« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012.03.30

『ラ・パティスリー』

ラ・パティスリー』(上田早夕里/ハルキ文庫)

主人公が勤める洋菓子店に出社すると、見慣れない男がお菓子を作っている。彼はこの店のパティシエだと言うのだが、彼を知っている従業員は誰もいなく、そもそも彼の勤めているという店とは名前も違う。しかし、店の様子は絶対に同じだと言うし、何より彼は確かに道具に親しんでいるようだった…。

珍しくあらすじなんて書いてみたけど、この冒頭部分はSF(少し不思議)的なセンスがあって面白いと思った。自分の見ている現実が、もしかしたら現実じゃないんじゃないか?っていう揺らぎがあって、主人公自身も男のあまりに堂々とした姿に「もしかして相手の方が正しいんじゃ?」みたいに自分の考えを疑ってしまうところがあって、これは読者としての自分の感じ方にも近い。

どういうことかと言うと、僕はこの本の事前知識がまったくなくて、果たしてこの作品がSFなのかミステリーなのかサスペンスなのかファンタジーなのかホラーなのかさえわからなかったのだ(そもそも、作者自身、SF作家だしね)。だから、この男はもしかしたら平行世界からやってきたのかもしれないし、あるいは実在しない幻想(ケーキの神様みたいな)なのかもしれないし、あるいは主人公の認識をのっとる異世界からの侵略者かもしれないし、あるいは国家的陰謀に巻き込まれたエージェントなのかもしれない。もちろん、単に頭がおかしいだけかもしれない。そのようにして先入観を抜きにして読みだすと、この冒頭と言うのは本当に不思議で代物で、自分の中にしっかりと形が見出せないような、どこに向いてあるいたらいいのかわからない宙ぶらりんにされた感じがあって素晴らしいと思った。

この曖昧な感じが中盤を過ぎるまで続いていて、男の正体と言うか”存在感”みたいなものが二転三転していくのだけど(あるときは現実感を持った人間であったり、ときどき妖精のような雰囲気になったりする)、ある出来事をきっかけにして存在が収束していくところも面白かった。これは正体が明らかになることによってカタルシスを感じたわけではなくて(むしろ、正体が確定したことで揺らぎがなくなることは残念だった。仕方のないことだけど)、曖昧でしかない(情報も方向付けもない)存在が、ある方向性を与えられたことで”本人がその気になっていく”と言う感じがあって、不思議な感触があって、不思議な手触りを覚えたのだった。

なんと言ったらいいのか……つまり、そこで明かされたものに絶対の真実であるという感触がないと言うか、明かされた真実が、本当の真実なのかどうか確信が持てない感じ。たぶん、さっき書いた”カタルシスを感じなかった”というのとも繋がっていて、今回明らかになったこと以外に本当の真実があるんじゃないか?って思ってしまうような。あくまでも男が一人で真実にたどり着いたのであって、主人公はそれを傍観していると言うか、聞いているだけだからかもしれない。これはたぶん、絶対の真実などと言うものはない、と言う認識であって、今回は”ある真実”が”正しい”という形になったけれども、もしかしたらこれは、本当は別のジャンルの物語だったんじゃないか……というような。上手く説明出来ないことそんな感じ。

結局、最後まで宙ぶらりんのまま持ってこられてしまって、最初にあったこの”感じ”を最後まで持って来られたところが良いなあ、と思ったのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.29

『トカゲの王(2)―復讐のパーソナリティ (上)』

トカゲの王(2)―復讐のパーソナリティ (上)』(入間人間/電撃文庫)

繰り返される自己否定、に見せかけた圧倒的なまでの自己肯定感がすごいと思った。どういうことかと言うと、まず”駄目な自分”と”それを否定する自分”と言うのがあって、”駄目な自分”と言うのは心から憎悪すべき存在なんだけど、そのように”駄目な自分を否定する(憎悪する)自分”は肯定する、という精神的な手続きをとっているということだ。これは自分自身については深刻に憎悪しているんだけど、そういう自分をそれでも肯定したい場合は、自分という”存在”ではなくて、自分と向き合うという”行為”にしかない。これはどうあがいても自分を肯定しきれない人間の苦肉の策と言うか、それでも”救われたい”という祈りみたいなもので、もう少し簡単に自分を肯定する方法があるんじゃないかとも思うのだが、まあそんな簡単に自己否定から抜け出せれば苦労はなく、その過程における格闘のあり方なのだろうと思うのだった。屈折してややこしい自己肯定は、それそのものがいびつな形だけど、否定しか出来ないよりは、マシなのだろう。たぶん。

個人的な印象を言わせてもらうと、この作品はいかに自分を肯定するか、と言う命題に取っ組み合っている感じがあって、しかし、それが果たせずにいるとも思う。なんとかして自分を肯定したいのに、それでも肯定出来ないという、切ないというか涙ぐましいと言うか、とにかく物凄いエネルギーが空転しているような印象があって、そのエネルギーがどこに向かうのかがわからないところがとても面白いと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.27

『千の魔剣と盾の乙女(5)』

千の魔剣と盾の乙女(5)』(川口士/一迅社文庫)

仲間が愛用の武器を失ったので伝説の武器を探して砂漠の都市へ向かうと言う、TRPGのシナリオにありそうな話だったけど、そういうのが決して嫌いではない自分がそこにはあって、改めて自分はわりとTRPG脳をしているのだな、と思った。伝説の武器を探して探索行ってのは、やっぱりロマンだと思うのだ。まあ、ここの伝説の武器はわりかしあっさりと見つかってしまうので、なんだ意外と安いな伝説の武器、と思わなくもないが、まあこの伝説の武器は実在が確認されている武器だし、いいのか。

ともあれ、こんな古典的とも言える王道なプロットが受け入れられると言うのはなかなか面白いところで、基本的に美少女が登場してキャッキャウフフしていれば、大抵のものは受け入れられるといえなくもなくて、川口先生は完全にライトノベルに適応しているのだな、と思いました。まあ、それはともかくとして、昔はこういうところがライトノベルの懐の深さだ、みたいな表現をされていたこともあって、自分もそう思ってはいたんだけど、これは表現の形態に縛りがあるというわけで、そんなに自由な話でもないな。これではライトノベルから”卒業”しようとする作家も出るのは当然であるなあ、などと思わなくもないけど、まあそんなことはどうでもいい話。

