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2011.12.23

『這いよれ!ニャル子さん(8)』

這いよれ!ニャル子さん(8)』(逢空万太/GA文庫)

不条理かつ無軌道なユーモア小説から始まったこのシリーズも、巻を重ねるごとに物語が生まれてきた。物語は、ストーリーとはちょっと異なるもので(と勝手に思っているのだが)、キャラクターが登場するだけで物語生み出されるものなのだ。あるキャラクターが言葉を発し、別のキャラクターがその言葉を受ける。ただそれだけで、物語は生まれる。そして物語とはすなわち”変化”である。そして時間を生み出す。関係性は常に変化してゆき留まることはなく、人間のパーソナリティーも次から次へ新しい刺激によって変化を促される。それが物語が生み出すものであって、つまり、”人間を描く”ことを捨て去らない限り、小説から物語は決して切り離せないものであるのだ。

このシリーズは、わりと物語を語ることに意識的であったと思うのだが、なぜそのように思ういかと言うと、時間の流れが非常にはっきりしているためである。一巻でニャル子がやってきて、それから一週間とかそれぐらいの短期間のうちにさまざまな事件が起こる。一巻からの時系列がはっきりと作品の中で明確になっている以上、この作品において”変化”は最初から内包されているということなのだ。

だが同時に、変化に対してなるべく距離を置こうとしていたように感じられるところもある。もともとこのシリーズは不条理かつ無軌道なユーモア小説として始まっている。およそユーモア小説は、まともなあらすじなどはなく、極端で奇を衒った展開などギャグ特有の時空間があって、そこには変化は排除されることが多く、この作品もそのひそみに倣っているように思える。しかし、作者の設定した不条理ギャグの壁が、この作品が最初から内包している変化とぶつかり合うことで物語に波が生まれており、それが作品に力となっているのだ。つまり、不条理なコントのようなやりとりも、時間の流れとともにその親密さや濃密さは変化し、親愛なるやりとりへ変化する。一巻と同じようなギャグを飛ばしていていても、その内実は大きく変わっていると言うことだ。

この巻はある意味において、動き続けていた関係性(≒変化であり物語)がある種の結実となっており、ある種の終わりを感じさせるものとなっている。変化とは始まりであり終わりでもある。何かが始まろうとする予感は、終わりの予感と同義である。ニャル子さんというシリーズは、不条理ギャグの壁と物語の力がぶつかり合い、物語が壁を突破しようとしているとも言える。果たして本当に突破しうるのか、突破することが正しいのかと言うところはたぶん別の話になると思うけど。

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