぱい出てくる作品は、ただキャラクターが多いというだけで独自の力学が発生してくるものだけど、それをきちんと関係性を描いてくれる作品となると、これはライトノベルでは多くない。大抵は関係性を制限することで物語を描こうとする傾向があって、それを乗り越えているだけで、自分なんか喜んでしまうのだった。

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2012.08.19

『南極点のピアピア動画』

南極点のピアピア動画』(野尻抱介/ハヤカワ文庫JA)

理系ボンクラ小説と言うのがピッタリくる作品だった。ボンクラと言ってしまいたくなる理由は、非常に趣味的であり、さらにその趣味性に全能性が付与されていると言う意味で、非常に強い肯定感が作品全体から感じられるのだ。それは人間に対する信頼と言うか、もっと言えば世界とか運命とか、あるいは未来と言ったものに対する信頼が満ちている。物事は常に収支があっているものであり、正しい行為には正しい結果が返るのだ、と言うような楽観的で健全な倫理観が根底に流れているのだ。常識を逸脱した判断やアイディアがあったとしても、それが正しいことなのであればかならず報いがある、とでも言うような。そして、それは未来を見る目としては正しいのだと思う。と言うか、未来に期待するというのは、ある種の楽観に身をゆだねるという事であり、そうでなければ未来を考えることなんて出来ないのだと思うからだ。

以下、各話感想。

「南極点とピアピア動画」
ピアピア工場の存在がマジですごい。って言うか、なんだこれは?工業製品が自己改造を繰り返して進化していくようなものなんじゃないだろうか。まあ、イメージは分かりやすいし面白いとは思うんだけど。でも、こういう考え方の延長線上に面白い事が起こりそうな気もするな。アメリカだったら絶対暗ーいSFになっていたような題材だけど、それを面白おかしい希望に満ちた物語に寄与しているあたりが作者らしいし、なにより理系の人って感じがする。

「コンビニエンスなピアピア動画」
こういう作品を読むと、自分の価値観がいかに悲観に満ちているのが良く分かる。まさかコンビニエンスストアの販売形態に夢や希望や未来の光を見出す価値観があるとは想像さえしていなかったよ……。なるほど、明るい未来を考えると言うのは、こういう風にやるのだな。勉強になります。あと、真空状態で生きる蜘蛛の発見から軌道エレベーターの構築までが、市井の井戸端会議レベルの話し合いで成立していく展開には戦慄さえ覚えますね。確かにネットは世界を変えてはいるけどさ……。

「歌う潜水艦とピアピア動画」
人間は、と言うか日本人はほんと人外ヒロインが大好きだよな。もちろん自分も大好きだけどさ。だからこそ近年の初音ミク人気と言うのがあるわけで、ああいうバーチャルにしか存在しえない現実から遊離した存在さえも、本当に意味で愛せる力と言うのは、まあ正直なところ、個人的にはあまり好きにはなれないんだけど、その力の存在だけは認めざるを得ない。これぐらいの力がないと、万物に神が宿る、なんていう神話を許容できる精神性は宿らないよね。日本人は昔から、現実的非現実的を問わず、万物に人格の実存を信じ愛し続けてきた実績がある。初音ミクを見ていると、そういう事を思い出すことが出来て、どこか良い気分になれるんだ。

「星間文明とピアピア動画」
そうそう、これですよ。異星人のインターフェイスを平然とした顔で受け入れてしまうこの楽観論。相手が地球侵略を目論んでいたらどうするんだ、と言う平凡な意見を一蹴する力がそこにはある。個人的には、こういう風に受け入れてしまうのは論理的じゃないし、ありえないと思うんだけど、このような楽観論こそが未来を夢見るってことなんだよな。まあ、実のところ個人的な話をすれば、長門が宇宙から突然やってきたら普通に受け入れてしまいそうなラノベ脳な自分も同類だとは思うんだけど。いろいろ事情があって、もしかしたら人間を裏から監視しているのかもしれないけど、まあ別にいいじゃない可愛ければ、みたいな感覚は自分にもあって、このあたりの感覚が理解できる人ってのはどれくらいいるんだろうね?この楽観論がありえないって思っている自分の認識が間違っているのかな?案外、簡単にみんな受け入れてしまうのかねー。

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2012.08.17

『OUT OF CONTROL』

OUT OF CONTROL (ハヤカワ文庫JA)』(冲方丁/ハヤカワ文庫JA)

自分は冲方丁の作品はデビュー作の『黒い季節』からずっとリアルタイム読み続けている最古参のファンであることを自負しているのだが、よく考えたらあまり感想を書いていなかったような気がする。なんか、その、気負いが強すぎてプレッシャーがあって、なかなか書く自信が湧かないんだよね。しかし、昔からのファンを自称するのであれば避けては通れない道だと思うので、そのうち冲方丁の全作品の感想を書くとかやってみたいところだ。今年中にやりたいなあ。

それはともかく。

冲方丁の作品は、常に暴力とそれと裏腹に存在する理性があって、暴力と理性の狭間で葛藤することこそが、人間の本質なのだという事が描かれているように、自分は思っている。もちろんそれは描かれているところのほんの一部に過ぎないのであって、それ以外にもさまざまなテーマが走っているのは言うまでもないけれど、それでもやっぱり自分が一番に惹かれる冲方丁の部分はそこなのだった。

人間は、やむにやまれずにどうしても暴力を使う、つまり闘争を行わなければならないのだが、しかし、暴力をただ振るうだけでは獣と変わらず、人間が獣と峻別されるところは、すなわち”自らの意思で闘争を放棄出来る”ところなのだと思う。闘争の放棄と言っても、これは無抵抗主義とはぜんぜん違うものであって、つまり、”戦わないことが生存戦略になる世界”を目指すということなのだ。戦わないことが”当然”としてある世界を作ることが可能とするものが、人間の理性の力だとも言える。

ただ一人の個人が闘争の放棄を行ったところで、それは”ただ一人で死ぬだけ”であって、これはまったくの無意味だ。無抵抗主義は尊いかもしれないが、それで死ぬだけであるならば、それは正しいことではないのだと、自分は思う。冲方作品においては、無抵抗に殺されることの理不尽さには、常に闘争を持って抵抗しなくてはならないとされている。『シュピーゲル』シリーズでは悲惨な人生を送ってきた少女たちが、それでもなお世界に対して復讐ではなく、自立してあるために力を振るうのであるし、『蒼穹のファフナー』においては、一方的な侵略者たちに存亡をかけて生き残るための戦いが行われていることからも、それは明らかだ。