あと、川口士の持っている”道徳観”とでも言うべきものが自分はわりと好きなのだけど、今回のナギの悩みとかは割りと多くの人が経過する悩みだと思うし、そういう普遍性が川口作品を通り一遍の物語には終わらせない土台を与えているとも思う。そういう悩みがなぜ生まれるのか、そしてそれを解決するためにはどうすれば良いのかが明確にあって、そういうところは児童文学的な語りの強さに繋がっていて、それを説教深くには行わないと言うところに、とてつもない安心感があって、最良の説教と言うのは聴かされている側が説教だと思わないものなのだよな、などと思うのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.26

『リリエンタールの末裔』

リリエンタールの末裔』(上田早夕里/ハヤカワ文庫JA)

上田早夕里の書く話には人間に対する突き放した感じがすごくあって、それは一周回って信頼に近いものになっているように感じる。人間なんて欲望のままに動いて周囲を破壊していくろくでもない生き物だけど、それゆえにどんな状況になったってしぶとく生き抜いていくだろうし、滅びたらそれはそれでかまわない、というような感じだ。『華竜の宮』でもそれは徹底していて、人間が意地汚く生き延びようとする姿をひたすら描きぬいていて、その意地汚さが懸命さに繋がることで、結果的に感動的な作品になっているように思うのだ。まあ、これはやや斜に構えた読み方だと思うのだが、作者の作品には美と醜が同時に存在するというか、そもそも”美と醜は同じものである”というところがある。あるいは正と邪と言い換えてもいいけど、とにかくそうしたものはただ”在る”ものであって、人間が価値をつけているだけなのだ、とでも言うような投げやりな認識があって、おそらく上田早夕里という作家はこうした虚無感について書いている作家なのだろうと思っているのだが実際には知ったことではない。

以下は各短編ごとの感想。

「リリエンタールの末裔」
空を飛ぶと言うことが、ただの道楽以上の意味を何一つもたない世界で、それでも自分のすべてをかけて空を飛ぶと言うことに取り組んでいくことの”意味”が描かれている作品。空を飛んだからと言って貧困がなくなるわけではないし差別が消えるわけではもないが、それでもそこには意味がある。それは夢を追いかけることが素晴らしい、とかそんなお題目とは全然関係がなくて、むしろ夢を追いかけることで本人にも社会にも不利益や混乱を引き起こすこともありうるのだが、ならばそれをしてはいけないのか?という問いにははっきりとノーと言うべきなのだ。

「マグネフィオ」
これはもう完全に”人間は他者と意思疎通など出来ない”という話で、人間が意思疎通が出来ていると思っているものはすべて錯覚なのかもしれないという身も蓋もない結論にたどり着く。しかし、それが絶望という結論にはならなくて、むしろ”錯覚こそが何よりも美しい”という結論にもなっているのだ。人が美しいと思うものが、もしかしたら誰かの喜びであるのかもしれないし、あるいは絶望であるのかもしれないのだが、そうした他者そのものとは何の関係もないところで、やはり人間は美しいのだ、と。これは人間の絶対的な肯定であると同時に、やはり僕個人の印象としては凄まじいまでの絶望の話であって、人間とは美しい存在であると言う結論こそが、そのまま絶望を体現しているのだと思う。そのように美しいことこそが絶望であるのだ、と。そして、その絶望の描き方が良い思うのだ。

「ナイト・ブルーの記録」
拡張現実の話に近いようにも思うのだが、同時に人間という存在の境界線の話なのだとも思う。人間はどこまでが人間であって、どこからが人間なのかと言う問いは昔からあって、義手や義足はどこまでが人間の延長なのか、つまり、近い未来には人間の思考で動く義手や義足が作られるだろうけど、そうしたとき、その義手や義足は本人の手足なのか、あるいは本人の外部に位置するものなのか、と言う話だ。たぶん、そういう話がただのジョークになる時代が来るのだろうし、ジョークになる世界と言うのがどういうものなのか考えると、なんだかとても楽しくなるのである。

「幻のクロノメーター」
人間の可能性や素晴らしさを謳い上げながら、それこそが世界を破壊している原動力そのものであるという視点が根底であって、とても作者らしい。語られていることは、人間は前に進む生き物であると言うことがとても感動的に描かれているのだけど、その”前に進む”ということこそが他者を蹂躙していくことそのものなのだ、というわけだ。ただ、作者はそこで「だから人間は愚かだ」とか「それでも人間は美しい」とか、そういう二元的な考え方には行かないで、人間とはもともと”そういうもの”だという形で書いている。これは最初にも書いたことだけど、正邪とはそもそも同一のものであって、正と邪、美と醜には何一つ差がないという認識があるわけだ。だから、たとえどれほどに美しく感動的な物語を描いたとしても、同じくらいの絶望が含んだ物語となる。この作品はまさにそれが良く現れている作品で、しかし、だからと言ってこの物語の感動が失われるわけではない。たとえその美しさが絶望を内包していようとも、それでも美しさには変わることがない。むしろ、その美しさを肯定することこそが、絶望と向き合う唯一の方法なのだと。「楽しみなさい」と時計の神様は言う。前に進むことを楽しみなさいと言って、彼は生涯それを楽しみ続けた。それが遠い未来に世界を破滅をもたらすのだとしても、それは「仕方のないこと」なのだ。人間とは”そういうもの”なのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.24

『バカとテストと召喚獣(10)』

バカとテストと召喚獣10』(井上堅二/ファミ通文庫)

順当と言えばこれぐらい順当なものはないのだが、三年生がラスボス然として登場してきていて、ちょっと意外な印象があった。今までにも常夏コンビなど、三年生の存在はあったはずなのだが、二年生の間で物語が完結していたために視野に入っていなかったようだ。とは言え、一年生よりも二年生、二年生よりも三年生がフィクションにおける学校社会において強力な立場を持っていることは言うまでもなく、作者としては満を持しての登場なのだろう。

その登場の仕方も単純に試召戦争が強いという感じではなく、彼らにとっては学校はすでに去り行く場所なのだと言う感じがある。彼らはすでに学校を卒業した後の将来について考えている存在ということで、明久たちにとって学校とは永遠の楽園のようなところだと思っているのだろうけど、その状況は遠からず壊れるものであると言うことを肌で感じている存在なのだということ。つまり、見ているものが全然違うということで、そういうところこそ二年生と三年生の絶対的な差なのだと言える。それを感じるのは、姫路さんに対して留学を持ちかけている(よね?)あたりとかに感じるのだった。

