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2011.12.31

いつも通りだと思った時点ですでにいつも通りではない

今年も終わりだけど、例年通りだと別に思い返すこともなく、まあ今年も終わったなぐらいの感慨しかないのだが、今年は思ったよりもいろいろな事を思い出して、わりとふわふわとした気分になった。思い起こしてみれば、唐突に海を見たくなったので向かったら途中で迷ってしまって山道で途方にくれたりと、なんだか迷った記憶が多かったのだが、まあわりと人生に迷っていることも多かったのでちょうど良い気もする。まあそんな上手いことを言ってやったぜ(でも実はあまり上手くない)的な発言はいいとして。

そういえば読書メーターで2011年心に残った本ランキングの本棚と言うサービスがあったので作ってみた。自分の中で重要度の高いものから並べてみたけど、そんなに厳密なものじゃやない。というか、僕はあまり順位をつけるということが得意じゃなくて、というか嫌いなので、一位の作品が二十位の作品よりも優れているとかそういうことではなく、ただ並び順としてこのほうが、自分の中でしっくりと来るものだというだけに過ぎない。優劣というのは結局のところ価値観でしかなく、いかようにも変化するもので、ある考え方では優れているものも、別の考え方をしてみれば劣っていることもある。だからと言って、すべてのものは平等であって優劣などない、などと言うつもりもなくて、物事に平等などというものはなくすべては差があり不平等であることは間違いない。だけど、不平等というのはあくまでも”差異”があるというだけであり、つまり均衡が取れていないということだ。例えば天秤があって、左右に石を置いたとする。すると重量の重い方が下になるわけだが、ならば重い方が”劣っている”のだろうか?あるいは、実は重い方が金属の含有率が高く、価値が高いのかもしれないのだが、ならば軽い方が”劣っている”のだろうか?自分の考える”価値”と言うのはそういうもので、それは価値とは実は二次元的なものではなく、三次元的なものであるので、比較をするときと言うのは暫定的に前提条件を定めておいて、意図的に二次元的に決め付けているだけに過ぎないということである。そういうことを考えているとだんだんとどっちが”優れている”のかというのを決めるのが面倒になってきて、じゃあどっちでも別にいいよ、となってしまうのだ。だから僕は順位をつけるのが嫌いな理由を一言で言うと、面倒くさいから、ということになる。

嫌いと言えば、僕は”決意”というのも嫌いで、これが嫌いな理由は”決意”という言葉の持つ大仰さというか、「自分は決断を下しました、後戻りはしません」的な自意識を感じさせるのが嫌いなのだが、まあそれこそが僕の自意識の問題かもしれないのだが、それはさておく。とにかく、そういうナルシスティックな自己陶酔は僕が最も嫌うものであって、なぜなら物事と言うのは決意とかとは関係のないところで動いていくものだからだ。個人的な感触から言うと、”決意”なんてまだるっこしいことをしている人間は本当に何かを為す事ができない。何かをするときと言うのは、決意をする間もなくすでにやっていることであって、あるときを境になにかを始めていると意識できることは少ないように思うのだ。と言いつつ、自分も「よし、今日からあれを始めるぞ」と思うことがしょっちゅうあり、それが上手く行った試しがないためにそう思うのであって、”決意”することできっぱりと何かを出来る人もいるであろうことは否定しない。ただ、自分は”決意”は出来ない人間だというだけだ。僕が何かを上手くできるときはなんかいつの間にか始めていて、後から気がついてみると我ながら上手く出来たような感じになる。もっともいつの間にか始めていて、と言う場合でも、あるきっかけとか気の向きとかもあると思うのだが、少なくとも後から考えてはっきりとした瞬間というのはない。たぶん、その日は天気が良かったからだとか、目覚めが良かったのだとか、それぐらいの事だったのだと思う。実は今年、自分ではかなり重要と思える選択をしたのだが、実のところそれに葛藤とかはなくて、なんかいつの間にか自分の中でそれしか出来ないような感じになっていた。それが結局どういうことになるのかは分からないだけど、まあしばらくは続けてみようと思いつつ、今年も終わりを向かえつつあることに、我ながら不思議な気分になっている。

ここ数年、自分には未来がなく、過去もなく、現在しかなかった。そろそろ未来の事を考えることもしていきたいと思いつつ、まあいつかは考えるであろう未来の自分に丸投げをすることにしようと思う。

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2011.12.29

『きぜんと撤収!! 邪神大沼(8)』

きぜんと撤収!! 邪神大沼(8)』(川岸殴魚/ガガガ文庫)

シリーズ最終巻ということだけど、突然の急展開で伏線もグールCぐらいしかなかったし、やっぱり打ち切りなんだろうけども、そもそも伏線とかそういうのはこの作品としても相応しくなくて、突然終わるというのもらしいような感じもある。そして最終巻だということで登場人物もオールスター総出演になっているのだが、それでいてさしてお祭り感もなく、ふつーに登場してはふつーに去っていくアバウトさがある。そして大沼は自分自身の問題と向き合うことになるのだが、そのために取り組む問題も、ある意味しょうもなく、大沼自身がヒロイックに活躍するところもないのだけど、まあ本人の問題というのは、実のところ本人以外には別にたいした問題ではないということだと普通にある話で、だからと言って本人がその問題を放置していると取り返しのつかないことになってしまうと言うのも、また普通の話なのだ。

何が大事なことなのか、というのは実のところ人の心の中にしかなくて、おそらくあらゆる物事の価値というのも同じことでしかない。何が大切で、何が大切じゃないのかと言う問い対する答えは、”人による”と言うことでしかない。だけど、それならばこの世には大切なことなどないのかと言うことではなく、大切なことは自分自身で決めなくてはならないと言うことでもある。何が正しいのか。それは人の心の中にしかないということであり、人の心が決めるものなのだ。だからこそ”正しさ”は多様であり、そこから生まれる”行動”もまた多様であるのだ。もし”正しさ”が多様でないのだとしたら、一つの”正しさ”だけしか存在しないのだとしたら、それはおそらく人の心とは違うものから生まれたものに違いない。

この理屈でいうと、万人に普遍的な”正しさ”というのは存在しないことになる。もっとも、生まれ育った環境や教育、文化によって、ある程度共有する価値観というものはあるだろうし、それがなくてはこの世には救いがなさすぎるというものだけど、それでも全人類が統一意識を持っていない以上、一人一人で異なる”正しさ”は生まれて来るはずだ。だれかが「くだらない」と、「バカバカしい」と嘲笑するような、それでも紛れもなくその人にとっては大切で、この世のすべてに匹敵するようなものが。それを否定することは、己の中にある、”誰とも共有できない正しさ”の存在を否定することにもなるのだが、それを行ってしまうのも、人というものかもしれない。

