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2012.02.03

『恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-』

恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-』(上遠野浩平/集英社)

上遠野浩平という作家は、デビュー当初からジョジョの奇妙な冒険のノベライズをしているような作品を書いているのだけど、人間賛歌を基調にしているジョジョに比べると、上遠野浩平はもう少しナイーブというか、後ろ向きなところがある。ある話で登場する”中二階(メザニーン)”という能力があるんだけど、能力の詳細はさておいて、これはもう一階にはいられないんだけど、二階に上がることがどうしても出来なくて、いつまで経っても中二階で足踏みをしているような状態を意味している。こういう何一つとして確かなものがない、前にも後ろにも向かうことが出来ないような、曖昧で宙ぶらりんな状態やあり方について延々と書いている作家が上遠野浩平なのだった。ある意味、ジョジョとは真逆の方向を行く作家であるとも言えるわけで、その作家が題材として描くのが、ジョジョの第五部において存在そのものを持て余されて消えて行ったフーゴと言うのは納得のするところなのだった。

フーゴは、まさに前にも進めず後ろに逃げることも出来ずに、曖昧で宙ぶらりんな人間だった。それは彼自身が自分の大切なものを裏切り続けているということなのだが、彼はそのことに気がついていない。彼は自分の中に確固たる”何か”を持っていないと感じていて、それは彼自身が何よりも苦しむところなのだが、その”何か”がなんなのかどうしても理解出来ないのだった。実際には、フーゴは確固たる何かを持っていないわけではなくて、いつも彼の中にあるのだけど、それを大切なものだと気がついていないのだ。正確には、自分には大切なものがあるということさえも気がついていない。あるいは、それを無視していると言うべきかもしれない。

それはフーゴの強烈な自己否定から生まれているもので、彼は自分自身を憎むと言うか、”価値が無い”と思っていて、それが彼のあり方のすべてを規定している。彼は自分自身にあらゆる価値を認めていなくて、それゆえに彼の判断基準はすべて”自分以外”のものに基づいているのだ。フーゴはいつだって”誰かのため”に行動していたし、”何かのため”に怒ったり悲しんだりもしていたけれども、彼は一度も”自分のため”に行動したことはなかった。”自分のため”に何かをすることなんて、考えることさえしなかった。それがつまり、彼が自分自身に何の価値も認めていないということであって、それは彼自身には”自分のために何かをする価値さえもない”と言う心のあり方なのだ。

この物語は、そんなフーゴが”自分のため”に行動することを学ぶ物語、ではない。これは、彼が自分はからっぽだと自覚する物語だ。彼は物語の中で最善か、あるいはより良い選択をしていこうとするのだが、”正しい”選択をしているつもりなのに、なぜかまるで間違っていることをしているような予感に苛まれているのだけど、それがなぜなのかどうしても分からない。それはもちろん”彼自身にとって正しい”選択をしていないからなのだけど、彼自身にとって正しいことなんてまるで理解出来ないフーゴにとっては、そんなことは不可能なのだ。冷蔵庫が暖房の代わりにならないように、そもそもそういう用途には出来ていない。フーゴにはそういう”機能”がないのだ。

そんなバカなそんなのは努力が足りないだけだ、と言う人は幸せだ。そういう人は、おそらくは”人間はいくらでも変われる”という言葉に疑いを抱いたことがないのだろう。もちろん人間は変われる、ただし変われる範囲であればだが。先の例えを使うのならば、冷蔵しか出来なかったところに冷凍庫をつけることは出来るかもしれないが、暖房器具はつけれないということだと言える。あるいはつけられるかもしれないが、それはもはや”冷蔵庫ではない”のだ。

フーゴはこの物語を通じて、自分には決定的に欠けたものがある人間であることを発見した。ブチャラティ、アパッキオ、ミスタ、ナランチャが持っていた”確固たるもの”を理解出来ない、欠けた人間であるということを、自覚することが出来た。それで何が救われるわけではないし、何かが得られたわけでもないが、彼は”自分の苦しみの源泉”を知ることが出来たのだった。その後も彼の苦しみや葛藤は続くのだろうが、それでも彼は”覚悟”を得ることが出来たのだった。

そんなフーゴにジョルノは手を差し出す。それはフーゴの苦しみや欠けたものをまるごと認めるということであって、別にフーゴを”救おう”だとかそういうものじゃあなく、”そのままの君で良い”ということであって、からっぽで、人間として大切な何かを持てない、そんなフーゴのままで良いということなのだ。それは別に同情とかそういう曖昧なものでもなければ、許しだとか甘いものではなくて、ただそうした”欠けたものとして生きる”ということを肯定したものである。それはつまり、欠けたまま生きて、”欠けたまま別の何か”を得られることを信じると言うことなのだ。

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コメント

もしかしたらいつかこちらで感想が読めるのでは、と思っていました。

ノベライズだからというのではなく、いつものこちらの、というとおかしいかもしれませんが、積読を重ねる日々の文脈で読ませて頂きました。
(この作品に関してではありませんが)どこか普段考えていた事と重なるような感想でもあり、そうしたのも含めて興味深く再考できました。

原作付きのアニメ映画を見る際にも「原作という要素」をどう秤の中に含めるかを意識している自分を感じますが、この辺にも何か視点を頂けたように思います。
ありがとうございます。

投稿: | 2012.02.04 16:43

お役に立てたようで何よりです。そう言ってもらえますと嬉しいですね。

>原作付きのアニメ映画を見る際にも「原作という要素」をどう秤の中に含めるかを意識している自分

これはなかなか興味深いですね。そういう考え方はしたことがありませんでした。原則的に、すべて切り離して考えるべきだと思っているので。とは言え無関係とは到底言えないわけで、その辺りの都合のつけ方は、考えてみる価値はあるのかもしれません。

投稿: 吉兆 | 2012.02.04 23:48

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