だが、それはまた闘争を肯定するものではまったくないのだ。闘争とは、決して闘争そのものを目的としてはならないという事は、冲方丁の作品の中で幾度も語られている。『マルドゥックスクランブル』においては、自分の命を脅かす敵でさえ、”憎しみをもって相対してはならない”ということが語られてさえいる。闘争とは、常に闘争を終わらせるために闘争されねばならない。それこそが”戦わないことが生存戦略となる世界”を目指すということであり、闘争の持つ真の意義なのだと思うのである。

そしてそれが理性というものが持つ意味だ。多くの人々が”自らの意思で闘争を放棄する”ことで、生物の本能が追い立てる生存闘争への衝動を克服することが、人間の理性の意味なのだ。暴力の連鎖を断ち切ることは、人間の理性においてのみにしか為しえないこと。『カオスレギオン』において、主人公のジークは紛れもなく作中最強の存在であるにも関わらず、彼は自分の力を”いつか捨て去るための力”だとみなし、捨て去るために戦うと語るのだが、これはつまり、冲方丁の物語においては”あらゆる暴力は最後に手放されるためにこそ存在する”のだとも言えるだろう。

以下、各話感想。

「スタンド・アウト」
自分が自分以外のものになっていく不安、つまり”青春期”における焦燥感が描かれている。どことなく自伝的な雰囲気を漂わせるこの物語は、それゆえに切迫感が極めてリアルに描かれているように思える。”最前線にいた”者が持つ感覚と言えばいいだろうか。その中で、少年は暴力と血に強く惹かれるが、ある瞬間、彼は自身の闘争へと態度をはっきりと自覚することになる。暴力に翻弄されるのではなく、暴力を支配すること。暴力とは常に理性の中で振るわれなければならないということ。自分は決して暴力に酔わないという事を自覚したことで、彼は初めて”立ち上がった”のだ。これは先ほども書いた”暴力と理性”の物語のプリミティブなあり方が描かれていて、とにかく凄まじい熱気に溢れている作品だと思う。

「まあこ」
これはおそらく”悪”についての物語なのだと思う。悪は悪として生まれてくるのではなく、”悪にされる”のだと。悪を生み出すものは、怒りかもしれないし憎しみかもしれないし、あるいは本当に純粋な正義感であるのかもしれない。誰も自分が悪を生み出しているとは気がつかないかもしれないが、しかし、悪とは偏在する。それは誰の心にも悪がある、という話ではない。誰もが”悪を生み出しうる”ということなのだ。

「箱」
これは”虚無”についての話だと思う。虚無とは”何もない”ということだ。あるいは”何もないということがある”ということかもしれない。虚無と言うのは、際限なく人間の心や意味と言ったものをブラックホールのように吸い込んでいって、そしてそのあとには何も残さない。何も生み出さず、何も破壊しさえしない。虚無を抱えた人間は、ただひたすら際限なく、自分を含めたあらゆるすべてを破滅させることしか出来ない。

「日本改暦事情」
『天地明察』のプロトタイプと言うか、中篇版というか。これを読むと『天地明察』のどのあたりがボリュームアップされているのかが良く分かる。プロットはほとんど変わらないんだけどね。もともとのプロットが明らかに中篇で収まっていないのが良く分かります。

「デストピア」
世界はいつだって人間を押しつぶそうとする理不尽に満ちている。それに抵抗できなければ、ただ押しつぶされるだけだ。だから、そうした理不尽に対しては、闘争を持って抵抗しなくてはならない。生き延びるために。生きていくために。しかし、それは”正しい手段”を持って為されなければならないものであって、手段を誤った闘争はいつしか”虚無”を生み出してしまう。闘争のための闘争がなされ、世界は煮詰まっていって、すべてを無に帰そうとしてしまうのだ。武器とは凶器である。凶器を制御する術を、この物語の主人公は知らなかった。それはただの暴力となり、虚無がすべてを支配するまで終わることがない。

「メトセラとプラスティックと太陽の臓器」
生きるということを考えるとき、同時に死ぬことを考えないわけにはいられない。死を意識することは、自分の生の意味を考える最初の一歩なのだ、と。そうなると”死なない”ということは、はたして自分の生にどのような意味を付与することが出来るのだろう。まあ、こんなのは余計なお世話かもしれない。生きる意味を決めるのは本人の責務だし、本人にしか決められないことなのだし。

「OUT OF CONTROL」
言語感覚とかはさておいて、あらゆる冲方丁作品からの引用から成り立っているコラージュみたいな作品で、どこからの引用なのかを知っていればニヤリと出来るだろう。どれがどの引用なのかが分かっていると、この物語でどういう意味があるのかも分かるようになるので、ある意味、重度なファン向けの作品かもしれない。全作品を読み込んでいないと意味が分からないんじゃないか?ともあれ、おそらくこれもまた”闘争と理性”そして”悪”と”虚無”の物語であることが読み取れる。悪はいつだって人間を陥れようとするし、虚無は常に世界を破滅させようとする。それに抵抗するために、人はいつだって戦わなくてはならない。ただ、その戦いは戦いのための戦いではなく理性によるものでなければならないのだ。

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2012.08.16

『冴えない彼女の育てかた』

冴えない彼女の育てかた』(丸戸史明/富士見ファンタジア文庫)

消費型のそこらへんにいる一山いくらのオタクだって自分を表現したいことはあるんだ、というのが健康的だと思うのだが、このあたりを意地悪な見方をしてしまうと、そうしたオタクがどれだけ自己表現に失敗してきたのかということが背景にあって、だからこそ自己表現の出来ないオタクが自己表現をするためにはどうしたらいいのか、みたいな物語になっている。

結局のところ、いやこれは自分自身のことを言っているんですが、クリエイターになれないオタクってのは”描きたいこと”ってのがない。”気持ちいい”ことならいくらでもあって、どういう展開が”気持ちいい”のかはすごく良く分かるんだけど、それをどのように発露していいのか分からない。そういうところに劣等感があって、どこか自己表現が出来るオタクに対する嫉妬のようなものがある(ような気がする)。嫉妬というのが強すぎる言葉であるような気がするので、隔意と言い換えてもいいか。「自分とは違う」とか、そんな感じのもの。他の人は知らないけど、自分にはそういう感覚を抱いていた時期があったのです。