大沼は、結局みんなから誤解され続けていたし、客観的にみてもグールCの方がはるかに強い存在であったというかはっきりと影が薄かったし、そもそも彼自身、自分の問題に対してさして有効な行動が出来たとはいえないが、それでも彼は、彼自身のもっとも大切なものから逃げることはしなかった。手にした大切なものは、誰かから見ればささやかで、どうでもいいものだったかもしれないけれど、”価値”と言うものもまた、普遍性などありえないものだ。自分の心の中にある”価値”から離れることなく、それを握りしめた大沼のあり方は、人々に感動を及ぼすことはなくても、とても大切なことなのだ。

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2011.12.25

終電

24日と言えばクリスマスイブで、しかし、そんなこととはまったく関係なく友人の家でぐだぐだとしていた。一応忘年会という名目で集まったものの、忘年会らしいことはまったくやらなくて、酒を飲んでクダをまいていたのだったが、かといって世間一般のクリスマスにまったく意識しないと言うわけでもなくて、むしろクリスマスのことをまったく意識しないようにクダをまくことで、かえって意識しているのだった。集まった面子の一人がよせばいいのにコンビニかなにかで安いケーキを買ってきていて、むしろクリスマスに男だらけで集まったことのわびしさを助長させてしまっていたのだが、自分の中ではあえて安物のケーキを食べることでいかにもクリスマスに対する反骨を現しているようで、自分の中ではむしろ好ましいチョイスであったのだが、そのように反骨を現そうとした時点で敗北しているとも言えるわけで、このほど斯様にクリスマスと言うのは自意識の所在がはっきりと分かるものなのであった。

夜も更けて帰宅の途についた時には終電の時間になっていたのだが、そこそこに酒を聞こし召してほろ酔い気分だったこともあり、うっかり下車駅を乗り過ごしてしまった。いかんいかんと上り方面のホームから電車に乗ったのだが、これがホームは同じでも別方面への電車だったので、気がついた時にはまったく見知らぬ駅で降りることになった。辺りは見知らぬ土地だと言う以前に明かりがまったくなく、周囲を見回してみても重たい暗闇が辺りを覆っていた。正直なところかなり途方に暮れていたのだが、とりあえず携帯から現在位置周辺の地図を見ることで、なんとか知っている道まで行くことは出来そうだったので、現代と言うのは本当にたいした時代だと改めて思った。それを頼りに歩きだすと、暗闇の中に溶け込んでいくような感覚を味わうのだが、駅と言う明かりの中にいる時には暗闇の中はまったくの異世界のように思えたのだが、一度暗闇の中に入り込んでみると、遠くの街灯や住宅地の明かりなどが小さいながらも点在しているのがわかった。そうした小さな明かりを見ていると、駅のホームで感じていた心細さと言うものが少しずつ薄れていったのだが、それとともに現実感とでも呼ぶべきものも薄れてきて、どこか自分の肉体から気持ちが遊離していくような感覚を覚えたのだが、これは単にほろ酔い気分だったのかもしれなかった。

地上に落ちた星のようなそれらを頼りに歩きつづけて、ようやく見覚えのある道に辿り着いたときにはさすがにホッとして、ホッとしたことでやはり自分は緊張していたのだと思った。その道は何度も歩いたことのある道で、よほどの事がなければ目をつむっていても歩けるぐらいには慣れた道であったのだが、しかし、真夜中に歩いてみると普段とどこか違う場所のように思えた。昼間に通ったときには気がつかなかった店がいくつも見つけて、そのたびに首をひねった。こんなところにこんな店があったとは、どんなに記憶を漁っても出てこないのだが、両隣を見てみれば知っている店だったので、明かりの関係とか、そういうことで今まで意識していなかったところに視線が向いたためであろうと言う理屈は自分の中では理解出来るものの、そう思って改めて見ても、内装外装ともに見覚えがなくて、しかも決して地味な店と言うわけでもなく、釈然のしなかった。まるで夜の間だけ何もないところに店が突然生まれたような感じさえして、もし、この店の中で夜を明かしたとしたら一体どうなるのだろうか、という想像をした。明日の朝、改めてこの場所を見に来たときにこの店がなかったとしたら、きっと今この瞬間だけこの店がある可能性に出会っているのかもしれず、たとえ店が同じようにあったとしても、それ以前に店がなかったという記憶を抱えた自分は、今この瞬間に店が生まれたという疑いを捨てきることは出来ないだろう、とも思った。世界と言うものは実は絶対不変のものではなく、人間は自分の意識の及ぶ範囲でしか世界を認識出来ない。認識出来ないところでは、もしかしたら突然建物がにょきにょきを生えかわったりしているのかも知れず、そうであったとしても自分はその建物がずっと前からあったのだと思い続けることだろう。そのことには不安だとも面白いとも感じず、ただ不思議なことだなあと思った。そうして、よく見知っているが今は見知らぬ道を歩いて帰った。

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2011.12.23

『這いよれ!ニャル子さん(8)』

這いよれ!ニャル子さん(8)』(逢空万太/GA文庫)

不条理かつ無軌道なユーモア小説から始まったこのシリーズも、巻を重ねるごとに物語が生まれてきた。物語は、ストーリーとはちょっと異なるもので(と勝手に思っているのだが)、キャラクターが登場するだけで物語生み出されるものなのだ。あるキャラクターが言葉を発し、別のキャラクターがその言葉を受ける。ただそれだけで、物語は生まれる。そして物語とはすなわち”変化”である。そして時間を生み出す。関係性は常に変化してゆき留まることはなく、人間のパーソナリティーも次から次へ新しい刺激によって変化を促される。それが物語が生み出すものであって、つまり、”人間を描く”ことを捨て去らない限り、小説から物語は決して切り離せないものであるのだ。

このシリーズは、わりと物語を語ることに意識的であったと思うのだが、なぜそのように思ういかと言うと、時間の流れが非常にはっきりしているためである。一巻でニャル子がやってきて、それから一週間とかそれぐらいの短期間のうちにさまざまな事件が起こる。一巻からの時系列がはっきりと作品の中で明確になっている以上、この作品において”変化”は最初から内包されているということなのだ。

だが同時に、変化に対してなるべく距離を置こうとしていたように感じられるところもある。もともとこのシリーズは不条理かつ無軌道なユーモア小説として始まっている。およそユーモア小説は、まともなあらすじなどはなく、極端で奇を衒った展開などギャグ特有の時空間があって、そこには変化は排除されることが多く、この作品もそのひそみに倣っているように思える。しかし、作者の設定した不条理ギャグの壁が、この作品が最初から内包している変化とぶつかり合うことで物語に波が生まれており、それが作品に力となっているのだ。つまり、不条理なコントのようなやりとりも、時間の流れとともにその親密さや濃密さは変化し、親愛なるやりとりへ変化する。一巻と同じようなギャグを飛ばしていていても、その内実は大きく変わっていると言うことだ。

この巻はある意味において、動き続けていた関係性(≒変化であり物語)がある種の結実となっており、ある種の終わりを感じさせるものとなっている。変化とは始まりであり終わりでもある。何かが始まろうとする予感は、終わりの予感と同義である。ニャル子さんというシリーズは、不条理ギャグの壁と物語の力がぶつかり合い、物語が壁を突破しようとしているとも言える。果たして本当に突破しうるのか、突破することが正しいのかと言うところはたぶん別の話になると思うけど。

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2011.12.21

『天獄と地国』

天獄と地国 』(小林泰三/ハヤカワ文庫JA)

小林泰三先生はアニメや特撮に対してものすごく思い入れのある方みたいで、よくその辺からモチーフを持ってくることがあるんだけど、同時バリバリの理系でハードSF志向もあるために、その二つを融合した作品を描くことが多い(特にホラー以外)。で、今回の作品も作者の趣味が爆発している作品で、それがハードSF的にもアニメ的にも読み手をくすぐられるものだった。

ハードSF的には、タイトルにもある”天獄と地国”の設定がものすごい。と言っても、自分はバリバリの文系なので理系の人には「あーあれね」と言われる可能性もあるが、とにかく、この世界には大地とは頭上にあるものであり、空とは足下にあるものなのである。この時点で、設定を理解するまでに時間がかかってしまった。重力が空に向かって存在する時点で、この世界がどれだけ過酷なものであるかはすぐに分かるのだが、ならばなぜそのような世界が存在するのかについても、極めて論理的に説明されるところがハードSF作家としての小林先生の面目躍如と言ったところだろう。後半で明らかにされる世界設定の広大さと、そこから生じる絶望的な閉塞感。SFだなあ。

ところで一方で、これはスーパーロボット小説の側面を持っている。先ほども言ったように”天獄と地国”という世界設定で、スーパーロボットバトルをやったらどうなるか、と言うことで、主人公たちの前に次から次へ(一体づつ)敵ロボットが出現して、タイマンバトルをするという古式ゆかしいストロングスタイル。しかし、なぜ敵ロボットが一体づつしか出てこないのかとか、そういうお約束にはすべて論理的な理由で潰しているあたり、作者らしい。筋金入りのオタクと言う感じだ(褒め言葉)。そして繰り広げられるバトルも、設定にきちんと沿ったもので、これが非常に地味なんだけど、しかし、オタク的な文脈として文句のつけようもないほどにお約束を踏襲しているというヒネクレぶりを楽しめる。いやー必殺技を一つ撃つのも楽じゃないよね。

娯楽性を十分に持ちながら、ハードSFとしても品質が高いと言うことで、なかなかに面白いのだけど、しかし、この面白さは80年代的なアニメや特撮の文脈に依存しているので、ある意味挑戦的な作品だなあ、とも思いました。

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2011.12.18

『楠木統十郎の災難な日々―ネギは世界を救う』

楠木統十郎の災難な日々―ネギは世界を救う』(南井大介/電撃文庫)

この天然で明るい感じのルサンチマンと、理系っぽいけども無邪気とさえ言えるSFに対する愛情など、これはどこかで読んだことがある…と考えたらすぐに分かった。これは山本弘先生のSF小説の匂いだ。人間に対する楽観的な視点や、ルサンチマン全開で願望充足的なのになぜか明るくあっけらかんとしたところは、およそ00年代っぽくなくて(まあ南井先生は10年代の書き手だったような気もするけども)、90年代のライトノベルにあったような感じがある。

まあ、もちろんこれは印象だけの話で、志向性や細部は大分違うようにも思うけど、なんにせよ現代のライトノベルとはまったく方向性の違うものであるとは言える。前作、前々作でもそんな印象はあったけど、基本的にこの作者はSFの人であり、ライトノベルの人ではないんだな。キャラクターにはあまり興味がないというか、状況や設定の方に意識が向くのかもしれない。

今作は全体的にゆるい作りで、前作、前々作みたいな極限状態と言うか、どう足掻いても善悪や良し悪しには還元されない難しい問題はないけれども、科学技術に対する明るい信頼感というのは健在である。前作も前々作も、科学技術を用いて”行うこと”そのものは極めて危険な領域ではあったのだけど、その科学技術を振るうことそのものには極めて明るく楽しいものとして扱われてきていて(前作のマッドな科学者が大量殺戮兵器を作っているところさえも明るく楽しげに描写されている)、これは作者の科学技術に対して、それそのものは善悪もなく、決めるのは使い手の善悪であり、いかなる技術であってもそれを作ることそのものは楽しいもの、ということなのだろう。作者はおそらくそういう技術に携わることを凄く楽しんでいる人で、そういう実感が作品に反映しているのだろう。

ただ、今回は科学技術(というか異星人か異世界人の超科学だけど)の楽しさがメインになっているけど、どうやら続編があるみたいなので、そちらで科学技術の是非の問題をやるのかもしれない。おそらく作者は「技術を使うこと」と「技術に使われること」の問題に非常に拘っているように思えるので、図らずも超科学のエージェントとなってしまった楠木統十郎がどのような問題に直面し、そしてどのような倫理的判断を下すことになるのか、今から非常に楽しみにしているのだ。

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2011.12.15

『キノの旅(15)』

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キノの旅(15)』(時雨沢恵一/電撃文庫)

キノの旅の感想を書くのも久しぶりだけど、今回書こうと思ったのには別にたいした意味はなくて、なんとなく気持ちが向いたと言ったところ。なので何を書くのかもあまり考えてないので、いつもにも増してふわふわした感想になる予感があるのだけど、いつもギスギスしているのもどうかと思うので別にいいだろう。