だから、本来的には二年生と三年生の間には直接的な対立とは生まれにくいものなのだが(見ているものが違うからなのだが)、突然、ラスボス然として現れたあたりは、なんとなく違和感を感じる。同じレベルで二年生と対立してどうするんだろう?と言う感じなのだが、なんとなくそれ以外の意図も感じさせるので(留学の話と何か関係があるのかもしれない)、もうちょっと違う話になるのかもしれない。もっとも、そういう話にはまったくならない可能性もあるけど、まあそれはそれでもいいよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.21

『レイセン File4:サマーウォー』

レイセン File4:サマーウォー』(林トモアキ/角川スニーカー文庫)

レイセンという作品は基本的にマスラヲの後日談として位置づけられていて、基本的にはヒデオの非日常的な日常をだらだらと描くというスタンスが堅守されていて、どんなに事件が起ころうとも大抵は元通りのグダグダな(貶し言葉ではない)展開になる。しかし、そういうことを4巻まで続けてきたことで生まれた”撓み”と呼ぶべきものがあって、それは正体のわからない”組織”の存在が表に影響を与えつつあることや、マックルイェーガーと呼ばれるウォーモンガーな神霊がヒデオに接触してきたりすることに現れている。これらは、決して表立って波乱を匂わせているわけではないが、ヒデオたちとは関係のないところで暗躍しているような何かがあって、それが”撓み”と呼べるような気配を生み出しているように思う。一巻冒頭で明らかにされた対精霊の特殊部隊もようやく物語の表に出てきそうな様子ではあるし、今後に関わってくるのだろう。だけど、ひねくれものの作者のことだから、それで素直に大災害とか大破壊とか世界の終わりが起こすのかというと疑問を感じるところもあって、マックルイェーガーや”組織”が何を目的にしているのかとか、そもそもこの二者が協調しているのかさえ不明であって、もしかしたらそういうことを全然考えていない可能性もあって、つまりはただの気配でしかないとも言える。たぶん、作者もどうするか考えていないんじゃないか、と思うのだけど、それはそれで問題はなく、どこに物語が転がっていくのかを待ち構えているべきなのだろう。

そうした影も形もない気配だけの話をしている一方で、ヒデオのイロモノハーレムは順調に拡大傾向にあってとても楽しそうなのだが、今巻ではまったく登場しなかったのに最後だけ登場して悠々とおいしいところを全部かっさらっていくエルシアさんが筆舌に尽くしがたいほどにずるくて素晴らしい。まるでメインヒロインのすることじゃないか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012.03.18

『魔弾の王と戦姫<ヴァナディース>(3)』

魔弾の王と戦姫〈ヴァナディース〉(3)』(川口士/MF文庫J)

ティグルが戦姫を”落としていく”話になるのかと思っていたのだが、三巻目にして少しだけ方向が変わってきた。と言ってもそれは意外な展開と言うわけではなくて、ただ戦姫の存在よりも、ティグル自身の動機を見直しているところがあって、つまりティグル自身の物語に推移しているように思える。ティグルは、ただ自分の領地であるアルサスが平穏であれば良いとだけ思っていたのだけど、エレンとともにいくつかの戦いを勝利した結果、ただ守っているだけでは未来がないということに気づかされることになる。それ自体、当初からエレンたちは想定していたことであるのだが、ティグルにとっては国そのものをどうこうするなんて話は現実味のある話ではなかったのだ。

今回登場した黒騎士ロランは、ブリューヌ最強の騎士であり、おそらく個人戦闘力では作中でもトップクラスの存在である。戦姫とも対等以上の戦闘力であり、軍略も鋭く、さらに擁する騎士団は精強である。そんな相手と戦うにあたって、もはやティグルは自分がぬしさしならない立場であることを、ようやく”覚悟”することになる。覚悟と言うのは、つまるところ”自ら戦を起こす”ということだ。ただ守るだけではなくて、自分の運命を切り開くという決意であり、それは自らの意思で血を流すということだ。

”民を守る”と言うのは確かに尊いものだが、そのためには戦わなければならないのであり、それは誰かを傷つけることにもなる。その矛盾を知っているから、ティグルは戦が嫌いなのだろうし、多くを求めることもしなかったのだ。しかし、彼はただ平穏に暮らすのではなく、戦うための力を求め、おそらくはその力は更なる戦を引き寄せることになるのだろうが、それを受け入れる決意をしたということだ。その決断に後悔するときが来るのかもしれないし、あるいはすべてに勝利して平和な世界を取り戻すことが出来るのかもしれないが、それはこれからのティグルの意思に関わってくるのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.16

『太陽のプロミア』その3

太陽のプロミア』(SEVEN WANDER)

今回はまとめのようなものを書いてみたいと思います。と言っても総括とかそんな大層なものではなくて、単に書き漏らしたことや気になったことを拾うぐらいの意味です。

一通りクリアしたんですが、実はすべてがすっきりと明らかになるタイプの話ではないようで、いろいろと語られていないところも多い。1000年前に何か起こったのか?”ぷぅ”の本当の正体は?など、けっこうあいまいだし、ミルサントという舞台そのものも、今回は一都市の中での話しに終始していて、実際には惑星レベルでの背景があるにもかかわらず、そうしたところには触れないままだった。しかし、それが語り不足というかというと、たぶんそういうことはなくて、ただ主人公たちの現在の話にはあまり関係がないから語らないというだけなんだと思う。そういうのはあくまでも昔の話であって、現在の話の背景としては存在しているんだけど、だからといって過去は現在の代わりにはならない、ということかもしれない。とは言え、過去にあったさまざまな因縁を描くのは、物語的にとても強力だし効果的だと思うのだけど、それをしてしまうと”現在が軽くなる”ということもあって、あくまでも”現在の物語は現在の因縁の中で終わらせる”というのは、勇気のある選択であろうとは思う。

まあ、とは言っても1000年前の北天姫と南天姫、そしてコダマの物語は、それだけでひとつの物語として魅力的な感じもあるので、何か別の形でフォローが欲しいとも思う。

全体としてはものすごく楽しんだという感想にはなるけど、やっぱりエレガノ編とフレアルージュ編については、ちょっと評価しにくいところはあるかもしれない。物語が重層構造になっているからこそ生まれる面白さと、それゆえに難しさが現れてしまったというか。この構造は、ある意味においてヒロインの物語的な地位を固定してしまうもので、その地位が高ければ高いほど、『太陽のプロミア』という”全体の物語”に取り込まれてしまうということにもなる。つまり、”ヒロイン自身の物語”よりも、”『太陽のプロミア』という物語”の方が優先されてしまうということで、これはもうこの構造そのものが持つ力学みたいなものなのか、と思う。

