終電
24日と言えばクリスマスイブで、しかし、そんなこととはまったく関係なく友人の家でぐだぐだとしていた。一応忘年会という名目で集まったものの、忘年会らしいことはまったくやらなくて、酒を飲んでクダをまいていたのだったが、かといって世間一般のクリスマスにまったく意識しないと言うわけでもなくて、むしろクリスマスのことをまったく意識しないようにクダをまくことで、かえって意識しているのだった。集まった面子の一人がよせばいいのにコンビニかなにかで安いケーキを買ってきていて、むしろクリスマスに男だらけで集まったことのわびしさを助長させてしまっていたのだが、自分の中ではあえて安物のケーキを食べることでいかにもクリスマスに対する反骨を現しているようで、自分の中ではむしろ好ましいチョイスであったのだが、そのように反骨を現そうとした時点で敗北しているとも言えるわけで、このほど斯様にクリスマスと言うのは自意識の所在がはっきりと分かるものなのであった。
夜も更けて帰宅の途についた時には終電の時間になっていたのだが、そこそこに酒を聞こし召してほろ酔い気分だったこともあり、うっかり下車駅を乗り過ごしてしまった。いかんいかんと上り方面のホームから電車に乗ったのだが、これがホームは同じでも別方面への電車だったので、気がついた時にはまったく見知らぬ駅で降りることになった。辺りは見知らぬ土地だと言う以前に明かりがまったくなく、周囲を見回してみても重たい暗闇が辺りを覆っていた。正直なところかなり途方に暮れていたのだが、とりあえず携帯から現在位置周辺の地図を見ることで、なんとか知っている道まで行くことは出来そうだったので、現代と言うのは本当にたいした時代だと改めて思った。それを頼りに歩きだすと、暗闇の中に溶け込んでいくような感覚を味わうのだが、駅と言う明かりの中にいる時には暗闇の中はまったくの異世界のように思えたのだが、一度暗闇の中に入り込んでみると、遠くの街灯や住宅地の明かりなどが小さいながらも点在しているのがわかった。そうした小さな明かりを見ていると、駅のホームで感じていた心細さと言うものが少しずつ薄れていったのだが、それとともに現実感とでも呼ぶべきものも薄れてきて、どこか自分の肉体から気持ちが遊離していくような感覚を覚えたのだが、これは単にほろ酔い気分だったのかもしれなかった。
地上に落ちた星のようなそれらを頼りに歩きつづけて、ようやく見覚えのある道に辿り着いたときにはさすがにホッとして、ホッとしたことでやはり自分は緊張していたのだと思った。その道は何度も歩いたことのある道で、よほどの事がなければ目をつむっていても歩けるぐらいには慣れた道であったのだが、しかし、真夜中に歩いてみると普段とどこか違う場所のように思えた。昼間に通ったときには気がつかなかった店がいくつも見つけて、そのたびに首をひねった。こんなところにこんな店があったとは、どんなに記憶を漁っても出てこないのだが、両隣を見てみれば知っている店だったので、明かりの関係とか、そういうことで今まで意識していなかったところに視線が向いたためであろうと言う理屈は自分の中では理解出来るものの、そう思って改めて見ても、内装外装ともに見覚えがなくて、しかも決して地味な店と言うわけでもなく、釈然のしなかった。まるで夜の間だけ何もないところに店が突然生まれたような感じさえして、もし、この店の中で夜を明かしたとしたら一体どうなるのだろうか、という想像をした。明日の朝、改めてこの場所を見に来たときにこの店がなかったとしたら、きっと今この瞬間だけこの店がある可能性に出会っているのかもしれず、たとえ店が同じようにあったとしても、それ以前に店がなかったという記憶を抱えた自分は、今この瞬間に店が生まれたという疑いを捨てきることは出来ないだろう、とも思った。世界と言うものは実は絶対不変のものではなく、人間は自分の意識の及ぶ範囲でしか世界を認識出来ない。認識出来ないところでは、もしかしたら突然建物がにょきにょきを生えかわったりしているのかも知れず、そうであったとしても自分はその建物がずっと前からあったのだと思い続けることだろう。そのことには不安だとも面白いとも感じず、ただ不思議なことだなあと思った。そうして、よく見知っているが今は見知らぬ道を歩いて帰った。
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