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2012.04.22

『羽月莉音の帝国(10)』

羽月莉音の帝国(10)』(至道流星/ガガガ文庫)

最後まで行き着くところまで行き着いている主人公たちの姿は見事だと思った。世界を救おうとする傲慢、救うためには秩序すべてを破壊する暴虐、その姿はまさに独裁者そのものであって、同時に革命家でもある。世界を救おうなどという考えは、この上なく傲慢なものであって、あらゆる人間から罵られ詰られるものであるのだが、それでもなお世界を救おうなどと考えることが出来るのは、とてつもない意思の力が必要なのだ。結果として世界は一度崩壊し、世界のすべてを敵に回して戦ったわけだけど、それが”傲慢”というのであれば間違いなく傲慢なもので、しかし、その傲慢を、その不遜を、人々の怨嗟の声を、革命部の人々は誇りを持って受けとめるのであろう。

世界を踏みにじりつつ、世界を救う。その姿に怒りを覚えることは健全であろう。しかし、”正しい”だけでは誰も救われないし、誰も救えないと知ってしまったとき、あえて”悪”を為すということは、とても尊いことなのだ。ただし、”誤らずに悪を為す”と言うことが必要なのだけれども。

”誤らない”と言うのは、ここでは近道をしないという意味でもあって、近道、つまり”楽”をするために悪を為した瞬間、”悪”は紛れも無い”悪行”となって破滅をもたらす。近道を求めることは、そこには”我欲”というものが付きまとっていて、我欲のために為した”悪”はすべて悪行となり、邪悪をもたらすものになる。

これは真実でも真理でもなくて、ただの物語に過ぎない。これは僕が考える物語であって、ほとんど妄想にも等しいものである。だけど、僕が思う”正しさ”と言うのは、たぶんそういうところにしかないのだと思っている。近道と我欲に溺れたもの、すべてを掴んで離さない者、自らすべてを捨て去ることが出来ない者には、決して”正しさ”は宿らないのだと、僕はそう信じているのだ。

これが正しいかどうかは、たぶん、一生をかけて考えていかないといけないのだと思っているけれど、こういう小説を読むと、案外似たようなことを考えている人がいるもんなんだな、と思えるのだった。

すべてを得られる人よりも、すべてを捨て去れる人にこそ、本当の”正しさ”は宿る。もちろん、その”正しさ”が幸せに繋がるかはわからないけれども、そういうのは、たぶん、そんなに重要なことじゃない。本当は”正しい”かどうかさえ、たいして重要な問題じゃない。真実ってのは、過程と結果の挟間にあるんだと思うんだ。たぶん。きっと。そうだといいなあ。

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