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2011.11.30

『神様のメモ帳(8)』

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神様のメモ帳(8)』(杉井光/電撃文庫)

いつもの通り、愚かさや弱さに対して、非常に誠実な物語であった。それは悪くすると、愚かであるということや、弱さを抱えているということを称揚し、陶酔するナルシスティックな物語に堕する可能性を秘めているということでもある。事実、(どれがと言う話はここではしないが)いくつかの杉井作品には、そういう傾向を感じているものもあるのだが、それはむしろ、愚かさや弱さを扱う物語の困難さを表しているように思う。

神様のメモ帳シリーズは、その中ではかなり上手く行っている方だろう。確かに、愚かさを信念と言い換えたり、弱さをトラウマと言い換えることは簡単だし、それにも一定の真理はあるのだろうが、それだけでは”足りない”のであって、それはあくまでも一面でしかない、という事実(愚かさは罪であり、弱さもまたそうであるということ)をきちんと描く必要がある。

例えば、人々の愚かな思い込みが何かを成し遂げることもあれば、悲劇を巻き起こすこともある。弱さを抱えた人間がそれゆえに他者に慈しみを与えることがあれば、弱さゆえに人を害することもある。自分は、そうした描き方はとても重要なものだと思う。読者は物語に感情移入することによって、登場人物たちの弱さや愚かさに共感するのだが、それを作品の中で簡単にカタルシスを持って解決されないことで、読者に対して安易な癒しをもたらさないということなのだ。

簡単に今回の物語についても触れてみよう。前半は四代目の実家にまつわる話となっており、神様のメモ帳では珍しく痛快な物語である。四代目は、この物語の中ではもっとも強いというか、弱さを見せないキャラクターなので、必然的にそういうカラーになるのだろう。つまるところ、彼は強者であるのだが、強者とていつも強いわけではないし、強い者が正しいわけでもない。そうしたとき、弱者だって強者を助けることが出来るのだ、という意味で弱者の希望が描かれていると言える。だが、それでは弱さを称揚するだけでしかない。

それゆえに、杉井光は弱さゆえに人は助け合えるという側面を描いた後に、弱さゆえに人は傷つけるということを描くのだ。後半は、弱さゆえにある人間を決定的に傷つけた男の、その後の物語だ。彼は己の弱さに他者を巻き込み、そして決定的に損なった。そして、損なった後も、彼は己の弱さにのみ拘泥し、他者を省みることがない。これもまた、”弱い”という事の一側面であろう。弱いがゆえに、他者に手を差し伸べることが出来ない、という。

彼の弱さは、彼だけの問題ではなく、それ以外のすべての弱き者が共有するものであって、決して読者にとっても他人事ではないはずである(およそ自分に弱さを感じない人が、この物語を読む必要があるとは思えない、というのが個人的意見である)。さらに、結局のところ彼に救いがもたらされたのかはっきりしないまま物語は幕を閉じる。彼はこれからも弱さを抱え、罪を重ねていくのかもしれないのだが、その点には触れられない(触れることが出来ない)ままである。人間が人間に対して出来ることには、限界があるということであり、それが物語の力の限界をも同時に示している。

つまり、この物語は弱さを”克服”する物語には決してならない。弱さとは個々人が己の中で抱えていくべきであって、「物語の中で昇華されてはいけない」のだ。物語の中で昇華された瞬間、その弱さは嘘になってしまう。物語は、あくまでも実際の”弱さ”を一時的に保留するものであって、勝手に救ってしまってはいけない。実際の弱さは、読み手それぞれが解決するべき問題なのだから。その意味では、非常に優しくないともいえるし、同時に、この上なく優しい物語であると言うことも出来るだろう。

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