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2012.02.23

『この人の閾』

この人の閾』(保坂和志/新潮文庫)

よく言われることだが、時間というのは人間が直接感じ取れるものではなく、あくまでも時間が流れた変化を観測することによって、”時間が流れた”ということを推測することしか出来ないものである。子供が成長して大人になったり子供の頃に遊んでいた公園が潰れてマンションになっていたり、そうした変化を見てああ時間が流れてしまったな、と考えるのが人間と言うものだ。それは、人間には時間を感じ取る能力が欠けているというよりも、むしろそうした形で時間と言う概念を理解している人間の能力の複雑さというかファジーさを感じるのだが、それはまあいい。ただ、時間という概念の上にしか観測できないもの描く上で、人間と風景というのは避けて通れないということは、強く感じるところだ。

保坂和志という人は、どうも風景に対して偏執的と言っても良い拘り方をしている人で、人間を描くのと同じくらいに風景についての描写が多い。少なくとも、僕が読んでいる限りでは、初期作品の頃はそれほど風景についての描写は多くなかったのだが、時代に後になってくるほどに風景の描写が増えてくる。最近の作品だと風景のことばかり書いているような感じなのだが、しかし、それで人間について描いていないのかと言えばそんなことはなくて、風景について描くことが人間を描くことにも繋がってくるのだ。人間と風景の間には、最初にも書いた通り、時間と言うものが橋渡しをしている。風景が変化している時、それに呼応するように人間も変化しているのだ。

ただ、それは風景が人間の心象を反映しているとか、メタファーだとか、そういうことを言いたいのではなくて、風景は風景であって、それは人間の内面とはなんの関係もないということだ。つまり、公園が潰されてマンションが建ち、そのマンションがまた取り壊されて高速道路になったとしても、それはあくまでも風景の変化であって、人間とはなにも関係がない。人間に関係があるのは、あくまでもその変化を見る主体としての意味である。確かに風景の変化は人間には関係がないが、その変化は、どんな形であってもそれを見る人間の中に積もっていく。それは人間が変化を通じて時間を感得しているということでもあるのだが、時間を感得したとき、人間は自分自身の変化にも直面することになる(つまり、”変わった”という事に対して、なんらかの感慨や変化が生まれて来る)。風景の変化が人間の変化と呼応するというのはそういうことで、事象そのものには何の関係がなくても、その関係の”無い”というところで響きあうものがあると言うことなのだ。

この本に収められている4編の短編はすべてそうした変化についての話で、多くは風景の変化について描かれている。表題作の「この人の閾」だけはちょっと違うが、これもまた「映研」時代の先輩が結婚して母親になっている姿から、かつてからの変わったところと変わらないところを見るという意味で、まさしく時間についての話になっているわけで、やはり変化の、ひいては時間についての話になっている。しかし、それらで重要視されているのは、変わったことそのもの(公園がマンションになったことや、映研の先輩が母親になったこと)は本題ではなくて、そうした変化そのものに対してどのような態度を取って行くのかということを考えることだ。それは、時間は不可逆のものであり、さらに言えば拒否できないものである以上、我々にはそれを受け入れることしか出来ないのであり、つまりは”どのように受け入れるか”という態度のことなのだ。

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