だからといって、この物語が重層的に描かれていることの欠点かというとそうとも思えなくて、そもそも『太陽のプロミア』という物語にヒロインの物語が取り込まれていることは、それ自体は別に悪いことではなく、そもそも大きな物語の中に個人の物語が組み込まれることは普通のことのはずだ。これがギャルゲーというフォーマットがあって、”ヒロインの物語”というものがとても強い力を持っているからこそ生まれた問題なのだろう(ヒロインの物語においては、主人公との間に強い好意の関係が生まれることが主軸となる)。だからまあ、きっと何かやりようはあるはずだ。どうやったらいいのかはわからないけど。

あと、他に何かあったかな……あー、別にこのゲームに限らないけど、主人公とプレイヤーの目線が離れた物語の場合、別に主人公に声をつけないって縛り、別にいらないと思うんだよね。コダマには非常に深いバックグラウンドがあって、無個性タイプの主人公とはいいがたいところがあるのだから。でも、意外とコダマに自己投影する人はいるのかな?まあ、自分は主人公に感情移入をしないタイプなので(というか、登場人物に感情移入はしないタイプなので)、そのせいだと思うけどね。

ファンディスクの方は気が向いたらやります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.15

『太陽のプロミア』その2

太陽のプロミア』(SEVEN WANDER)

ヒロインの個別ルートをプレイした順番で簡単に書いていきます。致命的なネタバレは避けるけど、それでもポロポロと書いてしまうので、プレイしてない人は読まない方がいいんじゃないかな。

・アマリ
たぶん、ほとんどの人はアマリ編を最初にやるんじゃないの?あそこであの選択肢を選ばないなんてありえないだろ、エロゲーマー的に。

アマリさんは、非常に分析的な性格なので、右も左も分からないプレイヤー(と主人公)にとって世界観の説明をしてくれるというとても重要な役割を担っています。個別ルートも物語の当初で提示された太陽神プロミアと賢者コダマの正体に迫っていく、という感じで、プレイヤーが最初に気になるところを取り上げているあたり製作側の攻めの姿勢が伺えます。「この程度では、何も明らかになってねえんだぜ?」みたいな感じ。

ここでプロミアと賢者コダマの正体と、その二人と主人公がどのような関係にあるのかが(一応)明らかになるのだけど、ここで明らかになるのはあくまでも土台と言うか、前提条件みたいなもので、ここで明らかにされたことを巡って、他のヒロインルートでの葛藤に繋がっていく位置付けになるんだと思う。

キャラクター的にはわりと優遇されていて、後半の問題点である「ヒロインの物語と設定の開示との対立」が少ないので、キャラクターを魅せることに制限がないのが強い。他のヒロインの物語でもアマリは活躍するし、美味しいキャラだよなー。

・ジゼル
階層としてはアマリ編と同じ階層に位置していて、おそらく上の階層へシフトするためには、アマリかジゼルのどちらかをクリアすれば良いと思われます。まあ、二人を攻略して、設定を十分に理解してから次に行った方がベターでしょうけどね。

アマリとうって変わって感覚的というか、野生的なヒロイン。なので設定の開示とか分析とかは一切ありません。彼女の物語で明らかになるのは、18年前の黒の六花であるエコーとジゼルの関係で、ひいてはエコーのパーソナリティに踏み込むことになります。アマリ編におけるラスボスみたいな存在であったエコーを、ここで解体してしまうというのはかなりすごいことなのではないか、と思うんですけど……。このジゼル編自体は、かなりストレートな家族の物語なんだけど、それゆえに物語としてはバランスが良くなっているように思います。

あと、細かい設定のひとつとして、魔獣の人の存在が明らかになったりするけど、この辺りは最後まで直接には物語に関わってこなかったな……。ジゼル編に限らず、『太陽のプロミア』という作品全体でそうなんだけど、まだまだ語っていないことが多そうな感触がある。物語に関係のない裏設定はあっさりカットしている感じがあって、こういう割り切り方は、わりと面白いと思いました。

ジゼルというキャラクターそのものについて語ると、彼女はあんまり自己主張しないんで、ちょっと語り方が難しいですね。まあ、懐かない野生動物が、エサを食べてくれるようになった感じ?(よくわかってない)

確か、この辺りで情報が段階的になっていることに気がついて、ものすごく驚いたような気がします。

・ニーナ
物語は次の段階へ。伝説として語られていた300年前の魔獣王との戦いの真相が明らかになる話。いやー、僕、この子の物語、好きだわー。300年前のミルサントが舞台になっているので、それまで謎になっていたことがどんどん明らかになる快感もあるけど、それ以上にニーナのヒロイックさに痺れた。

ニーナは不器用だし頭も良くないけど、その分、自分の大切なものは石にかじりついても守るド根性があって、それがあらゆる摂理をぶちやぶってハッピーエンドをもぎ取るというラストもすごくて、なんだこのスーパーヒーローは、と思った。アマリ編やジゼル編では可哀想なことになっていたカシェットが救われているのも重要なところかも。ハッピーエンドの中にも、実は救われていない存在がいた、ということを知るのはけっこう堪えるものがあるからね。それが救われるってのは、やっぱり文句なく良いことだと思うのです。

個人的には300年前のコダマであるところの賢者コダマ(≒エコー)が活躍しているところも楽しい。この人、主人公と基本的なパーソナリティは同一なんだけど、性根がねじくれまくっているために素直な感情表現が出来なくて、そういうところがすごく良いと思う。真っ当すぎるほどに真っ当な人間が、ねじくれるとこういう風になってしまうんだなあ。

・リノ=レノ
プレイする前は存在が明らかになっていないヒロインなので注意。

300年前の魔獣王との戦いの真相が明らかになるのはニーナ編と同じだけど、ニーナよりも知的なヒロインなので、もう少し深いところが明らかになる(今思ったけど、物語の対応のさせ方が、ジゼルとアマリのそれに似ているね。たぶん意図的なんだろうな)。

