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2012.05.04

『神の火』

神の火』(高村薫/新潮文庫)

子供の時、自分の世界ってのは強固と言うか、生半可なことでは揺らがないくらいはっきりしたものだと思っていた。けれど、これは社会人になってから気がついたんだけど、案外みんな社会のルールに対していい加減だし、適当に歯車を回しているようだ。その結果、最近の新聞では不祥事と言うか、まともにシステムが機能していないってことが明らかになっていたりするんだけど、実は、もっともっと根幹的な、これが駄目だと社会がひっくり返るってところからして、わりと適当なんだっていう疑いが湧き上がってくる。もちろん、それは原子力発電所の話なんだけど。

神の火ってのはもちろん原子力のことで、これは原子力の技術者であり、元産業スパイでもあった主人公を中心とするサスペンスなのだけど、僕が思うところでは、そういう曖昧というか、社会が強固だという”幻想”に対して主人公が向き合っていく話なのだと思う。主人公が産業スパイになったのには色々な要因があるのだろうけど、たぶん、自分の手で世界を動かしていくという欲望を満たすという要因が大きなものとしてある。自分の流した情報ひとつで国家間の力関係まで変わっていくという、そういう喜びだ。

そこに至る主人公の心理も複雑なものがあるんだけど、とても単純に言ってしまえば、自身の生い立ちから、世界がとてもあやふやで脆弱なものにしか考えられない男が、その脆弱さを自分で証明することに取り付かれている、という言い方が出来るかもしれない。エロゲーで言えば(なんでエロゲーで例える)、月姫の遠野志貴みたいな感じだ。世界は曖昧で、いつだって崩壊と隣り合わせで、自分以外の誰もそれに気がついていないという、そういう感覚なのだった。

そんな主人公があるロシア人の青年と出会い、彼をかけがえのない存在だと思うようになる。別にホモセクシャルな感情があるわけではなくて(いや、あやしいけどね)、このように脆弱な世界で、それでも自分の大切なものを純粋に守ろうとしているその姿に、深い感動を覚えたのだ。自分は世界を損なうことばかりやってきたのに、彼は守ることを考えている。それどころか、世界を愛そうとしている。そのことは、主人公の観念を揺るがすのは十分で、と言ってもそれで彼の信念がひっくり返されるわけではなく、ただ自分には見えてない世界がもしかしたらあるのではないかと思ったのではないか、と僕は思う(ここは想像だけども。ただ、青年に対してある種の感動を覚えたのは、おそらく間違いない)。

彼は青年を守るために、かつてのスパイとしての恩師を頼ったり、彼なりに行動を起こしたりもする。しかし、そうした尽力もむなしく、すべては失われてしまう。世界には決して崩壊するだけの無価値なものでなく、それでもなおすべてが崩壊してしまう世界であるということを知った主人公は、最初の疑問に立ち戻ることになる。あるいは、疑問と言うよりも願いのようなものだったのかもしれない。世界は本当に脆弱なものなのか?その脆弱さの正体とはなんなのか?そうした願いの果てに主人公が見たものはなんだったのだろう。希望なのか絶望だったのか。もしかしたら、両方なのかもしれなかった。

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