キノの旅シリーズには、独特の肌触りがあって、寓話的でありながらもどこか俗っぽいところに、不思議な印象を受けていた。特に初期のキノの旅は、はっきりと教育的と言うかメッセージ性が強いところがあって、そこが”俗”という印象があったのだろう。メッセージ性が強いのはかまわないのだけど、メッセージの見せ方がすごく直接的で、露骨、あるいは露悪的とさえ言えるところがあった。いま思えば作者の若さであったのだろうと思えるけど、若いだけあって結論が出せないような問題とかにも堂々と切り込んでいって、まあ見事に答えが出せないままにうやむやになっていたりするところもあったように思う。

リアルタイムで読んでいたときは、実は、そういうところはあんまり好きではなかった。メッセージの内容がどうこうではなく、自分は好きではなかったのは”露悪的”なところだった。それはいちいち挑発的で、あまりにも分かり易すぎた。つまり、読者の知性というものをこれっぽっちも信用していない書き方であって、「読者には文章を読む力なんてないんだから、これぐらい分かりやすくしないと駄目だ」、と作者が言っているような感じがしたのだった。まあ、当時も分かっていたけど、これは勝手な妄想であって、作者自身がどう思っているのなんてわからないけど、そんな感じがあった。

これはさっき書いた”教育的”というところと関係していて、つまり、昔の時雨沢先生は、読者を”教化”しようとしていたのだろう。作者自身が考え、問題意識を抱えている問題を、読者にも伝えようとしていた。それは小説を書く過程において、あらゆる作者がやっていることだと思うのだけど、時雨沢先生はかなり”伝えたい”と言う気持ちが強かったのかもしれない。だから、読者に自分の思考が理解出来るように、ものすごく噛み砕いた言葉を使っていたし、いちいち露悪的で挑発的で読者をバカにした態度をとっていたのだと思う(繰り返しますが、これはぼくの主観です)。

そういう作者の態度に腹を立てつつムキになって読んでいたんだけど、考えてみればこうして読んでいるのって、完全に作者の思惑に嵌っていたわけで、自分ってちょろかったんだな、なんてことをしみじみ思ったりもしたけど、まあそれはどうでもよくて、15巻まで延々と読み続けていたわけですが、なんか最近の時雨沢先生は挑発的な書き方をしなくなっているような感じがしてきた。

枯れた、という言い方をしてもいいかもしれないけど、どうも「伝えよう、伝えさせよう」ということにガツガツしなくなったと言うか、「伝わっても伝わらなくてもいいよ」というぐらいにスタンスが変化している、みたいな。きっと、言葉が伝わることに期待しなくなったんだろうね、ってのも主観だけど、まあ人間なんてものは自分自身に引き付けることでしか理解出来ない生き物だから堂々と主観で物を言いますが、ある程度歳を食うと、人に言葉を伝えるのが億劫になると言うか、何をやっても伝わらないと言うことが身に染みて分かってくるというところがある。どんなに言葉を尽くしても、自分の中にあるものが伝わらないと言うことが、どうしても経験してきてしまうのでそうなってしまう(他の人は知らない)。

もっともそれは”諦め”というものとは全然違うもので、つまり、人間の言葉と言うのはあまりにも不十分なツールでしかない、と言うことを認識することだ。どんなに言葉を操っても、本来的な人間の内面と言うのは言語化できないもので、もともと言語化できないものを言葉で伝えようとすることに無理がある。だから”言葉”というものに誠実に向き合うほどに、言葉の持つ無謬性はどんどん消えてしまう。個人的には、言葉なんてのは「伝わったら儲けもの」ぐらいなもので、むしろそれで良いのだと思う。言葉と言うのは、ただ言語だけで成立しているものではなくて、雰囲気とか仕草とか、言葉と言葉の”間”とか、そもそも”言葉を発さない”ことさえも含めて、言葉と言うのは生まれていくもので、そういうものを経て”伝わる”というのは生まれて来る。言葉は不可欠なツールだけど、唯一のツールではないってことだ。

最近のキノの旅は、言葉以外のところで色々と語ろうとしているようなところがあって、もっともそれは自分が自分の経験に基づいて感じているところなので、別の経験の持ち主にはきっと別な感じがあるだろう。そうして感じたものは、きっと時雨沢先生の意図しているところと、もしかしたら合っているかもしれない、実はぜんぜん違うかもしれないのだけど、それは問題ではない。なぜなら”伝える”ってのは実はそういうことだからだ。人間は自分の経験に引き付けなくては理解出来ない生き物なのだから。そこには誤解はあるかもしれないが、誤解を含めて”伝える”ということなのだ。そうすることで、キノの旅は”余裕”というかそういうものがあって、いろいろな可能性を持つようになっていると思う。無駄を許容していると言うか、伝え方に広がりが出てきたような感じ。そういうところが、とても良いと思うのだった。

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2011.12.12

『スワロウテイル/幼形成熟の終わり』

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スワロウテイル/幼形成熟の終わり』(藤真千歳/ハヤカワ文庫JA)

前作と比較するとスケール感という意味では見劣りするし、なんだか物語もあっちいったりこっちいったりしてて、そのくせ寄り道することの楽しさというか気楽さみたいなのもなくて、なんだか忙しいなあ、と思った。全体的に登場人物たちの言動が青臭すぎるのが原因かもしれない。主人公を初めとして、なんというか、若いというよりも幼い(中学生ぐらい?)な思考と政治的な話がいまいち噛み合ってなくて、なんかバランス悪いなーと思う。とはいえ、それは作者の特徴みたいなもので、そういうバランスの悪さを超えるものがあるのが、この作者なわけだけど。

とはいえ、今回はどうも物語が広がっていく感覚よりも、閉じていく感覚が大きかったような気もする。というか、たぶんそういう物語だったんだろう。前作では主人公は内側からはじき出されて外に追放されるのに対して、今作では内側に囚われ続けている。それは物理的にもそうだし、物理的以外にもそうで、彼女は色々なものに雁字搦めになっている。そもそも、そこから逃げ出そうとすることさえも出来ないくらいに囚われているわけだから。その意味では、前作よりも閉塞感のある物語になるのも当然という気もしてくる。

作者の方も意地が悪くて、意図的に前作の内容をなぞるようにしておいて、読者の意識を誘導しようとしているところがあって、そのせいで当てが外れた感覚を出そうとしているのかもしれない。まあ、その誘導も、前作を読んでいれば違和感を覚えるのは確実で、それがまた物語の据わりの悪さを助長している。