物語としてはニーナの方が好きだけど、キャラクターとしてはリノ=レノの方が好きかなあ(いや、別にロリババアだからだとか関係ないから。マジだって)。300年前、なぜ魔獣王リノワールが現れたのかとか、コダマ(エコー)のキャラクター性をさらに深める描写もあって、ある意味ではジゼル編の補完みたいなところもある。それだけじゃなくて、18年前の失敗も含めて、コダマ本人の物語を除けば語るべき過去の物語はほとんどすべてが明らかになっていると言っていい。なんつーか、キャラ的に裏設定のほとんどを担っている感じがしますね。

過去について一区切り付いたあとは、当然のことながら”現在”と”未来”についての物語になるわけです。

・エレガノ
ニーナ、リノ=レノの物語で存在が明らかになった”黒幕”が中心となる。黒幕が何を考えて、何を望んでいるのかと言うのが明らかになるので、ある意味、次のフレアルージュ編の裏話的な位置付けになるのかもしれない。

エレガノはキャラクターとしては申し分ないのだけど、惜しむらくは、フレアルージュの裏話的な位置付けゆえか、どうも物語的に活躍が出来ないというか……。最初の方にも書いたけど、この辺りから『太陽のプロミア』という作品の全体を総括しなければならなくて、結果的に”ヒロイン自身の物語”が圧迫されるという現象が起こってくる。扱っている設定が、初期攻略できるヒロインとは比べ物にならないぐらい重要なので、仕方のないところではあるのだが……。正直、ヒロインとしてはトップクラスに不遇。黒幕やフレアルージュが担う物語たいして、エレガノ自身は傍観するしか出来ないという結末になる。

ただ、神に愛された天才であるフレアルージュと比べて、秀才ではあるが凡人であるエレガノの物語はすごく好きだ。凡人は自分の出来る範囲のことをひたすら精一杯にやっていくしかないが、それでひがむのではなく、誇りをもって行動するというあり方がすごく良いと思う。そうして訪れた結果を恨むでもなく、憎むでもなく、ただ静かに受け入れる。それがすごく良い。

キャラクター的には、非常に姉御肌というか、果断で男らしい性格が良いですね。他のヒロインたちだと主人公とヒロインがくっつくのは結構物語を進めないとならないのだけど、エレガノは好意を持ったら即行動に移すところとか、さすがだと思いました。まあ、それゆえに物語的な不遇さも避けられないところではあるんですが……。

・フレアルージュ
約束されたメインヒロインであり、『太陽のプロミア』という物語全体において、超重要な設定を背負っている。それゆえに彼女をその設定を受けてなお、自分の物語を紡けるかどうかが重要だと思うのだが……正直、その設定に向き合うことで物語が終わってしまった感じがあります。主人公との関係も良くわからんしなあ(この辺りは自分が読み取れていない可能性もあり)。

なんと言ったらいいか……フレアルージュ自身の悩みや苦しみが、途中で設定の方に飲み込まれてしまっているというか……。いや違うか、フレアルージュ自身の問題が見えないのが気に入らないのかもしれない。もちろん、彼女が背負った設定はかなり重いので、それに向き合うことが必要なんだけど、それは別に彼女の問題とは関係ないじゃん、みたいな気持ちが拭えないのかも。そういう意味では、エレガノに並んで不遇なヒロインかもしれない。

あと。こっちだと”黒幕”の人がきちんとラスボス然としており、たいへん黒幕らしい。ただエレガノ編を先にやっていると、この人がちょっと不憫すぎて……勝っても負けても幸せになれないんですけどこの人。もしかすると、先にフレアルージュ編をやったほうがよかったのかもしれないなあ。

以上がヒロインごとの話は終わり。さすがに疲れたので、総括めいた話はまた明日ということで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.14

『太陽のプロミア』その1

太陽のプロミア』(SEVENWONDER)

最近は風邪を引いて何もする気になれなかったので、先週は積みゲーにしていた『太陽のプロミア』(FDじゃなくて本編の方)をやっていた。これがとても面白かったので、珍しくゲームについて書いてみることにした。

僕にとってエロゲーやギャルゲーと言うのは、あくまでも絵と音楽がついている小説と言うスタンスなので、シナリオを書いている人が一番重要なのだけど、このシナリオを書いている下原正氏と椎原旬氏のコンビは昔からけっこう好きなのだった。けっこう好きなのにも関わらず積みゲーにしてしまったのは反省するしかないのだけど、ゲームって時間がかかるんで、なかなか手をつけられないのよねー。

なんか反省ばかりしてしまったけど、要するにプレイしていなかったことを反省してしまいたくなるぐらいに面白かったのであった。キャラクターについて語るのは難しいので後に回すとして、最初に面白いと思ったのは、ヒロインのシナリオごとに主人公に与えられる情報量が決まっていて、ヒロインルートをクリアすることで新しい情報が開示されていくというところ。6人のヒロインルートがそれぞれ階層構造になっていて、ある階層のヒロインルートをクリアしないと上の階層のヒロインルートが解放されない、という設定になっている。階層ごとにプレイヤーに開示される情報が決まっていて、ヒロインを攻略していくにつれて、物語の真実と言うか、深いレベルの物語が明らかになるという寸法。

この階層構造がプレイ中は楽しくて楽しくて……、あるヒロインルートをクリアした後、次のヒロインルートをプレイすると、それまでとはまったく違う世界と言うか、同じ設定の別の側面が明らかになっていくので、要するに「以前はっきりしなったあれはそういう意味だったのか!?」という驚きが毎回味わえるわけです。二人目をクリアしたあたりでその構造に気がついて、そうなると「次に明らかになるのはあれかなあ……でもあの辺りもまだ不明確だったよな……?」と言う感じで別ルートをプレイするモチベーションを維持することが出来たのでした。

あとはヒロインごとの個別ルートについて書こう、と思っていたのだが、なぜかやたらと長くなってしまったのでまた後日。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.13

『RPG W(・∀・)RLD(10) ‐ろーぷれ・わーるど‐』

RPG W(・∀・)RLD(10) ‐ろーぷれ・わーるど‐ (富士見ファンタジア文庫)』(吉村夜/富士見ファンタジア文庫)

