『魔術士オーフェンはぐれ旅 約束の地』
『魔術士オーフェンはぐれ旅 約束の地で』(秋田禎信/TOブックス)
オーフェンが40前後のおっさんになって、地位と権力と政治力を兼ね備えたスーパー中年にランクアップしてた。ついでに実力もあるんだから手に負えねえ(実力が”ついで”になってしまうのがオーフェンらしさよな)。それでもなおこの物語には『オーフェン』の名前がついているところに、なんだろうなあ、不思議な感じもある。え、まだオーフェンが主人公なの?みたいな。ただ、人生に”終わり”があるとすれば、それは死んだ時だけだと思えば、人は何歳になっても旅の途中であってどこまでも続いていくものであって、さらに言えば旅というのは一人で行うものだけではなく、道連れもいれば、旅の目的を受けつぐこともあって、なかなか一概には言えない。なんて偉そうなことを書いてしまったけど、自分は出不精です。
そういう妄想はともかくとして、この作品自体の位置付けは、これから書かれる第四部の前に前提条件を整理しておく話のようである。書かれなかった第三部の代替と言うことも出来るかもしれない。なにしろ舞台も違えば世界も変化していて登場人物も違っているので、いきなり第四部なんて書いたら読者を混乱に落とし込むこと請け合いであり、それを避けるために最低限の必要な設定を放出していると言ったような。
まあしかし、第四部(ってのも、第三部が書かれていないのに第四部というのもおかしいが、それはともかくとして)の世界の広がり方というのは本当にすごいもので、昔を知っていれば知っているほどに驚いてしまう。3対1ではどんな達人でも勝てないとか言ってたオーフェンが、今じゃ神人種族(だいたい神様のようなものと考えて差し支えない)とバトルしているんだもんな…文字通り世界が違う。これって、旧作(とあえて書くけど)の熱心なファンの中には拒否反応を起こした人もいるんじゃないだろうか。あの泥臭いバトルが良かったのに、みたいな。
まあ、ぶっちゃけた話、そう思った自分もちょっとはいました。人間同士がお互いに拳を急所に叩き込む駆け引きみたいな、ああいうバトルじゃないんだな、と。しかし、それにガッカリしなかったとは言わないけど、でも、今までのオーフェンを過去にして、新しいオーフェンを始めるつもりがあるんだ、とも思った。”新しい”というのは、大抵は拒否反応を導き出すもので、別にオーフェンに限った話じゃなく、シリーズ物の続編に対して「これは自分の知っている××ではない。スタッフはファンを裏切った」という言い方をする人がいる(別にアイマスだとかなんだとかは言わない)けど、まあそういうものだ。
自分はそういう考え方はあまり好きじゃなくて、と言うか嫌いで、そういうのを聞くと、じゃあ以前と寸分違わぬ同じものを提供されたいの?と思う。しかし、そういうことをやっていては必ず作品と言うのは腐ってしまうものだ。腐るという言い方が適切ではないとすれば、陳腐化するということだ。とは言え、陳腐になることが悪い事とは言わない。黄金パターンも繰り返されれば、時代劇のように王道と呼ばれるものになるのかもしれない。けれども、かつては幅広いエンタメであったはずの時代劇が、いまでは一部の人の嗜好品になってしまったように、同じことの繰り返しは必ず外への志向性を失うことになる。
とは言え、むやみやたらに新しいことをすればいいのかと言うと、必ずしも僕はそれを支持しなくて、つまり”奇を衒う”ことと”新しい”ことはまったく違うものなのだ。”奇を衒う”というのは過去を背負わないというとこであり、過去と断絶している。”新しい”というのは、あくまでも”古いもの”を踏まえた上で行われるもののことであるのだ。ここはとても難しいところで、しばしば新しいことをやろうとして、単に奇を衒ったものになることはあるものなのだけれども、それでも、今までとはまったく違うことをやろうとすることは、その成否は別にして、意味のあることだと思う。それは作品を本当の意味で生かし続けようとする行為だと思うからだ。それが結果的に奇を衒ったものになったとしても、やらないよりはマシだろうとも。
追記。オーフェン新シリーズは良いと思うよ。新しい神人種族やヴァンパイアとの戦いとか、旧作から成長した人々がどうやって立ち向かうとか、すごく楽しいしね。
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