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2012.02.19

『私立!三十三間堂学院(11)』

私立!三十三間堂学院(11)』(佐藤ケイ/電撃文庫)

僕は良久須美というキャラクターが大好きなので、珍しく彼女がメインに近い活躍をする今回はとても楽しく読めた。彼女はなんというかとても誇り高い人間であって、そういうところがとても好きなのだった。誇り高いというのはプライドが高いこととはまったく違うもので、プライドは自分のためのものだが、誇りとは他のためにあるものだ。他と言うのは人のこともあれば形のない概念のようなもののこともあるけれど、そうした自分以外のもののために意思や行動することが出来る人間のことを誇り高い人だと言える。彼ら/彼女らの誇りは、いつだって誰か/何かのためにあるのだ。

須美という人間はまさしくそういう誇りを持っている人で、しかもそれに対して自然な態度を持っているところが良い。彼女は自分の誇りに対して気負いもなにもなくて、使命感とか義務感もなくて、ただ自分のやりたいように後悔のないように行動すると、それは常に自分以外の何かのために行動しているところがすごい。一見して自己犠牲的に見える行動も、彼女自身はそれを犠牲にしているとは思っておらず、ただ自分が好きなように行動しているに過ぎない。そこにはあくまでも気楽で前向きな精神があり、自己犠牲とは悲壮感に満ちたものであるという一般的な思い込みを一笑する力がある。

ただ、そういうところはなかなか凡人には理解が及ばないところがあるのは仕方のないとこころではある。とりわけ彼女の無私の自己犠牲を受けた側である仙堂蓮華にとっては、とてつもない重荷であり、彼女にとっては須美の行為は絶望的なまでに自分の責としてのしかかってくるものとさえ言え、そこから目を背けることは誠実ではないと思っている。それは確かに一つの誠実さとしては間違ってはいないし、むしろ当然の心ではあるのだが、須美の精神はそのようなレベルには留まっていないために、当然の如くすれ違っているのだった。これはある意味においては、蓮華は須美を本当には理解しようとしていなかったということでもあって、彼女は自分の”傷”だけに目を向けていたとも言える。

だから、今回の物語は、蓮華が須美とはどういう人間なのかと言うことを本当の意味で理解する物語であると言える。自分の”傷”だけに閉じこもっていた彼女は、初めて外界に目を向ける。自分の中の罪悪感と悲愴な思いで向き合っていた彼女が、そんな風に深刻に悲劇に向いあうのではなく、気楽に自然に悲劇に笑いかけることを学んでいく。それをなしていくのが、須美に匹敵するほどの”誇り”を身に付けている法行という”異性”の存在で、蓮華は彼を通して須美が持っている”誇り”を理解していくのだった。

相手を”理解”すると言うのは、逆に言えば自分と何が違うのかということを知ることでもあって、それは自分の中だけではなかなか上手くいかないもので、そういうのは他者の中に見つけるしかない。法行は自然に相手に対してそういうことを自覚させるところがあって、それは彼が、周囲にとっての”異物”であることとも無関係ではない。法行は、ただそこに居るだけで、彼女たちの価値観を揺さぶり、新しいものを持ち込む存在なのだろう。

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