吉村夜の描く物語の登場人物は、誇り高い人物が多い。彼らは正しいと信じることのために行動することを躊躇わず、それによって生まれる犠牲さえも、その身を引き受けることが出来るのだ。この物語の主人公、ユーゴはまさにそういう人物であるし、今回のメインキャラクターであるナツキという少女も、そういうタイプである。彼らは一時的に弱さを見せることがあっても、それらはあくまでも克服されるために存在する弱さなのである。彼らのあり方はとてもカッコいいのだが、それはある意味において弱者の存在を許容しないということでもあって、そこには肯定しきれないものがあるのだった。

正直なところ、人間は誰しもそこまで誇り高く高潔にはなれないし、逆に徹底した悪人にもなれない中途半端なところに落ちるのが関の山であって、そういう視点は、作者にはあんまりないように思える。分かり易いのがナツキの台詞にもある「正義の味方になりたくない人の気持ちが分からない」というもので、正義の味方を志す人が、正義の味方になりたがらない人の気持ちがわからないなんて言って欲しくないなー、と自分などは思ってしまうのだ。もっとも、ナツキだっていくらなんでも誰もが正義の味方になる”べき”なんてことは言っていない(と思う)のだが、正義の味方になりたくないって人が、なんでなりたくないと思っているのかを理解しようとしていないという視野の狭さがあって、そういうのはかなり危険なことだと思う。偏狭な正義と言うのは悪と同じくらいに厄介なものだし、人間は悪にならなくても他者を蹂躙することは出来るのだから。

ただ、今回の話を読んだところ、そうした狭さ(と自分が思うもの)から離れたものを感じる。今回の話のメインキャラクターであるジローは、かつて教団にそそのかされて邪神を復活させた後、ユーゴと出会って旭日騎士団の仲間になったという少年。彼は自分が情けない人間だと言う事を知っているし、実際ヘタレなところも多くあって、騎士団の連中から微妙な目を向けられたり、危機に陥ってもろくな行動が出来なかったりするのだが、あるところで人を助けるために行動するところがあって、その描き方がちょっと面白かった。

ヘタレな少年が仲間の危機に対して勇気を振り絞って活躍する、の”ではなく”、危機に対しては必死で逃げ出して、仲間の危機に対してはほとんどろくな行動は出来なくても、建物に押しつぶされようとしている市民を助けることは出来るのだ、ということ。その行動は勇者ではないのだが、なんと言うか”分をわきまえた勇気”の持ち方という感じがある。英雄のように誰もが賞賛する勇気はもてなくても、普通の少年としてささやかな勇気を発揮することは出来るのだ、というような。この描き方は、あまり僕の知っている吉村夜の作品の中には見られない描きで、とても印象に残った。

つまり、人はすべて勇者にならなくてはいけないのではなく、自分に出来る範囲で勇気を持てばよいということ。駄目な人間が努力して勇敢な人間に”成長”することを否定するものではないが、駄目な人間なりのちっぽけな勇気を、自分の枠の中で持ち続けることも、決して否定されるべきではないのだ、というような描き方のように思えたのだった。いま思えばショウの描き方にもそういうところがないでもなくて、バカはバカなりのカッコよさがある、みたいなところもあった気がする。

そうなると、ナツキとジローの間になにかしらの繋がりがある以上(まあ、ラブってぽい雰囲気があるのだが)、そこから新しい何かを生み出すつもりがある…のかどうか?正義の味方にはなれないジローを見て、ナツキが何を思うのか?まあ、もしかしたら今後ジローがものすごく勇敢な人間に成長する可能性があるけど、まあそれが別に悪いということもないので(駄目な人間に駄目でいろ、ってのもひどい話だしね)、作者がその辺りをどうするのかも楽しみです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.08

『カンピオーネ!(11) ふたつめの物語』

カンピオーネ!(11) ふたつめの物語』(丈月城/スーパーダッシュ文庫)

なんで今頃……と言う気持ちと、今しかないよな……と言う気持ちが半分くらい。もちろん、11冊目になってからいまさらエピソード2をやっていることについてなのだが、アニメ化前の今を逃してしまってはもはや語るべきタイミングはないだろうし、絶妙と言えば絶妙のタイミング。一方で、今さらこの時点の話をされても反応に困るのも事実。護堂とエリカの関係が初々しくて若返りますねえ、と言うぐらいしか言うことがありませんよ(下劣なおっさんの視点)。個人的にはこの辺りは”過去の事”として処理してしまっても良いとおもったのだが(人間、過去の一つや二つ抱えていても良いじゃないか的思考)、まあ、それはそれとしてきちんと語ることにも意味はあるのだろう。

やっぱりなんと言ってもエリカがツンデレっているのは新鮮で、新鮮と言うのもおかしいような気もするがやっぱり新鮮としか言いようがないのだが、護堂に対する思慕の情を自覚していないというツンデレ的にもっとも美味しいタイミングであった。普通のライトノベルならば、この状態のまま何巻も重ねていくところなのだが、こうした過程をすっ飛ばしているところが新基軸だったのだな、などと言うことを今さら思う自分である。こういうところもまた描く意味というものかもしれない。つまり、エリカってのは己を自負するところが大きいので、ある意味典型的なツンデレキャラになりうるのだが(相手に対する感情と己を律する理性が対立しやすいということ)、本編のエリカと言うのは「主人公に完全にデレた後のツンデレヒロイン」なのだろう。普通の物語だと、こういう描写は物語が終わらないと見れないものだし、この辺りは改めて面白いところだと思った。

こういうことを書いてしまうのも無粋であると思いつつも備忘録として書いておくのだが、カンピオーネという物語の面白さとは、ライトノベル伝奇的な物語が”終わった後の物語”を描いているところなのだろう。つまり、主人公が成長して、ラスボスも倒して、ヒロインと結ばれた”後”の物語を描いているところが、カンピオーネという物語が持っている視点のユニークなところだと思う。まあ護堂は成長するというよりも、最初から完成しているタイプの主人公なので、厳密に言うとちょっと違うところもあるけどね。でも、たぶんそういうことなんだろうと思うので、一応書いておきます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年2月に読んだ本

我ながらびっくりするぐらい本を読んでなくてびっくり。

 

2月の読書メーター
読んだ本の数:18冊
読んだページ数:3915ページ
ナイス数:53ナイス

黒のストライカ 5 (MF文庫J)黒のストライカ 5 (MF文庫J)
博士が小物になっちゃってて残念。
読了日:02月25日 著者:十文字青
蒼穹のカルマ8 (富士見ファンタジア文庫)蒼穹のカルマ8 (富士見ファンタジア文庫)
全力で力を抜いているところが素晴らしい。
読了日:02月25日 著者:橘 公司
護樹騎士団物語 幼年学校編Ⅴ孤島の迷宮を暴け (【トクマ・ノベルズ】)護樹騎士団物語 幼年学校編Ⅴ孤島の迷宮を暴け (【トクマ・ノベルズ】)
アニメ版ドラゴンボール並に進まないが、それゆえに描けるものもある。
読了日:02月25日 著者:水月郁見
森薫拾遺集 (ビームコミックス)森薫拾遺集 (ビームコミックス)
狂的なまでのフェチの追求は文学性を帯びるという案件が発生。
読了日:02月25日 著者:森薫
ツンマゾ!! 武闘派生徒会長だってM (美少女文庫えすかれ)ツンマゾ!! 武闘派生徒会長だってM (美少女文庫えすかれ)
アウトサイダーにならざるを得ない主人公の肯定の物語がきちんと描かれている。
読了日:02月23日 著者:葉原 鉄
ソードアート・オンライン〈9〉 (電撃文庫)ソードアート・オンライン〈9〉 (電撃文庫)
本格ファンタジーをRPGの世界で、か…。ろーぷれわーるどとどっちが先だったのかな。シンクロか。
読了日:02月18日 著者:川原 礫
アトリウムの恋人〈3〉 (電撃文庫)アトリウムの恋人〈3〉 (電撃文庫)
記憶を失うということは死ぬことに等しく、その儚さを理解したときラストの美しさも理解出来るだろう。
読了日:02月18日 著者:土橋 真二郎
羽月莉音の帝国 10 (ガガガ文庫)羽月莉音の帝国 10 (ガガガ文庫)
たぶん劉備ってのは恒太みたいな奴だったんじゃねえかな。
読了日:02月17日 著者:至道 流星
おれはキャプテン(28) (講談社コミックス)おれはキャプテン(28) (講談社コミックス)
試合中なのに試合の外で戦っている感じだ。
読了日:02月17日 著者:コージィ 城倉
DVD付き初回限定版 魔法先生ネギま!(37) (講談社キャラクターズA)DVD付き初回限定版 魔法先生ネギま!(37) (講談社キャラクターズA)
ここはもうエピローグだったんだなあー。
読了日:02月17日 著者:赤松 健
マホロミ 1 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)マホロミ 1 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)
冬目先生の描く美少女は、神秘的なのに生っぽい。じめっとした情念がある。
読了日:02月17日 著者:冬目 景
怪物王女(17) (シリウスKC)怪物王女(17) (シリウスKC)
じわり、と背景から滲み出してくるものがあって良い。
読了日:02月17日 著者:光永 康則
ユーベルブラット(11) (ヤングガンガンコミックス)ユーベルブラット(11) (ヤングガンガンコミックス)
まあこれで死ぬようだったらとっくの昔に死んでるよな。
読了日:02月17日 著者:塩野 干支郎次
セレスティアルクローズ(4) (シリウスKC)セレスティアルクローズ(4) (シリウスKC)
さまざまな宗教がごった煮状態になってて良い。
読了日:02月17日 著者:塩野 干支郎次
ブロッケンブラッド8 (ヤングキングコミックス)ブロッケンブラッド8 (ヤングキングコミックス)
桜子ちゃんはそろそろワールドワイドな活躍が期待持てそうですね。
読了日:02月17日 著者:塩野 干支郎次
ツンマゾ!―ツンなお嬢様は、実はM (えすかれ美少女文庫)ツンマゾ!―ツンなお嬢様は、実はM (えすかれ美少女文庫)
エロシーンで腹を抱えて笑ったのは久しぶりだ。
読了日:02月10日 著者:葉原 鉄
アイアムアヒーロー 8 (ビッグ コミックス)アイアムアヒーロー 8 (ビッグ コミックス)
人間の尊厳とは、本能に反逆する理性にこそある。
読了日:02月04日 著者:花沢 健吾
李歐 (講談社文庫)李歐 (講談社文庫)
”愛する”というのは胡蝶の夢のようなもの。一夜の夢が、数十年の月日と並びあうことがある。
読了日:02月04日 著者:高村 薫

2012年2月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.06

『ベン・トー(8) 超大盛りスタミナ弁当クリスマス特別版1250円』

ベン・トー(8)超大盛りスタミナ弁当クリスマス特別版1250円 (ベン・トーシリーズ)(集英社スーパーダッシュ文庫)』(アサウラ/スーパーダッシュ文庫)

今回はいつもはギャグっぽく処理されている部分がギャグっぽく処理されていなくて、これはやっぱりクリスマス特別仕様と言うことなのかもしれない。つまるところ、仙と佐藤の関係が、佐藤の一方的な妄想によるものではない双方向による関係が描かれている。要するにラブ編ということだ。

仙が実のところかなりめんどくさい人だというのは以前から書かれていたことだけれど、それゆえにギャグ補正を取っ払ってしまうと人間関係がボロボロになってしまうと言うのはシビアな話である。意地っ張りで、そのくせ寂しがりやで、しかも口下手であるという、不器用が極まっている人なので仕方のないところであるのだが。その悪いところが発揮されてしまったことで、佐藤は仙と気まずくなってしまうのだった。

しかし、そこには仙に問題があって彼女が一方的に悪いのかというと別にそういう話ではなくて、人間と言うのは多面を持った存在であって、一面のみを取り出してみれば欠点にしか見えないものであっても、しかし別の一面を取り出せば長所になるということなのだ。つまり、人間の欠点しか見ないで非難するというのは、同時に相手の長所を見ないで否定する行為に過ぎないわけで、それは随分ともったいない話だと思う。

仙は、意地っ張りで、寂しがり屋で、口下手ではあるけれど、それは意思の強さと、情の深さと、人を信じる気持ちの表れでもある。彼女が面倒くさい性格をしているのは確かだけど、面倒くさいの一言で否定してしまうのはあまりにも偏狭だし、なにより視野が狭い。人間と言うのは、二元論や正しさだけでは拾いきれないほどに多様な存在だし、そういうものだと言う認識を持ってみれば、もっと面白い存在になると思うのだ。

