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2012.02.14

『クズがみるみるそれなりになる「カマタリさん式」モテ入門』

クズがみるみるそれなりになる「カマタリさん式」モテ入門』(石川博品/ファミ通文庫)

読み終わった後に表紙を見返したら、帯に『脱・残念系ラブコメ』と(小さく)書いてあって、つまりはそういうことかと思った。もうこれ以上に何かを書く必要もないぐらいに適切な言葉なので、これだけで感想を書く意欲が三割減だったけど、自分の言葉にしておくことも必要だと思うので書く。

『脱・残念系ラブコメ』というのはおそらく『はがない』シリーズに代表される最近流行りの”残念な人たち”が繰り広げるラブコメではないという意味で、残念な人というのは内面に不器用さや社会に適応出来ない部分を抱えている人の事を言う。僕は『はがない』シリーズもとても好きなんだけど、同時にああいう作品の限界と言うのも感じていて、つまり”残念”という概念に閉じこもってしまうというところがある。もっとも『はがない』シリーズは最新巻でその概念を動かしつつあるけれども、さまざまな『はがない』フォロワー作品においては、”残念系”である主人公たちの仮想敵国というか、完全な敵として”リア充”が置かれてしまっているというのが最たるものだ。つまりそこには”残念系”と”リア充”という世界が分断されていて、不可侵となってしまっている。

そういう分断が起こってしまう背景はいろいろあるんだろうけれど、要するにそういう不器用さを抱えた読者にとっては、”リア充”の存在は異世界と同じくらいの遠さがあるんだと思う。ただ、そうしたタイプの人にとって忘れがちなのが、”リア充”だって人間だってことだ。さらに言えばこういう作品に出てくるのは”同じ高校生”でしかない。戦国時代とか海外とかが舞台ならともかく、”同じ時代”で”同じ場所”で暮らしている人が、まったく違う世界の住人なんてことは考え難いことだろう。もちろん、当事者(リアル高校生)にとっては違うことは明らかで、自分のような意見には”違うに決まってんだろバカ”と思うことだろうけど(リアル高校生だった頃の自分もそう言いそうだ)、学生生活もずいぶん昔になりにけり、な自分にとっては”その程度”の違いなんてのは、違いのうちにも入らない。と言うのも、人間なんてものは違うことが最初から当たり前であって、そもそも同じ人間なんてものはありえないのだ。その違う中で、それでもコミュニケートしていくのが人間なのであって、まあ学生時代というのはそのトレーニング期間のようなものなのだと言える。

つまり結局のところ何が言いたいかというと、リア充だろうが残念だろうが、”恋してしまえば関係ねえ”ってことだ。さらに言えば、リア充と残念系の”境界を越える”的な気負いも無意味だ。作中でカマタリさんも言っているけれども「恋愛にかまえる必要なんてない」わけで、別にそこに”勇気”だとかなんだとかは別に関係ない。それはつまり、リア充を過剰に敵視するのも残念系であることを自嘲するのもバカバカしいことであって、リア充だって恋とかしないでもいいし、残念だからって恋をしてもいいということで、そういう力の抜けた感じがこの作品にはあるのだ。

この作品を読んでいて思い出したのが、自分が高校生の頃のクラスメイトだった。そいつは見た目はイケメンで友達も多かったんだけど、なぜかいつも隣のクラスの冴えないというか、そもそも学校で何かを喋っているのを見たことがないという男子と行動していて、一緒に下校しているのを見かけて不思議な気持ちになったのだった。まあこれで実はそのクラスメイトが相手を苛めていて金をせびっていたなんて事実があったりしたら絶望だけど、少なくともそういう感じは見えなくて(そういう裏があるんじゃないかと、当時の自分も一応疑っていた)、一緒に帰る時は、そのクラスメイトもいつものように大仰にはしゃいでいるわけではなく、ぽつぽつと会話している感じだった。自分は分類するのならば”残念系”の高校生だったけど、そういうのを見ていてすごく羨ましかったというかああいうのもありなんだ、と思ったのだった。とは言え、自分は学校中の人間をバカにしている陰鬱な高校生を卒業まで続けていたので、その事実はまったく自分には生かせなかったのだけれども(教室では毎日クラスメイトを全員殺して自分も死ぬことを考えていた)。

なんの話だっけ?えーと、まあ要するに境界を作るのも消すのも自分次第と言うことで、この作品はひたすらにそういうことだけを書いているのだと思う。自分には関係ないと思っている女子と、無理矢理に会話してみたらひょいっと繋がってしまったり(まあクイックセーブがないと厳しいけどな!)、接点がないと思っていた相手とも変なところで理解してしまったり。なんと言っても、相手の”生っぽさ”に恋に落ちる瞬間というのは、そうした理屈を超えたところにあるということを描いているところが良くて、特に「俺は震えた。あ、やっぱいつもはキッタネーんだと思ってその生々しい感じにドキっとし、それを曽我野が今日のためにきれいにしたっていう事実にまた震えた」というシーンがすごく良くて、このシーンは何度も読み返した。なんと言うか、相手の肉体が感じられる表現だと思う。実際の肉体がどうこうと言うよりも、存在感というか、そこにいるという感じのそれがあって、石川博品という作家のそういうところが僕は好きなのだった。

追記。読み直しをしてみたら言葉が足らないところに気がついたので書く。”リア充だろうが残念だろうが、”恋してしまえば関係ねえ”ってことだ”と書いたが、これで勘違いして欲しくないのは、「恋をすることが至上であり恋をしないのには意味がない」のではない、ということだ。別にそれ以外のことでも何でも良くて、あくまでも”リア充”と”残念系”の境界はそうした気持ち一つで跳躍できるもの、という意味です。

個人的に”リア充”と”残念系”の差異というのは、そうした跳躍が成功したか失敗したかの差異でしかなく、”リア充”はたまたま成功したことで成功体験を得て、その跳躍を苦もなく繰り返すことが出来るのだが、”残念系”はそれにたまたま失敗したことで失敗体験を得たことで、跳躍を行うことが出来ないのではないかとも思うのだが、この辺りは考えも詰まってない単なる思い付きです。

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