そう考えていくと、そもそも、この物語はそういうバランスの悪さ、気持ち悪さを最初から内包させようとしているのかもしれない。それが何を意味しているのかというと、正直、いくつか想像はつくものの、これは、という結論が見当たらないのだけど。ただ、最初から違和感があって、その違和感は最後には解消されるのだけど、それによって昇華されるかと言うと、そうではない。さっき書いたように、最後まで”囚われている”ことには変わりないからだ。そこから、さらに一歩、何かを反転させるものがない。いや、逆か。主人公にはそこから反転するものが”まだ得られていない”んだな。成長に失敗したか、あるいは成長の過程なのか。たぶん後者だろう。彼女はまだ赤ん坊みたいなものであって、前作のようにはきちんと選択が出来ないのだろう。

そうすると”幼形成熟の終わり”というタイトルも意味深な感じがする。彼女(達?)の成長は、現段階では打ち止めで、次はそれを超えるものを求めなくてはならない。それは何か?幼形成熟が終わったあと、次は何が始まるのか?うーん、これは続編への布石かもしれんね。

なんか今回はえらくふわっとした感想になってしまったけど、どうもこれ一作ではどうこう言い難い作品だった。収まりが悪いんだけど、ではどこに収めればいいのか、まだ良く分からない。その辺りは続編でもうちょっと考えたいと思う。

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2011.12.11

11月に読んだ本

11月の読書メーター
読んだ本の数:41冊
読んだページ数:8404ページ
ナイス数:98ナイス

季節の記憶 (中公文庫)季節の記憶 (中公文庫)
最近、子供に何を教えれば良いのか、ということばかり考えていて、そういう気分にぴったり合った。
読了日:11月29日 著者:保坂 和志
よつばと! 11 (電撃コミックス)よつばと! 11 (電撃コミックス)
この年齢の子供を見ると”何”を”どのように”伝えればいいのかに悩んでしまう。
読了日:11月27日 著者:あずま きよひこ
装甲悪鬼村正 英雄編 (2) (角川コミックス・エース 333-2)装甲悪鬼村正 英雄編 (2) (角川コミックス・エース 333-2)
魔王編からも外れてきているようだが、どうなるんだろ。
読了日:11月27日 著者:ISII
魔術士オーフェンはぐれ旅 原大陸開戦【特製小冊子付き初回限定版】魔術士オーフェンはぐれ旅 原大陸開戦【特製小冊子付き初回限定版】
おそらくキリランシェロを語り直すつもりなのだろう。オーフェンはチャイルドマンの役割。
読了日:11月27日 著者:秋田 禎信
デート・ア・ライブ3  狂三キラー (富士見ファンタジア文庫)デート・ア・ライブ3 狂三キラー (富士見ファンタジア文庫)
ラブコメなのに士道の意思が介在し難い構図はこれからも大変だな。
読了日:11月24日 著者:橘 公司
絶園のテンペスト(5) (ガンガンコミックス)絶園のテンペスト(5) (ガンガンコミックス)
世界の命運を賭けたラブコメ…デートアライブか!最高に面白い。
読了日:11月24日 著者:城平 京
リューシカ・リューシカ(3) (ガンガンコミックスONLINE)リューシカ・リューシカ(3) (ガンガンコミックスONLINE)
大人ってマジ頭悪い。なぜ理解できねーんだ。…とリアル四歳児にも思われています。
読了日:11月24日 著者:安倍 吉俊
ヒストリエ(7) (アフタヌーンKC)ヒストリエ(7) (アフタヌーンKC)
ずいぶんじっくりと腰を据えているなあ。
読了日:11月24日 著者:岩明 均
ゴルフ13(4) (KCデラックス)ゴルフ13(4) (KCデラックス)
見事な打ち切りだが突き抜けた感じが良い。
読了日:11月24日 著者:赤衣 丸歩郎
神さまのいない日曜日VI (富士見ファンタジア文庫)神さまのいない日曜日VI (富士見ファンタジア文庫)
…んん?うーん、そういう方向に行くのか…。次巻まで保留。
読了日:11月24日 著者:入江 君人
史上最強の弟子ケンイチ 45 (少年サンデーコミックス)史上最強の弟子ケンイチ 45 (少年サンデーコミックス)
キャラクターの充実と、扱いの巧みさには恐れ入るしかない。
読了日:11月23日 著者:松江名 俊
魔法先生ネギま!(36) (講談社コミックス)魔法先生ネギま!(36) (講談社コミックス)
うわーすごいなこれ。上手すぎて言葉が出てこないぜ。
読了日:11月23日 著者:赤松 健
バビル2世ザ・リターナー 4 (ヤングチャンピオンコミックス)バビル2世ザ・リターナー 4 (ヤングチャンピオンコミックス)
ヨミ様はバビル二世との約束を守ってちゃんと隠居してたのかー。
読了日:11月23日 著者:横山 光輝
真マジンガーZERO 6 (チャンピオンREDコミックス)真マジンガーZERO 6 (チャンピオンREDコミックス)
きました大型回想。んな事してる場合か、というツッコミ想定済みですね。
読了日:11月23日 著者:永井 豪,田畑 由秋
ローゼンメイデン 6 (ヤングジャンプコミックス)ローゼンメイデン 6 (ヤングジャンプコミックス)
めぐは悪堕ちと言うよりあるべきところに立ったという感じだな。
読了日:11月23日 著者:PEACH-PIT
残響残響
”私”を認識するためには”他者”の視線が必要というのは自分の中にもしっくりくる。
読了日:11月21日 著者:保坂 和志
俺はまだ恋に落ちていない (GA文庫)俺はまだ恋に落ちていない (GA文庫)
そろそろお節介型主人公を無批判に継承するのはやめようぜー。
読了日:11月21日 著者:高木 幸一
シアンの憂鬱な銃 (電撃文庫)シアンの憂鬱な銃 (電撃文庫)
その挑戦的な姿勢は評価したい
読了日:11月21日 著者:佐原 菜月
外天楼 (KCデラックス)外天楼 (KCデラックス)
人が死なないはずのユーモア漫画の世界で、壊れ物としての人間を描こうとした作品なのだと思う。
読了日:11月18日 著者:石黒 正数
空の境界 the Garden of sinners(1) (星海社COMICS)空の境界 the Garden of sinners(1) (星海社COMICS)
ものすごく絵が上手くてびっくりした。
読了日:11月18日 著者:天空 すふぃあ
空の境界 未来福音 (星海社文庫)空の境界 未来福音 (星海社文庫)
ミツルも眼鏡で人格のスイッチしてるの?どんだけ橙子リスペクトやねん。
読了日:11月16日 著者:奈須 きのこ,武内 崇
狼の口 ヴォルフスムント 3巻 (ビームコミックス)狼の口 ヴォルフスムント 3巻 (ビームコミックス)
ヴォルフラムが冷や汗を流しているので、彼を人間として描くつもりがあるみたいだ。
読了日:11月16日 著者:久慈光久
オイレンシュピーゲル(5) (シリウスKC)オイレンシュピーゲル(5) (シリウスKC)
小説を漫画に”忠実に”語りなおしているところが偉いな。
読了日:11月16日 著者:二階堂 ヒカル
スプライトシュピーゲル 1巻 (ヤングキングコミックス)スプライトシュピーゲル 1巻 (ヤングキングコミックス)
未だ固まらず熱を感じさせるところが新人らしく良いね。
読了日:11月16日 著者:冲方 丁
明け方の猫明け方の猫
一行一行が数珠つなぎになっているかのような感じ。
読了日:11月15日 著者:保坂 和志
一路平安!(1) (講談社コミックス)一路平安!(1) (講談社コミックス)
異国美少女とツーリングをすれば、そりゃ人生観変わるよな。
読了日:11月13日 著者:小林 尽
ユンボル -JUMBOR- 3 (ジャンプコミックス)ユンボル -JUMBOR- 3 (ジャンプコミックス)
正調。認識が理屈を先んじる速度が素晴らしい。
読了日:11月13日 著者:武井 宏之
ヘヴィーオブジェクト 死の祭典 (電撃文庫)ヘヴィーオブジェクト 死の祭典 (電撃文庫)
これは禁書でもやってる主人公性の別バージョンをやる、というあれか。
読了日:11月13日 著者:鎌池 和馬
そんな未来はウソである(2) (KCデラックス)そんな未来はウソである(2) (KCデラックス)
変わる未来と変わらないものの話だな。
読了日:11月11日 著者:桜場 コハル
みなみけ(9) (ヤンマガKCスペシャル)みなみけ(9) (ヤンマガKCスペシャル)
カナみたいなやつは友達に一人ほしいね。二人はいらない。
読了日:11月11日 著者:桜場 コハル
B.A.D. チョコレートデイズ(2) (ファミ通文庫)B.A.D. チョコレートデイズ(2) (ファミ通文庫)
理想は高いが…少し足下を見つめなおしたほうが良いのでは。
読了日:11月11日 著者:綾里 けいし
紅 kure-nai 8 (ジャンプコミックス)紅 kure-nai 8 (ジャンプコミックス)
ついに原作を破壊してしまった・・・。どうするの?いや本当に。マジで。
読了日:11月06日 著者:山本 ヤマト
ONE PIECE 64 (ジャンプコミックス)ONE PIECE 64 (ジャンプコミックス)
がちゃがしゃしつつも整理されてもおり。
読了日:11月06日 著者:尾田 栄一郎
To LOVEる―とらぶる― ダークネス 3 (ジャンプコミックス)To LOVEる―とらぶる― ダークネス 3 (ジャンプコミックス)
そろそろ少年誌の枠をはみ出そうだが、やるなら天元突破まで行くのが男の本懐。
読了日:11月06日 著者:矢吹 健太朗
羽月莉音の帝国 9 (ガガガ文庫)羽月莉音の帝国 9 (ガガガ文庫)
賛否あるだろうが、世界を敵にまわして不敵に笑う革命部の奴らは、実に小気味良い。
読了日:11月03日 著者:至道 流星
多重人格探偵サイコ (16) (角川コミックス・エース 23-33)多重人格探偵サイコ (16) (角川コミックス・エース 23-33)
同じ人格でも、環境によって人は変わる。本物と模倣の関係も、そんなものだ。
読了日:11月02日 著者:田島 昭宇
書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)
「なぜ炒飯を作らなければならないのか」を考えさせてくれる本。
読了日:11月01日 著者:保坂 和志
キャラクター小説の作り方 (角川文庫)キャラクター小説の作り方 (角川文庫)
つまり「美味しい炒飯はどうして美味しいのか」という本
読了日:11月01日 著者:大塚 英志
ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)
言うなれば「美味しい炒飯の作り方」を教えてくれる本
読了日:11月01日 著者:ディーン・R. クーンツ
黒のストライカ4 (MF文庫J)黒のストライカ4 (MF文庫J)
主人公がなんでハーレムを拒否しているのかわからんが、まあ、思春期だしな。
読了日:11月01日 著者:十文字青
きぜんと撤収!! 邪神大沼 8 (ガガガ文庫)きぜんと撤収!! 邪神大沼 8 (ガガガ文庫)
”良い話”に最後まで汚されなかったのは良かった。
読了日:11月01日 著者:川岸 殴魚