佐藤にとって仙は尊敬すべき”槍水先輩”であって、その視点は女神のように相手を崇拝する気持ちが元になっている。それゆえに、仙がそんなにも子供っぽい誤ちを犯していることが理解できないあまりにギクシャクしてしまう。佐藤にとって仙はあくまでも”先輩”であるのだが、それは彼女の一面でしかないということにどうしても気がつけないのだ(自分の中の偏見と言うのは本当に気がつけないものだ)。仙に対して”先輩”としての視点しか持てなかった佐藤が、自分の視点の偏りに気がつくのは、烏頭みことに指摘されるときを待たねばならなかった。

ある意味において、みことは仙に対して最も公平な視点を持っている人物なのだが、それは彼女が仙を嫌っているからこそ公平になりうる、と言うことだ。仙が嫌いなだけあって駄目なところを良く理解しているし、それを平気で指摘してしまうぐらいに意地悪だ。みことには彼女に対する幻想は持ち合わせていないので、ただの少女としての仙を佐藤に伝えることが出来てしまう(これは本当にそういうものだと思う)。そのようにして、ようやく佐藤は”一人の女の子としての仙”、という別の側面を知ることが出来たのだった。

彼女は未熟であり、間違えることもあるし、間違えたことを認められない頑なさを持っていることを認識することは、ある意味において理想の失墜であって、あるいは幻滅という言い方も出来るかもしれない。けれど、それが本当の意味で相手と対峙するということであって、本当に(一方通行ではなく双方向的な)関係を構築したいという場合には、決して避けられないことだ。つまり、唯一で真実の彼女、なんてものはこの世に存在しないのであって、人間なんてものは常に揺らいでいるものだ。昨日は正しいと思っていたことが今日は間違っていると思うことなんてしょっちゅうなのであって、それに比べれば相手の駄目なところを見据えるのは容易いことではないだろうか。

強くて優しく気高い先輩であると同時に、子供っぽくて寂しがり屋でコミュニケーションが不器用な少女であって、それらのすべてが槍水仙である。そうした矛盾は皆が持っているものだということを知ることが、いろいろな意味で重要なことなのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.03.03

『小学生にもデキること! 超誕!Jオオカミ団』

小学生にもデキること! 超誕!Jオオカミ団』(蕪木統文/一迅社文庫)

孤独ってのはいったいどう言うものなんだろう?と考えた時、自分が思う一つの結論として、価値の喪失と言うのがある。価値と言うのはあくまでも相対的なものであり、他者との比較の中にしか存在しないという考え方をするなら、孤独の中にあるときは比較するべき他者が存在しないということになると言うことだ。

価値が相対的と言うのは、例えばある絵画があったとして、それには素晴らしく芸術的な価値があると評価が下されている。しかし、その価値は普遍性を持ったものかと言うと、そうではないと言う考え方のことです。だって、芸術家が存命のうちにまったく評価されないなんてこともあるし、ある日突然評価されて価値が上がることだってあるしね。要するに、それは誰かが価値があると思い込んでいるだけで、別に絶対的な意味で価値があるわけじゃない、と。

この考え方が正しいかはともかく、孤独と言うものにはこれと同じような感覚がある。この世には価値があるものなどはなく、ただ価値があると思い込んでいるものがあるのだけなのだ、と言う感覚こそが孤独というものなのだと思う。作中の言葉を借りるなら「人生とはファーストフード店で食事をするようなもの」であり、この世にあるものはすべてハンバーガーのようなもので、種類はたくさんあってもどれも同じような味しかしない、と言うわけだ。

孤独って言うのは、本当に人間を殺す毒で、こういう孤独に侵された人間と言うのは虚無の中に落ち込んでいくしかない。あらゆるものに意味が見出せなくなって、そのうちあらゆるものを憎悪するようになって、最後には周囲を巻き込んで自分も破滅していくしかない。まあ、主人公はそこまでひどくはなかったけどね。ただ、孤独を癒すためには他者というものが必要不可欠で、だから主人公の能力のあり方というのには意味があるのだと思う。

彼の能力は少女たちと肉体的な接触というのが不可欠なので、いろいろと危機に陥った主人公はどう足掻いても少女たちと接触しないわけにはいかない。接触してしまえば、孤独に閉じかかっていた主人公と言えども意識しないわけにはいかなくて、ついには”自分から手を差し伸べる”ことさえもしてしまう。少女たちの力の発動は、実のところかなり恥ずかしい接触が必要になるけれど、そういう接触こそが主人公を救う鍵となる。

無視できないものが生まれて、そこで主人公は考えることになる。人生というのはファーストフードみたいなものだ。選択とは、チーズバーガーかハムバーガーかを選ぶぐらいと意味しかない。だけれども、もしかしたらそれは世界で奇跡的に世界で一番美味しいチーズバーガーなのかもしれない、と。まあ、それを確かめる術もないんだけどね。美味しいかどうかもまた相対的なものであり、味覚など個人によって異なるもので、普遍的な美味しさなんてものは存在しないんだから。だからこそ”自分でそのチーズバーガーが世界一美味しいと決める”のだと言うことには、たぶん意味がある。きっとそういうのが”価値”と言うもののを本来の意味なんだろう。

でも、これって最初に書いた「それは誰かが価値があると思い込んでいるだけで、別に絶対的な意味で価値があるわけじゃない」ってことじゃね?と思えるかもしれないけど、これはまったくその通りだよなあ。この世には”価値”など実は存在しないんだ、と言う主人公の考え方は最後まで変化していなくて、ただ結論を反転させただけだ。価値など存在しないから無意味だ、から、価値など存在しないのだから自分が意味を与えてやる、と言う方向に。まあこれは単なる開き直りでしかないわけだけど、まあ開き直った方がたぶん良いことなのだろう。価値に意味を与えるのは、他者によってではなく、自分でやらなければ意味がないものなのだし。

追記。脱線するけど、この主人公の考え方は世界の捕らえ方、つまり世界観の問題であって、世界観の問題を正しいとか間違っているとか言うのは無意味だということは注意しておきたい。ここで「この主人公の考え方はおかしい」と言っても、そういう風に世界を捉えている人に、間違っていると言ってもどうしようもない話だからだ。間違っているといわれても、本人には確かにそのように世界を捉えているのだから、本人が考え方を改めてもどうしようもならない。自分が青だと思っているものが、実はそれは赤なんですよと言われても、自分にはそれが青にしか見えないということと同じこと。別にこの本の話とは関係ないんだけど、そういう意見を良く見かける気がするんだよね。まあぶっちゃけ、こないだコメントで「文章ひどいですね」って言われたことなんだけど。そんなことを言われてもなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »