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2011.12.08

『魔術士オーフェンはぐれ旅 キエサルヒマの終端』

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魔術士オーフェンはぐれ旅 キエサルヒマの終端』(秋田禎信/TOブックス)

昔読んでいたときはオーフェンのスタイリッシュなアクションとかバトルとかばかりを目当てに読んでいて、なので第一部は好きだったけど第二部はあまり面白く感じなかったのだけど、今になって読んでみるとカッコ良さに対する独特の美学や概念のあり方について、すとんと納得できるところがあって、第二部がとても好きになったのだった。まあそれは別に今作とはなんの関係もないのだけど、第二部が好きな人には今作も面白いのではないかな、とふと思ったのだった。

オーフェンの、というか秋田先生の特徴だと思うのは、極端にキャラクターの内面描写がない、もしくはわかり難いというところがあって、どういうわけかキャラクターの内面についてはほとんどが”他者から見た/解釈した”内面であるか、あるいはそのキャラクターが外語として発声した言葉しかないというところだ。まあさすがに視点人物の内面は地の文で語られているところもあるけど、それはあくまでも三人称視点であって、本当の内語には( )がつけられている。つまりそれはキャラクターについて語られた内容が絶対的な価値を持たないと言うことで、あるキャラクターについて理解したい場合は、幾人かの証言をつなぎ合わせて、矛盾を取り除きつつ行わなければならない。これはキャラクターの記号化という方向性とは真逆を行く手法であって、執筆当時はそれほどライトノベルも記号化が進んでいなかったとはいえ、ここまで徹底しているのはわりと珍しかったように思う(まあ昔の事なので記憶が曖昧だけども)。

それがどういうことなのかと言うと、別にどうということもなくて、ハードボイルド小説とかではわりとメジャーな手法なのだが、これがライトノベルというキャラクター(記号化されているという意味)で使用されているところが面白くなるところなのだ。これを屈折していると言うか、斬新と言うかは人それぞれだと思うけど、それによってキャラクターの振幅を許容することにつながり、逆説的に複雑な内面を獲得することになる。つまり、明るくて裏表のないキャラクターがいたとしても、その内面が語られない限りは、そのキャラクターは確定しない。実は内面ではものすごく腹黒い計算をしているのかもしれないし、あるいは見たまま裏表がないのかもしれない。それらは語られない限りは決して確定することはない、ということなのだ。

そういうこともあって、オーフェンに登場するキャラクターは、わりとキャラがブレる。つうか、ブッレブレだ。ただ、そのブレが思考の変化によるものか、あるいは埋没していたものが表面化していたのか、あるいはただこちらが誤解していただけなのか分からないわけで、さっきまでよくわかっていたキャラクターがとつぜん理解不能な存在になったりする。つまり、人間というのは内面で何を考えているのか分からないものであり、それはむしろ当たり前のこと。そういう当たり前のことを当たり前のものとして描いているというのはとても大切なことだ。オーフェンのキャラクターが、決して物語の都合で動いているのではないという手触りがあるとすればそういうことなんだろう、と思うのだ。

まあ、ただ単に秋田先生がライトノベルを描くつもりがぜんぜん無いだけだとも思うけど。

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