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2011.12.15

『キノの旅(15)』

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キノの旅(15)』(時雨沢恵一/電撃文庫)

キノの旅の感想を書くのも久しぶりだけど、今回書こうと思ったのには別にたいした意味はなくて、なんとなく気持ちが向いたと言ったところ。なので何を書くのかもあまり考えてないので、いつもにも増してふわふわした感想になる予感があるのだけど、いつもギスギスしているのもどうかと思うので別にいいだろう。

キノの旅シリーズには、独特の肌触りがあって、寓話的でありながらもどこか俗っぽいところに、不思議な印象を受けていた。特に初期のキノの旅は、はっきりと教育的と言うかメッセージ性が強いところがあって、そこが”俗”という印象があったのだろう。メッセージ性が強いのはかまわないのだけど、メッセージの見せ方がすごく直接的で、露骨、あるいは露悪的とさえ言えるところがあった。いま思えば作者の若さであったのだろうと思えるけど、若いだけあって結論が出せないような問題とかにも堂々と切り込んでいって、まあ見事に答えが出せないままにうやむやになっていたりするところもあったように思う。

リアルタイムで読んでいたときは、実は、そういうところはあんまり好きではなかった。メッセージの内容がどうこうではなく、自分は好きではなかったのは”露悪的”なところだった。それはいちいち挑発的で、あまりにも分かり易すぎた。つまり、読者の知性というものをこれっぽっちも信用していない書き方であって、「読者には文章を読む力なんてないんだから、これぐらい分かりやすくしないと駄目だ」、と作者が言っているような感じがしたのだった。まあ、当時も分かっていたけど、これは勝手な妄想であって、作者自身がどう思っているのなんてわからないけど、そんな感じがあった。

これはさっき書いた”教育的”というところと関係していて、つまり、昔の時雨沢先生は、読者を”教化”しようとしていたのだろう。作者自身が考え、問題意識を抱えている問題を、読者にも伝えようとしていた。それは小説を書く過程において、あらゆる作者がやっていることだと思うのだけど、時雨沢先生はかなり”伝えたい”と言う気持ちが強かったのかもしれない。だから、読者に自分の思考が理解出来るように、ものすごく噛み砕いた言葉を使っていたし、いちいち露悪的で挑発的で読者をバカにした態度をとっていたのだと思う(繰り返しますが、これはぼくの主観です)。

そういう作者の態度に腹を立てつつムキになって読んでいたんだけど、考えてみればこうして読んでいるのって、完全に作者の思惑に嵌っていたわけで、自分ってちょろかったんだな、なんてことをしみじみ思ったりもしたけど、まあそれはどうでもよくて、15巻まで延々と読み続けていたわけですが、なんか最近の時雨沢先生は挑発的な書き方をしなくなっているような感じがしてきた。

枯れた、という言い方をしてもいいかもしれないけど、どうも「伝えよう、伝えさせよう」ということにガツガツしなくなったと言うか、「伝わっても伝わらなくてもいいよ」というぐらいにスタンスが変化している、みたいな。きっと、言葉が伝わることに期待しなくなったんだろうね、ってのも主観だけど、まあ人間なんてものは自分自身に引き付けることでしか理解出来ない生き物だから堂々と主観で物を言いますが、ある程度歳を食うと、人に言葉を伝えるのが億劫になると言うか、何をやっても伝わらないと言うことが身に染みて分かってくるというところがある。どんなに言葉を尽くしても、自分の中にあるものが伝わらないと言うことが、どうしても経験してきてしまうのでそうなってしまう(他の人は知らない)。

もっともそれは”諦め”というものとは全然違うもので、つまり、人間の言葉と言うのはあまりにも不十分なツールでしかない、と言うことを認識することだ。どんなに言葉を操っても、本来的な人間の内面と言うのは言語化できないもので、もともと言語化できないものを言葉で伝えようとすることに無理がある。だから”言葉”というものに誠実に向き合うほどに、言葉の持つ無謬性はどんどん消えてしまう。個人的には、言葉なんてのは「伝わったら儲けもの」ぐらいなもので、むしろそれで良いのだと思う。言葉と言うのは、ただ言語だけで成立しているものではなくて、雰囲気とか仕草とか、言葉と言葉の”間”とか、そもそも”言葉を発さない”ことさえも含めて、言葉と言うのは生まれていくもので、そういうものを経て”伝わる”というのは生まれて来る。言葉は不可欠なツールだけど、唯一のツールではないってことだ。

最近のキノの旅は、言葉以外のところで色々と語ろうとしているようなところがあって、もっともそれは自分が自分の経験に基づいて感じているところなので、別の経験の持ち主にはきっと別な感じがあるだろう。そうして感じたものは、きっと時雨沢先生の意図しているところと、もしかしたら合っているかもしれない、実はぜんぜん違うかもしれないのだけど、それは問題ではない。なぜなら”伝える”ってのは実はそういうことだからだ。人間は自分の経験に引き付けなくては理解出来ない生き物なのだから。そこには誤解はあるかもしれないが、誤解を含めて”伝える”ということなのだ。そうすることで、キノの旅は”余裕”というかそういうものがあって、いろいろな可能性を持つようになっていると思う。無駄を許容していると言うか、伝え方に広がりが出てきたような感じ。そういうところが、とても良いと思うのだった。

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