2011年11月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター

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2011.12.08

『魔術士オーフェンはぐれ旅 キエサルヒマの終端』

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魔術士オーフェンはぐれ旅 キエサルヒマの終端』(秋田禎信/TOブックス)

昔読んでいたときはオーフェンのスタイリッシュなアクションとかバトルとかばかりを目当てに読んでいて、なので第一部は好きだったけど第二部はあまり面白く感じなかったのだけど、今になって読んでみるとカッコ良さに対する独特の美学や概念のあり方について、すとんと納得できるところがあって、第二部がとても好きになったのだった。まあそれは別に今作とはなんの関係もないのだけど、第二部が好きな人には今作も面白いのではないかな、とふと思ったのだった。

オーフェンの、というか秋田先生の特徴だと思うのは、極端にキャラクターの内面描写がない、もしくはわかり難いというところがあって、どういうわけかキャラクターの内面についてはほとんどが”他者から見た/解釈した”内面であるか、あるいはそのキャラクターが外語として発声した言葉しかないというところだ。まあさすがに視点人物の内面は地の文で語られているところもあるけど、それはあくまでも三人称視点であって、本当の内語には( )がつけられている。つまりそれはキャラクターについて語られた内容が絶対的な価値を持たないと言うことで、あるキャラクターについて理解したい場合は、幾人かの証言をつなぎ合わせて、矛盾を取り除きつつ行わなければならない。これはキャラクターの記号化という方向性とは真逆を行く手法であって、執筆当時はそれほどライトノベルも記号化が進んでいなかったとはいえ、ここまで徹底しているのはわりと珍しかったように思う(まあ昔の事なので記憶が曖昧だけども)。