まあ、こういう”自己表現”が出来ないオタクが主人公の物語というのは、わりあい王道という印象はあるのだけど、こういう物語の多くは、実は最初から”作れるタイプだったか”あるいは”途中で才能に覚醒”するケースであって、この物語では”自己表現が出来ないオタクが出来ないまま表現するにはどうしたらいいか”というものになっているのだ。

主人公はギャルゲーのシナリオを書こうとするんだけど、ついついネットをやったり漫画やラノベを読んでしまって、ずるずると放置してしまう姿がユーモアも持って描かれていて、小説を書こうとしてはまったく同じ理由で挫折した経験を持つ自分のような人間にとっては、単に「あるある」では済ませられないキツさがあった。書けない人間ってのは、ここでどうしても這い上がれない人間のことなのだが、這い上がるだけのモチベーション、つまり”自己表現”への強い意思が決定的に足りない。そこがどうにも突破できないのがリアルでもあるし、当たり前の姿でもあるだが。そうした平凡なオタクである主人公が”自己表現”の壁をどうにか突破しようとする姿を描いているのだが、そこには才能とか努力など物語的な都合はほとんど描かれることなくて、どこまでも平凡な人間が、平凡なままに”突破”する物語になっている。自分はなぜ自己表現をしたいのか、その欲求の所在をどのように見つけ出せばいいのかと言う物語がそこにはあって、オタクを過剰に称揚することも、あるいは逆に卑下するものでもない描き方が良いと思うのだった。

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2012.08.13

『幻獣坐(2)The Ice Edge』

幻獣坐(2)The Ice Edge』(三雲岳斗/講談社ノベルス)

前巻においては、主人公とヒロインの関係が一方通行的なものとして描かれていたが、今巻においてはいささか変化しているように思えた。主人公が情報を独占することでヒロインを思い通りに動かしているように見えるのは前巻と変わらないのだが、実のところ主人公はヒロインの思考のすべてを把握しているわけではない。また、一方的に操られているように見えるヒロインも、主人公をまるで把握していないわけではない。むしろ、主人公の人間性については、本人も理解していない深い部分を理解しつつあって、主人公が彼女を抑え続けることの困難さが示されているが、それとはまた異なる”信頼関係”のようなものもまた、そこにはあるのだ。

しかし、一見したところ二人の関係は信頼関係とは程遠いところにあるように思える。ヒロインは主人公を信頼しているように見えるが、それは主人公の真意を知らないからこそ信頼しているのであって、主人公がヒロインに積極的に殺人の道具として使おうとしていることを知ったならば、今の信頼はすぐに壊れることだろう。主人公は、前述した通り、そもそもヒロインを道具として使うことが第一である。彼の行動は、ヒロインをいかに自分の都合の良いように動かしていくことであって、それは信頼とは言えないものだ。むしろ、もう一人の幻獣坐とそのパートナーの関係を見れば、主人公たちの関係は歪なものであるのは明らかだ。

だが、それでも自分は、この二人にはある種の通じた感覚があるように思う。例えば、主人公が講じた最後の策は、ヒロインが主人公の言葉を絶対に信じるという事が前提になっているように。彼女が一瞬でも彼を疑ったのならば、その瞬間、主人公は殺されていただろう。そういう策を咄嗟に実行したという時点で、主人公にとって彼女はただの道具ではない(少なくとも信頼している道具ではある)。またヒロインの方も主人公について盲目的に信じているわけではない。主人公からは多くの情報を隠され、彼の真意を知らぬままであろうとも、それでも彼の行動や言動を、どこか冷静に受け止めている。それによって、「主人公は手段を選ばぬ危険な人物である」という事を理解しつつ、その上で信じることを選んでいるのだ。それはただ操られるものの態度ではなく、状況次第では相手を”食い破る”意思を持ち合わせているという事でもある。

二人の関係は、一般的な信頼関係とは異なっているが、まぎれもなく自らの意思でお互いを求めている。それは無償の信頼関係ではないかもしれないが、人間は”不信”と”誤解”からでも信頼を生み出すことが出来るもので、それは決して他の信頼関係と劣っているものとは限らないと思うのだ(この二人の関係がそうなるかどうかは分からないが)。

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2012.08.12

『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』

下ネタという概念が存在しない退屈な世界』(赤城大空/ガガガ文庫)

人間を人間たらしめる衝動を抑圧することで人間管理が行き着いてしまった世界で、人間であることを取り戻そうとしたささやかな戦いを描いたと言う意味で、とても真面目なディストピア小説だと思う。抑圧され、管理されているものが性欲というか、エロというのは一見ふざけているようだけど、抑圧されたときのダメージが読者に容易に想像させうるということを考えれば、なかなか良い題材であるといえるだろう。性欲は人間の歴史において実際に抑圧されてきたと言う実績もあるので、より読者に身近なテーマであるからだ。

いきなり話は逸れるけど、例えば昔のキリスト教は自慰行為が罪とされたこともあって(まあ、現代でも厳密には罪なんだろうけど)、エロネタをおかずにすることさえも許されないわけで、中世暗黒時代と呼ばれるのも伊達ではないな、と思ったりもしています。自分は、大学で中世史を取ったんですけど、そのとき思い知ったのは、キリスト教はマジやばいってこと。カルト宗教が世界を支配するとこうなる、というやつの典型ですよ。びっくりするほどディストピア。

まあ、それは別にどうでもいい話。そんな感じでエロが抑圧されている世界では、エロに関わることはすべて悪とされる。これはどういう事かというと、人間が普通に持っている衝動を、普通に表明することが”悪”だというレッテルを貼られてしまうと言うこと。つまり「生きることが悪」だと言っているのと同義なのであって、エロに限らずとも人間が人間として当然あるべきものを抑圧することが、ディストピアの恐ろしさなのだと思うのだった。

こうした”価値観”によって定められてしまうことは実に恐ろしいもので、あるときまでは正しかったものが、ある日突然悪とされることがある。この物語の主人公はその影響をもろに受けた存在であって、彼はあくまでも健全な範囲でエロの知識を与えられながら、しかし、そのエロが悪だとされたことによって、彼自身の正義と悪が完全にひっくり返ってしまうことを経験している。最初からそれを知らないクラスメイトたちと異なり、彼は、自分の知識が、存在が悪であるというレッテルを、価値観から押し付けられているのだ。

それは”価値観”というなんだか実態の良く分からないものからの勝手が押し付けでしかないのだが、そのことに主人公は気がつけないでいる。価値観に従わなければ”普通”から弾き出されるという恐怖が、価値観にに対して絶対的な強制力を付与することになるであった。

その”普通”には根拠なんてまったくないものであって、ただ誰かが言い出したことが尾ひれがついて流布されただけだ。意味も、理由もない、ただの思い込みのようなものだ。誰かが泥酔したときのぼやきが広まっただけかもしれない。そんな幻のように実態のないものに、人々は支配されていく。そのことに抵抗するか、甘んじるのか、それは人それぞれの自由ではあるが、しかし、”自分がただ生きるだけで悪”とされる世界で生きるのならば、漠然と人々から悪だとささやかれるよりは、せめて戦って悪とされたいという気持ちは、決しておかしなことではないはずなのだ。

追記。ヒロインの一人である華城綾女は全裸でパンツをかぶって疾走するぐらいの気合が入ったエロテロリスト(言葉通りの意味)だが、この世界だと実地経験が出来ないので、つまりは超絶的な耳年増に過ぎないと言う描写にはグっと来た。もう一人のヒロインであるアンナ会長が超天然痴女(性的な事柄に無垢過ぎたがゆえの過剰な発露)を発揮されると顔を真っ赤にする綾女に、なるほどこれがギャップ萌えか……と深く感ずるところがあったのだった。

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2012.08.09

『神林長平トリビュート』

神林長平トリビュート』(原作:神林長平/ハヤカワ文庫JA)

たしかハードカバーで買っていたはずなのだが、積読のままどっかに行ってしまったので、文庫版を買いなおした。いや、探せばあるねんで?あの辺のダンボールが怪しいやで?けど、同じようなダンボールが三箱ほど上に乗っかっているから取り出すのがめんどくせえ、なんてことをちょっと思っただけなんやで?(うぜえ)

しかし、神林長平も若手作家によってトリビュートされる作家になったのだと思うと、なかなかに感慨深くもありつつ、なるほどと納得するところだ。などと言う自分はここ5年ぐらいの間で読み始めたにわか神林ファンではあるけど、執拗に内面と外面の結び付きを描き続ける神林作品の魅力は、人間の内面が変化しない以上、普遍性のある題材だと思うのだった。

以下、各話感想。

「狐と踊れ」(桜坂洋)
胃袋が独自の意識を持ってしまった世界を、人間の体から飛び出した胃袋の視点から描いたアクション格闘ロマン。人間の一器官というアイデンティティを失ってしまった胃袋、フムンは戦いの果てに何を見るのか、と言う話。うん、まあ、だからどーしたという感じは無きにしも非ずだけど、自分の存在証明を得るためには戦わなければならないのだが、それによって勝ち取ったものが本当に存在証明になりえるのか?というところまで手を伸ばしている。勝って手に入れても、それは結局のところ誰もが手に入れられる普遍物に過ぎなくて、本当に自分自身を証明するためには、そうした闘争とは別のところにあるんじゃないか、という事かもしれない。

「七胴落とし」(辻村深月)
子供の世界は大人には見えないし、大人になってしまえば失ってしまう、というところで大友克洋の童夢を思い出した。すっかり大人になってしまった自分が、子供の頃のことを思い出すと、どうしても断片的になってしまっていて、当時感じていたはずの情感が伴わないところがあって、そこではやはり子供の世界は失われてしまっている。原典の『七胴落とし』もそういう話だけど、こっちはずいぶん優しい話だな。

「完璧な涙」(仁木稔)
原典のアウトサイドストーリーと言った感じ。もう少し原典をぶっ壊してもいいんじゃないかと思うけど、あんまり壊したくなかったのかな。最後の「初めて再会する見知らぬ恋人」のイメージが書きたかったのかもしれない。SFメロドラマですなあ。

「死して咲く花、実のある夢」(円城塔)
最初に読んだときはなにがなんだか分からなかったけど、二回目でうっすらと意味がわかった。まあしかし、人間にはアクセスできないとこかの箱の中にいる誰かさんが、せっせと記述しては出力してくれるモノ、と言うのは面白かった。それは生命と呼ばれるもので、けれども観測してしまったことで、”死”が確定してしまったと。生と死は不可分のものではなくて、それぞれ断ち切られた状態であるというのは不思議だった。不思議だと思う自分もちょっと不思議だ。生と死って、考えてみれば別物だよな。なんで同じものだと思っていたんだろう。ぜんぜん関係ないけど、魂を見たことも触れたことも嗅いだこともない自分としては、主人公の言っていることの方がしっくりくるな。そういうものなのだ。

「魂の駆動体」(森深紅)
ひーノスタルジー。でもノスタルジーって言ったら年寄りの専売特許とわけじゃねーと思うんだけどなあ。若者だってノスタルジーに浸る権利があってもいいと思わない?

「敵は海賊」(虚淵玄)
ウロブチ先生の手にかかれば、カーリー・ドゥルガーだって女の情念ドロドロです。純真無垢だったカーリーさんが、悪い雰囲気を漂わせた海賊王ヨウメイ(漢字が出ない)の悪辣な手口によってメロメロにされてしまう。ヨウメイはマジで女の敵。言われるがままに悪女に落ちていくカーリーさんの姿にはちょっと萌える。

「我語りて世界あり」(元長柾木)
少女のエゴイズムとセカイとバトルをしていて、なんと言うかバカ小説寸前。けどちょっと切ないところもあるような。少女ってのは周囲から抑圧(あるいはその逆か)されるもので、それに立ち向かうためにはひたすらに噛み付き、傲岸に振舞わなければいけない。そうしなければ、セカイに食われてしまう。僕にこういうの嫌いなんですが、まあ僕は少女じゃないし、むしろ少女に殺されるタイプの人間だから、当然と言えば当然だ。

「言葉使い師」(海猫沢めろん)
書を捨てて町に出よう!一言で言うとそんな感じ。言葉を絶対視することをやめて、その意味を覚えていく。そして意味はいつしか変質して別の何かになっていくのだろうけれど、それが言葉の本質であると。つまり「いつしか意味を失うこと」そのものが言葉の意味である、というようなことかもしれない。失われることに意味がある、とね。いろいろ現実に当てはまりそうな話だけど、当てはめちゃあ興醒めな話なんで、厳禁です。

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2012.08.08

『スクール・デモクラシー!(2)』

スクール・デモクラシー!(2)』(吉村夜/講談社ラノベ文庫)

前巻に引き続き極めて啓蒙的な作品になっているんだけど、なんだかんだでエンタメにしているのは良いと思う。ただ、作者がもっとも届けたい層にちゃんと届くのかどうかが不安なところで、学園異能的政治バトルなんてやっても喜ぶのは自分のようなおっさんばかりなのでは、と思わなくもない。

それはそれとして本編について。前巻においてはなんだかんだで学園で独裁的強権を振るう真・生徒会と、学園にリベラルを持ち込もうとするカオス・生徒会という対立構造で語られており、主人公の目からは、やはりリベラル側であるカオス・生徒会側が”正しい”ように描写されていた。独裁に対する解放軍みたいな、単純な二元論に落とし込まれているところもないではなかった。だけど、もちろん政治において、”正義”と”悪”の対立構造などありえない。真・生徒会もカオス・生徒会も、それぞれが理想とすべき目的のためにあらゆる手段を用いて選挙を勝ち抜こうとしていて、そのためには民主主義の原則を捻じ曲げることさえも平気で行ってゆく。大衆を煽動し、思考能力を奪い、選択を狭めてゆく。時に相手の弱みにつけこみ、弱みがなければでっち上げることさえもする。両陣営はお互いを徹底的に攻撃し合い、思考能力を失った愚民たちを都合よく動かしていくのだった。しかし、この物語では、そうした行為が非難されることはない。なぜかと言えば、政治において”結果は手段を正当化する”からだ。そもそも、政治を為す人が卑劣な手段を用いようと、またその人が権力欲に取り付かれたような人物であったとしても、それは”結果とはなんの関係もない”ことなのである。どんな手段を用いようと、どんな動機ではじめたものであろうと、結果さえ良ければ、国民(ここでは学生だが)は文句は言わない。なぜなら、国民は自分の生活がなによりも大事だからだ。そして政治とは”国民のために行われる”ものだとすれば、国民が大事なものを保障してやれば、それですべては正当化されうるのだ。

などと、我ながら極端なことを書いてしまったが誤解はしないで欲しい。僕自身はこの考え方を是としているわけではないし、たぶん作者もこれが正しいなどとは思っていない(たぶん)。あくまでも、これは啓蒙であって、少なくとも作者の考えている”政治”というものは、国民に見えないところで動いていくもので、それに対して何も考えないでいれば、いいようにされるだけなのだ、と言うことを描いているだけなのだ(おそらくは)。それは、主人公が属するカオス・生徒会側も同様にして鵜呑みにするべきではないという事が描かれているのだが、例えば主人公格であるブサイクロンの演説は、本当に人の心をうつ素晴らしい説得力を持っているのだが、これもまた政治の道具に過ぎないのだ。彼は本当に学園を良くしたいと考えて演説を行っているわけだが、それはカオス・生徒会の首魁、サタンクルース悪魔の目的に沿った行動であるに過ぎない。その意味ではサタンクルースは紛れもなく悪であって、彼もまた学生などは自分も目的を達成するための駒でしかないのだ。それと同時に、サタンクルースの行動は紛れもなく学園にリベラルの風を吹き込むことにもなっており、そこには”たった一つの真実”などと言うものはない。彼は部下の心を操り、蒙昧なる学生を煽動し、しかして学園に自由をもたらしもする。政治の”結果”において、政治を為すものの人格が行動は問われないと言うのは、そういう意味でもありうる。権力の亡者が、かならずしも暴政を敷くわけではない。とりわけ民主主義においては、本人の人格など些細なものに過ぎない、と言い切ってしまうのはさすがに暴論が過ぎるだろうけれども。

そこには”正しい”ことなんてない。世界のすべてがそうであるように。刻一刻と善悪さえもひっくり変える世界の中で、何を信じてどう動くべきか。そういうことを考えましょう、という事を、作者は、本当に分かりやすく、分かり易過ぎるほどに繰り返し描いているように思えるのだった。

追記。個人的に面白かったのは、真・生徒会とカオス・生徒会はお互いに憎みあっている政敵であるのだが、政治の外側から干渉してくる相手に対しては、ある種の共同戦線を張っている描写があるところだ。敵とは常に敵であるわけではなく、最強の敵は、時に誰よりも信頼できる味方でもある。それがカードをひっくり返すように状況に応じて変化していく複雑さがあって、そういう節操のなさこそが”強い”ということなのだろう。

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2012.08.07

『筋肉の神マッスル』

筋肉の神マッスル』(佐藤ケイ/電撃文庫)

佐藤ケイという作家は極めて理詰めで物語を作っているという印象があって、今回の話もまたその印象に違わぬものだった。筋肉、というキーワードで物語を作りつつ、主人公の動機からその成長、立ち向かうべき試練の存在などが緻密に組み合わされている感触があって、なんとも言えない安心感が感じられるのだ。その分、あまりにも端正に過ぎて、どうも自分が語るべき余地があるような気がしないのだけど、それに文句をつける筋合いのものでもない。というか、この作家の作品に対してはいつも同じようなことを感じているのだが、綺麗な工芸品を前にしたように、ただ「すげえなあ…」と感心するしかないのだった。感心すると書いたけれども、これはイコール面白いということではなくて(と言ってもネガティブな意味ではなく)、面白いと思う前にその職人芸に驚かされる感じ。

個人的に良いと思ったところは、主人公の動機をエロ一直線、おっぱい様に設定しておきながら、ヒロインが貧乳という設定にしているところ。まあ、別にそういうヒロインが珍しいわけではない、どころか世に氾濫していると言ってもいいのだが、その動機の関連のさせ方が端正なのだと思う。主人公はおっぱいがとにかく好きで、その結果、貧乳であるヒロインに対してかなりぞんざいな態度をとるのだけど、それゆえにクライマックスでヒロインを助ける主人公の動機には、エロは一切介在していない純粋なものだという事がはっきりと分かるというところ見せ方があって、キャラクター小説においてキャラを嫌味なく描いているところが良かった。これを少しでも”あざとく”描こうとする(主人公をカッコよく描こうとする)と途端にベタになってしまうのだけど、そういうあざとさがあまり感じられず、ただ自然なのだった。

他にも良いな、と思ったところはいくつもあって、きりがないのでほどほどにするけど、例えば冒頭において、猿神によってとある地方都市に起きた異常事態が淡々と描かれていく描写がなんとも好ましい。緻密なのにバカバカしく、それでいてあまりに深刻な描写になっている上に、文字が描写の中に詰め込まれている感じも良くて、こういう文章にはどうも弱い自分がいる。無条件で受け入れてしまいたくなるのだ。

結局のところ、佐藤ケイ作品は、自分の中では「面白がる」作品と言うよりも、「愛でる」作品の位置付けに近くて、ただ眺めているだけで、なんとも言えぬ安堵感を覚えるのだった。こういう楽しみ方をしている時点で、自分も歳と取ったんだなと思わなくもないけどね。

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2012.08.06

『時輪の轍 千里伝』

時輪の轍 千里伝』(仁木英之/講談社文庫)

前作では、あまりにも生意気な上に自分の傲慢さを理解出来ないほどに無自覚なクソガキであった高千里が、自分自身の世界における立ち位置を見出すことによって、”自分”を確立するまでの物語だった。つまり、前作においてようやく幼年期を脱することが出来たという事なのだが、であれば次に来るのは当然思春期である。物事は好きか嫌いかでしか判断できなかった千里が、ついに恋をするのが今回の話だ。

もっとも、天地を渡り仙人と通じる千里だけに、彼が一目ぼれをしてしまう相手は生半可の存在ではない。それは”空”(天空の空ではなく、空間の空、あるい哲学における色即是空にも通じるかもしれないが)の化身、空翼であった。彼女と対になる存在である”時”が解き放たれたことによって、この世の時間と空間がゆっくりにねじれてゆき、ついには世界が崩壊を迎えようとしていく。それを正すために、千里とその仲間たちは再び出会い、旅に出るのだった。

それからの冒険は、苦難と困難に満ちたものであったわけだけど、それを仲間たちと力を合わせて進む姿が描かれる。以前と違い千里の人格が非常に安定しているおかげで、新たな仲間との不協和音を響かせつつ、それでもお互いを信頼していこうという態度がある。その意味では、とても安心感のある人物になりつつあるわけだけど、一方で人格者であった絶海が己の非才に悩み、天から選ばれた力を持つ千里やある種の天才であるバソンに嫉妬をしてしまうということもあって、なかなか人間が迷いから抜け出すのは難しいものなのだなあ、と思うのだった。

個人的な見所は、物語クライマックスにおいて、”時”を捕まえるために千里が空翼とともに世界線移動を繰り返していくところだ。その中で、千里は自分自身のさまざまな可能性に直面していく。傲慢さを捨てられないまま成長した自分が未来で為す過ちと破滅。仲間たちと出会わなかった孤独などが、軽妙な筆致で描かれていく。くるくると転換する場面や不条理なイメージなどにSF的な発想もあって、なかなか鮮やかな描写になっていると思うのだった。

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2012.08.03

2012年7月に読んだ本

どうも頭の調子が悪くて文章が書けない、ので、読書メーターのまとめでお茶を濁します。

堂々と言ったからと良いというものではない。

 

7月の読書メーター
読んだ本の数:51冊
読んだページ数:12370ページ
ナイス数:85ナイス

星を撃ち落とす (ミステリ・フロンティア)星を撃ち落とす (ミステリ・フロンティア)
物事には”真実”などなく、それゆえに人は”真実”を求めるのだろう。
読了日:07月30日 著者:友桐 夏
それでも町は廻っている 10 (ヤングキングコミックス)それでも町は廻っている 10 (ヤングキングコミックス)
時系列シャッフルが、そろそろ効いて来た感じがする…。
読了日:07月30日 著者:石黒 正数
シュヴァルツェスマーケン Requiem -祈り- #1 (ファミ通文庫)シュヴァルツェスマーケン Requiem -祈り- #1 (ファミ通文庫)
アネットさんまさかの昔からのツンデレ疑惑。
読了日:07月29日 著者:吉宗鋼紀,内田弘樹
龍ヶ嬢七々々の埋蔵金3 (ファミ通文庫)龍ヶ嬢七々々の埋蔵金3 (ファミ通文庫)
重護はもう家業についてあまり拘っていない感じですか?
読了日:07月29日 著者:鳳乃一真
ディメンションW(2) (ヤングガンガンコミックス)ディメンションW(2) (ヤングガンガンコミックス)
なんかこの主人公には黒さんと微妙に似たイケメン臭がしてきた。
読了日:07月29日 著者:岩原 裕二
へうげもの(15) (モーニング KC)へうげもの(15) (モーニング KC)
まさか大久保長安と気が合うとは…別に意外でもなんでもない織部さんである。
読了日:07月29日 著者:山田 芳裕
放浪息子(2) (BEAM COMIX)放浪息子(2) (BEAM COMIX)
子供が初めて”壁”を知っていく、のは見ててキツイね。必要なことだけど。
読了日:07月29日 著者:志村 貴子
シドニアの騎士(8) (アフタヌーンKC)シドニアの騎士(8) (アフタヌーンKC)
ヒロイン二人とドキワク同棲生活の始まりである。触手ヒロイン、良いよね。
読了日:07月29日 著者:弐瓶 勉
南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)
理系ボンクラ小説ですなあ。
読了日:07月27日 著者:野尻 抱介
OUT OF CONTROL (ハヤカワ文庫JA)OUT OF CONTROL (ハヤカワ文庫JA)
作者のデビュー当時よりも、今の方がより共感できるようになってきた。
読了日:07月25日 著者:冲方 丁
冴えない彼女の育てかた (富士見ファンタジア文庫)冴えない彼女の育てかた (富士見ファンタジア文庫)
脚本的な文章の良さがつまったような文体に憧れる。
読了日:07月24日 著者:丸戸 史明
おいでませにゃんにゃん (WANI MAGAZINE COMICS SPECIAL)おいでませにゃんにゃん (WANI MAGAZINE COMICS SPECIAL)
女の子の脂肪のつきかたにコダワリを感じる……。
読了日:07月24日 著者:こんちき
ちょっとかわいいアイアンメイデン (1) (カドカワコミックス・エースエクストラ)ちょっとかわいいアイアンメイデン (1) (カドカワコミックス・エースエクストラ)
少年誌だし、とたかをくくっていたら予想以上にガチだった。
読了日:07月24日 著者:α・アルフライラ
ハニコイ―おがきちか短編集 (ヤングキングコミックス)ハニコイ―おがきちか短編集 (ヤングキングコミックス)
圧倒的な幸福感があって良い。愛がちゃんと繋がるって言うか。
読了日:07月24日 著者:おがき ちか
超人ロック ホリーサークル 1 (フラッパー)超人ロック ホリーサークル 1 (フラッパー)
今回の敵には圧倒的小物臭があるな……。ホラーテイストな始まりが良い。
読了日:07月24日 著者:聖悠紀
銀の匙 Silver Spoon 4 (少年サンデーコミックス)銀の匙 Silver Spoon 4 (少年サンデーコミックス)
前向きすぎる八軒に、そろそろ試練が降りかかりそう。
読了日:07月23日 著者:荒川 弘
マギ 13 (少年サンデーコミックス)マギ 13 (少年サンデーコミックス)
まあ、上に立つ者として当然の選択ではある。
読了日:07月23日 著者:大高 忍
常住戦陣!!ムシブギョー 6 (少年サンデーコミックス)常住戦陣!!ムシブギョー 6 (少年サンデーコミックス)
蟲奉行様の圧倒的なヒロイン力。既存ヒロインを駆逐しかねん。
読了日:07月23日 著者:福田 宏
神のみぞ知るセカイ 18 (少年サンデーコミックス)神のみぞ知るセカイ 18 (少年サンデーコミックス)
ひょっとして、現時点で桂馬と対等な人間ってハクアだけか?
読了日:07月23日 著者:若木 民喜
神のみぞ知るセカイ 17 (少年サンデーコミックス)神のみぞ知るセカイ 17 (少年サンデーコミックス)
桂馬の修羅道は続く。マジ傷だらけで突き進むな。
読了日:07月23日 著者:若木 民喜
幻獣坐2 The Ice Edge (講談社ノベルス)幻獣坐2 The Ice Edge (講談社ノベルス)
お互いを理解しつつ、理解していない関係の主人公二人の描き方が面白い。
読了日:07月23日 著者:三雲 岳斗
下ネタという概念が存在しない退屈な世界 (ガガガ文庫)下ネタという概念が存在しない退屈な世界 (ガガガ文庫)
奇天烈な設定でまっとうな話が僕の好みなんですよね。
読了日:07月23日 著者:赤城 大空
人類は衰退しました 7 (ガガガ文庫)人類は衰退しました 7 (ガガガ文庫)
今回はわりと真面目な話。いつもが不真面目ってわけじゃないけどね。
読了日:07月23日 著者:田中 ロミオ
ゴールデンタイム〈4〉裏腹なるdon’t look back (電撃文庫)ゴールデンタイム〈4〉裏腹なるdon’t look back (電撃文庫)
本人に責のない三角関係ってのはきついもんだな。
読了日:07月23日 著者:竹宮 ゆゆこ
神林長平トリビュート (ハヤカワ文庫JA)神林長平トリビュート (ハヤカワ文庫JA)
ベタありクネクネしたのあり。神林長平の持つ妄想喚起力がすごいぜ。
読了日:07月17日 著者:虚淵 玄,円城 塔,辻村 深月,海猫沢めろん,桜坂洋,仁木稔,元長柾木,森深紅
スクール・デモクラシー!2 (講談社ラノベ文庫)スクール・デモクラシー!2 (講談社ラノベ文庫)
ブサイクロンの演説には本当に説得されかねない説得力があってクレバーだ。
読了日:07月17日 著者:吉村 夜
時輪の轍 千里伝 (講談社文庫)時輪の轍 千里伝 (講談社文庫)
今度はタイムトラベルSFだ!(嘘ではない)
読了日:07月16日 著者:仁木 英之
ひとりぼっちの地球侵略 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)ひとりぼっちの地球侵略 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)
タイトルは藤子F作品のオマージュね。傑作になりうる匂いがある。
読了日:07月16日 著者:小川 麻衣子
乱と灰色の世界 4巻 (ビームコミックス)乱と灰色の世界 4巻 (ビームコミックス)
男の持つ色気もたいしたものだと思うよ。
読了日:07月16日 著者:入江亜季
空の境界 the Garden of sinners(2) (星海社COMICS)空の境界 the Garden of sinners(2) (星海社COMICS)
すごく分かり易い話に思えるなこれ。
読了日:07月16日 著者:天空 すふぃあ
スクール・デモクラシー!1 (講談社ラノベ文庫)スクール・デモクラシー!1 (講談社ラノベ文庫)
ブサイクロン非モテ(名前)……こういうセンスは嫌いじゃないぜ。
読了日:07月15日 著者:吉村 夜
トカゲの王 3 復讐のパーソナリティ 下 (電撃文庫 い 9-24)トカゲの王 3 復讐のパーソナリティ 下 (電撃文庫 い 9-24)
迷走、暴走はこの作者の18番だよなあ。
読了日:07月14日 著者:入間 人間
フルメタル・パニック! アナザー3 (富士見ファンタジア文庫)フルメタル・パニック! アナザー3 (富士見ファンタジア文庫)
原作者から良く吸収していると思う。
読了日:07月14日 著者:大黒 尚人
修羅場な俺と乙女禁猟区3 (ファミ通文庫)修羅場な俺と乙女禁猟区3 (ファミ通文庫)
「こう来たか!」と「こう来てしまったか…」の両方の感じがある。
読了日:07月14日 著者:田代裕彦
マグダラで眠れ (電撃文庫)マグダラで眠れ (電撃文庫)
幼さゆえに行動のすべてを手の内で収められるヒロイン。汚したくなる欲望との葛藤があるぜグヘヘ(最低)。
読了日:07月12日 著者:支倉 凍砂
空ろの箱と零のマリア〈5〉 (電撃文庫)空ろの箱と零のマリア〈5〉 (電撃文庫)
作中人物に感情移入できないのはともかく、理解させる気もなさそうなのがなあ。
読了日:07月11日 著者:御影 瑛路
ソードアート・オンライン〈10〉アリシゼーション・ランニング (電撃文庫)ソードアート・オンライン〈10〉アリシゼーション・ランニング (電撃文庫)
地味な話なのにエンタメを忘れない作者に脱帽だ。
読了日:07月11日 著者:川原 礫
筋肉の神マッスル (電撃文庫 さ 4-26)筋肉の神マッスル (電撃文庫 さ 4-26)
敵の設定から主人公の動機と困難の打開まで綺麗にまとまっていて感服。
読了日:07月11日 著者:佐藤 ケイ
戦国妖狐 9 (BLADE COMICS)戦国妖狐 9 (BLADE COMICS)
記憶回復、自分の闇との対話を一話でまとめるとは思わなかった。見事な圧縮だ。
読了日:07月11日 著者:水上 悟志
レッツ☆ラグーン(2) (ヤンマガKCスペシャル)レッツ☆ラグーン(2) (ヤンマガKCスペシャル)
女性キャラが魅力的すぎて後光が射して見えるレベル。
読了日:07月11日 著者:岡崎 武士
フェノメノ 美鶴木夜石は怖がらない (星海社FICTIONS)フェノメノ 美鶴木夜石は怖がらない (星海社FICTIONS)
感情のメカニズムを、自分の中で掘り下げて行くような読書だった。
読了日:07月08日 著者:一 肇
僕のパーティーが修羅場すぎて世界が救えない2 (あとみっく文庫 45)僕のパーティーが修羅場すぎて世界が救えない2 (あとみっく文庫 45)
ハーレム主人公に対して醜悪な現実を突きつけるという凄まじくブラックな話。危険物注意!!
読了日:07月07日 著者:上田ながの
僕のパーティーが修羅場すぎて世界が救えない (あとみっく文庫 35)僕のパーティーが修羅場すぎて世界が救えない (あとみっく文庫 35)
勇者パーティの仲が悪すぎでワロタ。アンチハーレム物としてすごく面白い。
読了日:07月07日 著者:上田ながの
一年生になっちゃったら (8) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)一年生になっちゃったら (8) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)
変身ヒーロー漫画になってんな。
読了日:07月06日 著者:大井 昌和
めだかボックス 16 (ジャンプコミックス)めだかボックス 16 (ジャンプコミックス)
このアイドル、球磨川君とバトった子じゃねーか。
読了日:07月06日 著者:暁月 あきら
多重人格探偵サイコ (17) (カドカワコミックス・エース)多重人格探偵サイコ (17) (カドカワコミックス・エース)
感想が出しにくい話だなあ。
読了日:07月06日 著者:田島 昭宇
超人ロック風の抱擁 3 (ヤングキングコミックス)超人ロック風の抱擁 3 (ヤングキングコミックス)
思春期突入中の超人ロックです。
読了日:07月06日 著者:聖 悠紀
あるゾンビ少女の災難 II (角川スニーカー文庫)あるゾンビ少女の災難 II (角川スニーカー文庫)
人間的理性や道徳から無縁のキュートな怪物である主人公が魅力的ですね。
読了日:07月01日 著者:池端 亮
あるゾンビ少女の災難 I (角川スニーカー文庫)あるゾンビ少女の災難 I (角川スニーカー文庫)
正確にはゾンビというよりフランケンシュタインズモンスター娘、って感じですが。
読了日:07月01日 著者:池端 亮
レディ・ジョーカー〈下〉 (新潮文庫)レディ・ジョーカー〈下〉 (新潮文庫)
色々浮気した挙句に結局義兄の元に戻ってくる合田はかなりの駄目男だな…。
読了日:07月01日 著者:高村 薫
レディ・ジョーカー〈中〉 (新潮文庫)レディ・ジョーカー〈中〉 (新潮文庫)
人間とは合理の生き物ではないってことを執拗に描いています。
読了日:07月01日 著者:高村 薫

2012年7月の読書メーターまとめ詳細
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2012.08.01

『スクール・デモクラシー!(1)』

スクール・デモクラシー!(1)』(吉村夜/講談社ラノベ文庫)

なんとなく、タイトルと吉村夜という作家に対する先入観から、さぞかし政治的、あるいは啓蒙的な作品になるんだろうなあ、と思っていたのだが、それはある意味では裏切られた。もちろん、吉村夜という作家の持つ風刺精神は健在で、民主主義という形態の悪しき側面を露悪的なまで描きこんでいるのだけど、一方でこれは学園異能バトルの正しき継承でもあると思うのだった。

吉村夜という作家は、なんと言うか、読者に対して啓蒙しようという意欲の強い作家であって、一方でエンタメ志向も持ち合わせているため、啓蒙精神とエンタメ志向が激しく対立していくところに、不思議な面白さがあるのだ。そんな作家が政治について語ろうとするのならば、さぞかし生臭くなるのは必定ではあるのだが、そこに山田風太郎的な異能バトルの要素を持ち込んでいるあたりが、予想外のところではあったのだった。なんと言うか、吉村夜って、予想以上にボンクラだったんだな、って言うか。こういうボンクラの極みみたいな設定で、ボンクラ極まりない物語を描く人だったんだ、と新鮮な気持ちになりました。

異能バトルと書いたけど、別に作中の登場人物たちが超能力を持っているわけではない。ただ、キャラクターにそれぞれ個性に応じた二つ名(作中では真名)が与えられていたり、それぞれの特性を生かしてスクール・デモクラシーに挑んでいく展開は、明らかに(と思うのだが)異能バトルのフォーマットに沿っているように思う。超常的な能力の代わりに、主人公たちが駆使するは政治力であったりして、その”置き換え”のやり方がすごく面白いと思った。

何と言っても、政治的主張と通すために、二つの陣営がそれぞれ民主主義の悪しき側面を駆使し、愚民たる蒙昧な大衆を操っていく展開に、一定の説得力があるのが素晴らしい。主人公の一人である郷田竜也(真名をブサイクロン非モテと言う)が大衆に向けて演説をしていくのだが、この演説が、確かに大衆を動かすに足る説得力があって、これはなかなか凄いことなんじゃないか、と思うのだった。主人公たちを束ねるカオス・生徒会の首魁、来栖明(真名はサタンクルース悪魔)や、敵対組織、真・生徒会の会長、久遠寺光の民主主義を悪用しまくった戦略など、エンターテインメントとしても見事なカタルシスがあると共に、民主主義を骨抜きにしていくエリートたちの恐ろしさを描くという啓蒙精神の発露があって、なんとも複雑な味わいがあるのだった。

説教臭いと言えばこれぐらい説教臭い話もないのだが、それでいてボンクラの極みみたいな中二バトルも繰り広げられていて、一言で言ってしまえば”怪作”と言うほかはないのだが、そうした一言で片付けられないところもあると思う。

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