『明け方の猫』
『明け方の猫 (中公文庫)』(保坂和志/中公文庫)
最近、小説のマニュアル本をいくつか読み漁っていて、その中の一つに『書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)』(保坂和志)を読んだ。これが大層面白くて、なにしろ小説の入門書のくせに小説のマニュアルの存在を全否定している上に、実際的な技術の話はほとんどしないというものすごい本だったのだ。それではどんなことを書いているかと言うと、小説を書く上で、”小説の中に含まれないさまざまなこと”をひたすら執拗に描いている。小説の中に含まれないと言っても小説と関係ないというわけではなくて、小説という輪郭を定める上で非常に重要なことを書いているという感じがある。つまり、”小説の外にあること”を描いていると言ってもいいのかもしれない。戯言だが。
そうして保坂和志という作家に興味が沸いたので、作品を読んでみることにしたのだった。これがその第一作目。何冊か読んでから気がついたのだが、保坂先生は途中で文体が微妙に変わっていて、これはわりと初期の方の文体のようである。かなり独特の文体で、ある文章があったとして、ある文章が終わって句点(。)があるのだけど、そこからさらに”次の文章に文章が繋がっている”感じの文章なのだった。最初に読んだとき、これにかなり面食らってしまって、ところがこの文章を読んでいると、読むのを止めるタイミングが分からなくて、ずるずると続きを読んでしまう。なにしろ句点で文章が終わらないので、読んでいてもどこで休憩すればわからない。これが非常に不思議というかエキサイティングなもので、すごく面白かったのだった。
本作に収録されている二つの中編(というか短編)のうち、表題作になっている「明け方の猫」という作品は、ある男が猫になった夢を見て、夢の中で猫である自分と、現実において人間であった自分について考えるという話で、まあとくに物語らしい物語はない。主人公が思考する流れがひたすら描かれるだけなのだが、しかし、これが非常に面白かった。なにが面白いのかと言うと、思考の流れが非常にダイナミックなのだ。あるとき自分は猫になってしまった理由を考えているかと思うと、ふと見上げた木を見て別の連想が働いて思考がふいに横道に逸れてしまうのだが、主人公は思考をむりやり軌道修正したりはしなくて、そのままだらだらと思考をし続けていくのだけど、その思考が猫としての自分の動作にさえ影響を受けてころころと連想が繋がっていって、そして最終的には最初の思考に繋がるようなそうでもないようなところに落ちて、それは非常に重要なことなようにも的外れなもののようにも思えるものだったりする。ここで言えることは、人間は完全に思考するだけの、精神的な存在ではまったくなく、人間の思考というのは”身体”というものに支配されているということだ。人間が歩いているだけで、その足を前に踏み出すという動作が、人間の思考に影響を与えている。思考がどんどん転がっていくのはそういうことであって、それが思考のダイナミズムに繋がっているのだ。身体があるからこそ、人間の思考は”飛躍”を得ることが出来ると言うことも出来るのだろう。
もう一つの「揺籃」という短編は、まさに思考のダイナミズムを突き詰めていて、もうこれはダイナミズムというより思考の大暴走とでも言うべきものであって、一行前に書いていることを、次の行で否定していたりして、書いているうちに背景が変化していって、そのうちそもそもの了解事項さえも曖昧になって、目的も変遷していって、登場人物もいつのまにか入れ替わったりしている。はっきり言って物語がないどころが破壊されているといってもよいのだけど、そこに思考の動的な力がある。つまり”飛躍”の力だ。人間は、とくに論理を超えて何かを理解することがあって、それが飛躍というものなのだけど、そういう思考が飛躍する瞬間を捉えているという作品のようにも思える。つまり、「揺籃」という作品は論理を捨てているわけだけど、なんというか、ぽろっと気持ちが動いてそのまま真っ直ぐ進んでしまう、”魔が差した”感覚に近いものがある。自分で書いていても良くわからないけど、まあとにかく思考のうねりが波乱万丈で(物語はぜんぜん波乱万丈じゃないけど)、まったく退屈しないでも読めたので問題なかった。
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