それがどういうことなのかと言うと、別にどうということもなくて、ハードボイルド小説とかではわりとメジャーな手法なのだが、これがライトノベルというキャラクター(記号化されているという意味)で使用されているところが面白くなるところなのだ。これを屈折していると言うか、斬新と言うかは人それぞれだと思うけど、それによってキャラクターの振幅を許容することにつながり、逆説的に複雑な内面を獲得することになる。つまり、明るくて裏表のないキャラクターがいたとしても、その内面が語られない限りは、そのキャラクターは確定しない。実は内面ではものすごく腹黒い計算をしているのかもしれないし、あるいは見たまま裏表がないのかもしれない。それらは語られない限りは決して確定することはない、ということなのだ。

そういうこともあって、オーフェンに登場するキャラクターは、わりとキャラがブレる。つうか、ブッレブレだ。ただ、そのブレが思考の変化によるものか、あるいは埋没していたものが表面化していたのか、あるいはただこちらが誤解していただけなのか分からないわけで、さっきまでよくわかっていたキャラクターがとつぜん理解不能な存在になったりする。つまり、人間というのは内面で何を考えているのか分からないものであり、それはむしろ当たり前のこと。そういう当たり前のことを当たり前のものとして描いているというのはとても大切なことだ。オーフェンのキャラクターが、決して物語の都合で動いているのではないという手触りがあるとすればそういうことなんだろう、と思うのだ。

まあ、ただ単に秋田先生がライトノベルを描くつもりがぜんぜん無いだけだとも思うけど。

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2011.12.06

『シュヴァルツェスマーケン(2) 無垢なる願いの果てに』

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シュヴァルツェスマーケン(2) 無垢なる願いの果てに 』(吉宗鋼紀:内田弘樹/ファミ通文庫)

人間不信と自己否定に囚われていたテオドールが、前向きで理想に燃えるカティアを接するうちに、少しずつ人を信頼することを覚えていく、というのが前巻の物語だった。今回は、さらにテオドールのデレが順調に加速していくわけだが、ここで一度カティアを”落とす”展開になる。カティアは理想を夢見て、そしてそれを実行に移すだけの意思と明るさを持っているのだが、それは純粋であると同時にひどく危ういものだ。彼女の純粋さは、汚れがないゆえに人を惹きつけてきた。アネットやファムなど、絶望的な現実を前にそれでも正しさや救いを求める人間を魅了し、恐怖と不信に閉じたテオドールの心を溶かそうとしていた。しかし、彼女の意思は、未だ絶望を知ってはいなかったのであり、ここで彼女は一つの挫折を知る。彼女がどんなに理想を唱えても、関係なく人は死んでいくのだということと、死に行く人たちの前に自分が圧倒的に無力であると言うことを知る。そうして彼女は絶望を知った。無力を味わい、憎しみを知り、己への嫌悪を覚えた。そうして彼女は”穢れ”を得たのであった。

無垢な少女に現実を突きつけることは、おそらくは背徳的な喜びがあって、テオドールがいつカティアにそれを見せ付けることを望んでいたことは想像に難くないが、それでも彼女が絶望するところなどは、見たくなかったはずである。それは、テオドール自身、理想を信じたがっていたからであって、むしろ、彼は理想を信じられなくなった自分が、あるいは理想を裏切ってしまった自分こそを憎んでいたのであり、現実に対して挫折してしまったことを悔いていたのだった。だからカティアをかつての何も知らない自分と重ね合わせて疎ましく思ったり、現実を見せ付けて壊してしまいたいと思いつつも、彼はカティアがそれに負けないところを祈っていた。それはテオドールがそれまで固執してきた”現実”(現実に理想は無力であり正しさなど無意味である)とやらが敗北することを意味していたが、テオドールはまさに敗北することを、心の奥では望んできたのだった。

彼は、ついに自身の望みを理解して、喜んで敗北を受け入れるだろう。カティアが絶望を知って、それでもなお挫けなかったとき、彼の人間不信は根拠を失うのだ。現実には抗えないという彼の諦めは、現実に抗い、打ち勝とうとする人間がいれば、妥当性を失う。だが、それを認めることは、自分がそれまで生きてきた現実を壊すことであり、苦痛を伴うものだ。テオドールは、彼自身の世界を壊される苦痛に耐え、新しい現実を再構築することが出来た。それは汚れているし不恰好ではあるが、それに立ち会ったアイリスディーナは、彼を慰撫し祝福する。まるで母親が生まれてきた子供に対するように。彼は正しく生まれ直したということであり、それが出来るというのは希望ということもでもあるのだ。

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2011.12.05

『ねこPON!』

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ねこPON! 』(吉村夜/スーパーダッシュ文庫)

家族と共に感情を失った少年が、新しい家族を得て失ったものを取り戻すという、超ド級に王道一直線な作品だった。感情を失うというのは、世界とのつながりを失うということ、あるいは関わり方を見失うと言うことだ。感情を失うことは、ある種の防衛本能のようなもので、自我が壊れるほどの衝撃を受けたときに、それに耐えるためのものなのだろうが、それが長く続くと本当に感情が死んでしまい、それは”虚無”と呼ばれるものになる。孤独感の中で自己嫌悪とともに感情が先鋭化する、とかなんとか、それがどういうものが知りたい人はマルドゥックスクランブル(冲方丁)を読めばわかります。ともあれ、虚無を抱えると、人間は人間ではなくなって、虚無そのものになってしまう。

そうした虚無に落ち込もうとしていた主人公が新しい家族たちを迎える。彼女らは、猫で。猫と言うのは、家族と同じような、それでいてそうでもない存在なのだそうで。自分は経験がないんだけど、飼っている人の話を聞くと、そんな印象を受ける。ペットというのは、きっとそういう存在なんだろう。人の孤独を埋め合わせるような、そういう存在。ただ、彼の家にやってきた猫たちは人間の女の子の姿をしていて、主人公を翻弄していくんだけど、それがまた主人公の感情に波を立たせていくことになる。

つまり、彼女たちは、主人公にとって孤独に凝った心を癒してくれる存在であるとともに、彼の心を否応なしに振り回す厄介な存在であるが、それは主人公の孤独感の中で先鋭化していく内面を、日の当たる場所に連れて行くということにもなる。猫というだけならば、彼は家の中で彼女らを愛でつつ、生きていくことも出来たかもしれない。ただ、少女でもある彼女らは、はっきり言って彼の手には余るというか、明らかに未知にもほどがある存在であって、それが彼を外へ志向させることになる。彼女は主人公の心をケアする存在であるとともに、彼にもっともストレスを与える存在でもあるわけで、そのあたりは実に猫っぽい存在だし、それが孤独からもっとも遠い存在でもあるのだろう。

まあ、何でも自分の思うとおりになったらつまらないものね。

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2011.12.03

寒い冬の日に因果論

UNーGO 因果論』を観るために渋谷まで出た。肌が凍るのではないかと思うほどに寒くて思わず首をすぼめてしまったけれども、しばらくしてくると寒さ自体に慣れてきて、寒さを味わう余裕が出てきた。冬の寒さというのは寒い以前に肌に物理的にとも言える刺激があって、その寒さと自分の体の境界である皮膚の存在を意識させる。自分が寒いと感じているところは、間違いなく自分の身体が存在するところであって、それが自分の輪郭をはっきりさせてくれるような気がするのだ。夏の暑さも非常に物理的というか暴力的なのだが、暴力的に過ぎて自身の身体を確かめる以前にすべての感覚が飽和していくところがあって、むしろ輪郭が曖昧になっていくものであり、それはそれで悪いものではないと思うけど、どちらかといえば自身の理性を信奉する自分の性向としては冬の方が好ましく感じるのだった。

仕事返りの友人と待ち合わせて映画館に向かったのだが、着いてみると待合のようなロビーに女性ばかりが集まっていて、『UNーGO』って女性に人気だったことを初めて知った。女性:男性が極端で見渡してみればほとんどが女性であって、比率としては8:2ぐらいあったような気がする。渋谷という立地も関係していたのだろうか。席の前も後ろも右も左も女性が座っているので、最初はなんともアウェイ感を覚えたのだけど、やはり女性が多いと雰囲気がやっぱり違っていて、アニメ映画にありがちなマナーの悪さもなくとても気持ち良く見ることができた。一時間くらいの短い映画だったけど途中で意識を逸らす事なく観れたのも環境が良かったからだろう。

映画そのものはエピソード0にふさわしく謎が明らかになったり謎が増えたりしていた。本編を見てたときはどうもよくわからなかった主人公の動機や人間性が明らかになるところもあってこれを映画でしか明らかにしないとかどういうことなのかと思わなくもないが、ラブロマンス要素もあって、なるほどこういうのが女性に人気があるところなのかとも思った。あと、本質の話というのがあって、「本質ごときに自分がなんなのかを決めさせたくない」みたいな台詞があって、そうだなあと思った。人間が心の中に抱える本質や本心というのはフィクションでは過剰に重要な価値を持たせられることがあるけど、実際には人間は自身の本質だけで構成されているわけじゃなくて、そうした土台からさまざまなものを積み上げて生きている。土台は確かに重要だけど、それから積み上げたものや、積み上げたものが残した結果もまた同様であろうし、どちらが上というものではない。まあ、こういうのも結局は言葉遊びみたいなものであって、本質などというのもただの言葉でしかない、ということだ。それが人間の真実と関係があるかというとまったくなくて、例えば、家と言うものは材料は木であったり鉄であったりするわけだが、たしかに元々はそういうものであったのだろうが、しかし、家は家でしかなく、その大元が木であったりするのは、そりゃ無視できることではないが、それが家の存在理由に関わってくるかと言えばそんなことはない、ということだ。

友人と別れたあと、そんなことをつらつら考えながら家に帰った。考えながらも、寒さが自分と外界を切り分けていて、世界には自分しかいないという感覚を覚えるのだが、どういうわけかそれが寂しさとは繋がらなくて、それはそれで良い事なんじゃないか、とも考えるともなく感じているのだった。

翌日(つまり今日)は忘年会と言うことでまたしても出かけたのだけど、昨日の寒さを忘れられなくて外に出てみると、予想外に暖かくて肩透かしにあった感じだったけど、こういう外界と自分が曖昧な緩やかさも悪くないな、と前言を速やかに翻して、とりあえずはめていた手袋をはずしたのだった。

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2011.12.01

雨の日は散歩の日

雨が降っていたので図書館に本を返しにいった。雨と言っても霧雨に近く、出かけるときにはほとんど止みかかっていたけれど、空気が水を含んでいるような感じと、それでも地面は乾燥しているような独特の冬の感じの相容れなさに楽しくなってきた。図書館に行くときにいつも通る公園をわざと遠まわりをするようにぐるっと回って歩くと、雨に濡れた匂いがするかと思ったけども思ったよりもしなくて、あの独特の匂いは、やはり生き物の匂いなんだと思った。けれど雨の日の公園には人気がほとんどなく、匂いも音もなかった。”あずまや”のような屋根の下を通り抜け、階段を登っていくと小さな広場のような空間があって、周囲には森みたいになっていたけれど、やっぱり匂いというものがしなくて、まるで木々がプラスティックで出来た偽物なんじゃないかと思った。左手にもう一つ階段があるのでそちらを降りていくと、少し開けた場所があって、左右に道が分かれている。右手に向かうと木立が道の左右に配置されていて、ふと見ると巨大な蜘蛛の巣があった。一メートルぐらいの巨大な蜘蛛の巣で、良く見てみると中心にこれまたでかい蜘蛛がいて、やっぱりここには生き物がいるんだと思った。しばらく歩くと突然木々が騒がしくなって、何事かと思って見渡してみると、スズメの一群が雨宿りをしているみたいだった。ピイピイものすごく鳴き声がしたので、数十匹はいるみたいだったけど、いくら見ても葉と枝に隠れていて姿は見えなくて、でも、見ないほうがいいのかもしれないとも思った。一分くらい騒がしい鳴き声を聞いて、公園を抜けた。公園は山の上にあるので、出ると下り坂があるのだけど、その道は秋頃まではものすごい雑草で覆われてて、アスファルトのひびから一メートルぐらいの草がものすごい勢いで生えていたはずなのだけど、久しぶりに見たらすべて綺麗に刈り取られていた。歩くのにも邪魔になるぐらいの雑草だったのだけど、なくなってみるとすごく”ない”という感じが強くて、でも、自分はわりと”ない”という感覚も好きなのだった。冬は”何もない”という感じが凄く強くて、雨の日はそれがはっきりするような感じもある。だから自分は雨が好きだし、冬も好きなのだった。

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