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2011.12.03

寒い冬の日に因果論

UNーGO 因果論』を観るために渋谷まで出た。肌が凍るのではないかと思うほどに寒くて思わず首をすぼめてしまったけれども、しばらくしてくると寒さ自体に慣れてきて、寒さを味わう余裕が出てきた。冬の寒さというのは寒い以前に肌に物理的にとも言える刺激があって、その寒さと自分の体の境界である皮膚の存在を意識させる。自分が寒いと感じているところは、間違いなく自分の身体が存在するところであって、それが自分の輪郭をはっきりさせてくれるような気がするのだ。夏の暑さも非常に物理的というか暴力的なのだが、暴力的に過ぎて自身の身体を確かめる以前にすべての感覚が飽和していくところがあって、むしろ輪郭が曖昧になっていくものであり、それはそれで悪いものではないと思うけど、どちらかといえば自身の理性を信奉する自分の性向としては冬の方が好ましく感じるのだった。

仕事返りの友人と待ち合わせて映画館に向かったのだが、着いてみると待合のようなロビーに女性ばかりが集まっていて、『UNーGO』って女性に人気だったことを初めて知った。女性:男性が極端で見渡してみればほとんどが女性であって、比率としては8:2ぐらいあったような気がする。渋谷という立地も関係していたのだろうか。席の前も後ろも右も左も女性が座っているので、最初はなんともアウェイ感を覚えたのだけど、やはり女性が多いと雰囲気がやっぱり違っていて、アニメ映画にありがちなマナーの悪さもなくとても気持ち良く見ることができた。一時間くらいの短い映画だったけど途中で意識を逸らす事なく観れたのも環境が良かったからだろう。

映画そのものはエピソード0にふさわしく謎が明らかになったり謎が増えたりしていた。本編を見てたときはどうもよくわからなかった主人公の動機や人間性が明らかになるところもあってこれを映画でしか明らかにしないとかどういうことなのかと思わなくもないが、ラブロマンス要素もあって、なるほどこういうのが女性に人気があるところなのかとも思った。あと、本質の話というのがあって、「本質ごときに自分がなんなのかを決めさせたくない」みたいな台詞があって、そうだなあと思った。人間が心の中に抱える本質や本心というのはフィクションでは過剰に重要な価値を持たせられることがあるけど、実際には人間は自身の本質だけで構成されているわけじゃなくて、そうした土台からさまざまなものを積み上げて生きている。土台は確かに重要だけど、それから積み上げたものや、積み上げたものが残した結果もまた同様であろうし、どちらが上というものではない。まあ、こういうのも結局は言葉遊びみたいなものであって、本質などというのもただの言葉でしかない、ということだ。それが人間の真実と関係があるかというとまったくなくて、例えば、家と言うものは材料は木であったり鉄であったりするわけだが、たしかに元々はそういうものであったのだろうが、しかし、家は家でしかなく、その大元が木であったりするのは、そりゃ無視できることではないが、それが家の存在理由に関わってくるかと言えばそんなことはない、ということだ。

友人と別れたあと、そんなことをつらつら考えながら家に帰った。考えながらも、寒さが自分と外界を切り分けていて、世界には自分しかいないという感覚を覚えるのだが、どういうわけかそれが寂しさとは繋がらなくて、それはそれで良い事なんじゃないか、とも考えるともなく感じているのだった。

翌日(つまり今日)は忘年会と言うことでまたしても出かけたのだけど、昨日の寒さを忘れられなくて外に出てみると、予想外に暖かくて肩透かしにあった感じだったけど、こういう外界と自分が曖昧な緩やかさも悪くないな、と前言を速やかに翻して、とりあえずはめていた手袋をはずしたのだった。

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