『ベン・トー(8) 超大盛りスタミナ弁当クリスマス特別版1250円』
『ベン・トー(8)超大盛りスタミナ弁当クリスマス特別版1250円 (ベン・トーシリーズ)(集英社スーパーダッシュ文庫)』(アサウラ/スーパーダッシュ文庫)
今回はいつもはギャグっぽく処理されている部分がギャグっぽく処理されていなくて、これはやっぱりクリスマス特別仕様と言うことなのかもしれない。つまるところ、仙と佐藤の関係が、佐藤の一方的な妄想によるものではない双方向による関係が描かれている。要するにラブ編ということだ。
仙が実のところかなりめんどくさい人だというのは以前から書かれていたことだけれど、それゆえにギャグ補正を取っ払ってしまうと人間関係がボロボロになってしまうと言うのはシビアな話である。意地っ張りで、そのくせ寂しがりやで、しかも口下手であるという、不器用が極まっている人なので仕方のないところであるのだが。その悪いところが発揮されてしまったことで、佐藤は仙と気まずくなってしまうのだった。
しかし、そこには仙に問題があって彼女が一方的に悪いのかというと別にそういう話ではなくて、人間と言うのは多面を持った存在であって、一面のみを取り出してみれば欠点にしか見えないものであっても、しかし別の一面を取り出せば長所になるということなのだ。つまり、人間の欠点しか見ないで非難するというのは、同時に相手の長所を見ないで否定する行為に過ぎないわけで、それは随分ともったいない話だと思う。
仙は、意地っ張りで、寂しがり屋で、口下手ではあるけれど、それは意思の強さと、情の深さと、人を信じる気持ちの表れでもある。彼女が面倒くさい性格をしているのは確かだけど、面倒くさいの一言で否定してしまうのはあまりにも偏狭だし、なにより視野が狭い。人間と言うのは、二元論や正しさだけでは拾いきれないほどに多様な存在だし、そういうものだと言う認識を持ってみれば、もっと面白い存在になると思うのだ。
佐藤にとって仙は尊敬すべき”槍水先輩”であって、その視点は女神のように相手を崇拝する気持ちが元になっている。それゆえに、仙がそんなにも子供っぽい誤ちを犯していることが理解できないあまりにギクシャクしてしまう。佐藤にとって仙はあくまでも”先輩”であるのだが、それは彼女の一面でしかないということにどうしても気がつけないのだ(自分の中の偏見と言うのは本当に気がつけないものだ)。仙に対して”先輩”としての視点しか持てなかった佐藤が、自分の視点の偏りに気がつくのは、烏頭みことに指摘されるときを待たねばならなかった。
ある意味において、みことは仙に対して最も公平な視点を持っている人物なのだが、それは彼女が仙を嫌っているからこそ公平になりうる、と言うことだ。仙が嫌いなだけあって駄目なところを良く理解しているし、それを平気で指摘してしまうぐらいに意地悪だ。みことには彼女に対する幻想は持ち合わせていないので、ただの少女としての仙を佐藤に伝えることが出来てしまう(これは本当にそういうものだと思う)。そのようにして、ようやく佐藤は”一人の女の子としての仙”、という別の側面を知ることが出来たのだった。
彼女は未熟であり、間違えることもあるし、間違えたことを認められない頑なさを持っていることを認識することは、ある意味において理想の失墜であって、あるいは幻滅という言い方も出来るかもしれない。けれど、それが本当の意味で相手と対峙するということであって、本当に(一方通行ではなく双方向的な)関係を構築したいという場合には、決して避けられないことだ。つまり、唯一で真実の彼女、なんてものはこの世に存在しないのであって、人間なんてものは常に揺らいでいるものだ。昨日は正しいと思っていたことが今日は間違っていると思うことなんてしょっちゅうなのであって、それに比べれば相手の駄目なところを見据えるのは容易いことではないだろうか。
強くて優しく気高い先輩であると同時に、子供っぽくて寂しがり屋でコミュニケーションが不器用な少女であって、それらのすべてが槍水仙である。そうした矛盾は皆が持っているものだということを知ることが、いろいろな意味で重要なことなのだと思う。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント