『“若紫” ヒカルが地球にいたころ……(3) 』
『“若紫” ヒカルが地球にいたころ……(3)』(野村美月/ファミ通文庫)
今回のヒロインである紫織子の祖父ついて、是光の祖父が感慨深げに思い返していた言葉に次のようなものがあって、印象に残った。「年を経るに従って、去るものが多くなりますが、来るものもあります。それを大事にしてゆければと思うのですよ」と言うものなのだけど、これはすごく大切なことを言っていると思う。”去るもの””来るもの”と言うのはいろいろなものがあって、そこには良きものものあれば悪いものもあって、そうしたすべてのものを含めて、大事にして行こうという謙虚さがある。それは、幸福も不幸もどちらも大切な自分の人生であるという、とても誇り高い生き方なのだと僕は思う。
しかし、世の中にはそうした誇り高さというものにまったく理解をしない人間もいる。そういう人間は、自分に対する不幸だけは他者に押し付けて、幸福だけを残すと言うやり方が、賢明だと思っているみたいなところがあって(まあ勝手な想像だけど)、そういう人間からすると詩織子の祖父のような生き方は負け組の生き方に見えるだろう。それは他者に食い物にされているだけだであって、まあ実際、詩織子の祖父は客観的に見て幸福とは言えない人生を送っている。
けれどここで客観なんて言葉を持ち出すのはくだらないことで、幸福というのは、と言うか人生の価値というものを決めるのは、結局のところ”自分”しかいないはずなのだ。何か幸福で、何が不幸なのかを定めるのは、結局のところ自分でしかない。紫織子の祖父は、自分に対して訪れ、そして去っていった幸福も不幸も、どちらも同じように愛していた。悲しみもある、苦しみもある、怒りもある、だけれどもそうした過程を経て、”今”と言うものがあるのだ。だから、「それを大事にしてゆければ」という言葉が出てくる。”それ”とは、幸福や不幸をひっくるめた色々なものすべてのことを指しているのだ。
物語の最後で、紫織子の祖父は亡くなってしまう。その晩年は恵まれたものではなく、手元に何一つ残されなかったのだが、しかし、彼は最後まで孫のことを気にかけて、昔に見た花について語りながら、そして死んだ。その姿には言い知れない美しさ、鮮やかさというのがあって、それは先ほどの”自分が賢明だと思っている”人の代表みたいな描かれ方をしている久世老人が、最後にはすべてを失ってしまうのと対照的に描かれている。なにも求めなかった紫織子の祖父は、数十年前に会話をしただけの是光の祖父に感謝の念を抱かせ続けているし、さらに結果的に孫に未来を与えることが出来た。彼のことは是光の祖父や孫娘にとって、これからも記憶され続けていくのだろう。一方、貪欲にすべてを求め狡猾に立ち回ってきた久世は、愛した相手の忘れ形見にさえ拒絶されてすべてを失っていって、顧みられることもない。この二人は”何もかもを失って消えてゆく”と言うところは同じなのに、その”意味”というか”受け取られ方”がまったく異なっていて、そこには”勝利”とか”敗北”とかそういう次元では語れない根本的な差異があるのだ。
僕が思うに、幸福か不幸かと言うのは、とりわけ他人から見たそれと言うのは、本当の意味で重要なものではない。本当に重要なことと言うのは、そうした幸福や不幸というものとどのように付き合っていくのかということで、決して幸福や不幸に振り回されてはいけないのだ。例えるなら、幸福や不幸と言うのは人生を彩るものではあっても、目的にしてはいけないのだ、ということだ。これは理想ではあって、不幸の中にいては耐え難い苦痛も悲しみもあるだろうし、それを避けて幸福を求めることを否定は出来ないし、したくもない。ただ、遮二無二幸福になろうとすることは、たぶん最も”幸福”から遠い行為と思うのだ。
上のものとは関係のない追記。ヒカルの言葉を聞いた是光が、それを引き継いで語るシーンがとても好きだ。ヒカルの言葉に比べて是光の言葉は舌足らずで乱暴で、必要な情報が抜け落ちているところもあるのだけれども、言葉を”伝える”と言うのは、つまりはそういうものなのだ。是光は、自分をヒカルのスピーカーでしかないのだが、同時に是光が”媒介”しているということの意味は決して無視できない。そこには正しくは伝わらないかもしれないが、それでも是光はヒカルの思いを汲み取ろうとして、その上で出てきた言葉なのであって、そこにはただ機械的に言葉を伝えるのではない、生きた言葉が生まれている。それは正確ではないかもしれないが、とても”正しい”言葉なのだと思う。
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