『僕は友達が少ない(7)』
『僕は友達が少ない(7)』(平坂読/MF文庫J)
この物語は進もうとする力と留まろうとする力の綱引きによって成立しているように思う。例えば、夜空は小鷹との親友という関係が明らかになったとき、その関係を変化させることが出来たはずだった。星奈は許嫁であるという事実にが明らかになったとき、別の関係を生み出すことが出来たはずだった。幸村はその秘密が明らかになったときが最大の変化のときのはずだった。マリアは馬鹿な子供ではなく傷ついた子供であって、違う在り方もあるはずだった。小鳩はいつかは兄の下を離れなくてはならない。それらは、すべて物語を先に進めるための力である。新しい物語が始まる、そういう力だった。
しかし、それらの力は、すべて、留まろうという力によって強引に停滞させられている。夜空は、自分と小鷹の関係は元親友であるとした。星奈は許嫁という関係をなかったことにした。幸村は自分がなにをしたのか無自覚だった。マリアは愚かすぎて自分が傷ついているということさえ気が付いていなかった。小鳩はいましばらく兄の下にとどまるのであろう。そのようにして、留める力は進もうとする力と戦い続けている。留まろうとする力とは、すなわち隣人部のメンバーたちがいまこのままの関係を続けて行きたいと思っているということだ。すなわち、彼ら全員が留まろうとする力を発しているのだ。
彼ら一人一人ならば、とどまる力は発揮されない。小鷹との関係が一対一のものであれば、それは自然んにあるがままに動いたことであろう。しかし、彼らは彼ら同士で結ばれてしまった。隣人部という関係は、彼女らと小鷹の関係を、一体多数のものではなく、共同体としての関係に変化させてしまったのだ。それは決断を恐れるということ。彼らが仲間たちと楽しく過ごしていた関係を壊すことへの、決断をへの恐れが、留まろうとする力を生み出しているのだった。
しかし、元来、物事とは進むことを運命づけられているものだ。川の流れがとどまることのないように、人々の関係も動きを止められるものではない。彼らの関係を今までにいくども動かしてきたように、今回も、新たなる進もうとする力の使者があらわれた。それはもちろん理科のことだ。小鷹と隣人部のメンバーが揺れ動きを経験している中で、今までその揺れ動きに関与しなかった彼女が、ついに介入を始めたのだった。彼女は、実のところ物語を先に進めようとする力の体現者である。隣人部に閉塞していくメンバーの中で、唯一外界とのチャンネルを持ち、小鷹との関係を進めることに積極的であった。それゆえに、隣人部を内部から壊すことが出来るのは、おそらく彼女をおいて他ならないであろう。
彼女は小鷹のことを責める。決断して欲しいと訴える。その決断は、彼女一人では決して出来ないことだからだ。関係の変化とは一人で行うものではなく、関係を結ぶ双方の意があって始めて生まれる。その決断を彼女は求めてきた。それは引いては、小鷹と関係を結ぶメンバー全員との関係を揺るがすこと意味することは自明である。それは、この物語が終わりに向かっていることを意味するのだ。それは正しい物語である。停滞するものなどこの世にはなく、痛みを伴わぬ決断もない。痛みを伴って成長することこそ、物語の正しい在り方なのだから。
だが、前言を翻すようだが、そこに自分は疑義を覚える。「物語的に正しい」とはどういうことなのか?物語的に正しければ、主人公達は傷ついてもいいというのだろうか。確かに物語は正しく美しいものである必要があるのだろう。だが、その物語に生きる人々は、「物語が終わったあとも生きていかなければならない」はずである。それを安易に「成長する方が正しい」からと言って美しくまとめてしまっていいものであろうか。僕の知る平坂読という作家は、そのような作家ではなかった。彼は「物語的な正しさ」に常に抗ってきた作家だった。ドラマティックな悲劇、試練と痛みに耐える甘美、犠牲に悲しむ酩酊。そうしたものに抗ってきた作家であった。
そこで自分はこのように妄想する。この物語は、「物語的正しさ」と「それに抗しようとする者たち」のものなのではないか、と。物語の中にいる登場人物達にとっては、「物語的正しさ」など、どうでもいいことだ。そんなもののために、自分たちの人生をドラマティックに盛り上げられるなど、迷惑千万である。彼らは、彼らなりのやり方で、人生を生きる権利がある。我らが彼らの人生を楽しめないからと言って、それを否定するのは傲慢じゃあないだろうか?我々が”たまたま”読者という次元の高い存在にいるからと言って、他者の人生を娯楽にすることに躊躇いを覚えないのは罪悪ではないだろうか?少なくとも自分の知る平坂読は、そのような奇妙な誠実さの持ち主であるように、自分は思っている。例え読者を裏切っても、作家には裏切れないものがある、というような。
志熊理科は、果たして物語的正しさによる大ボスなのか。あるいは彼女をも、彼らの日常は飲み込んでゆくのか。彼らの「日常」は物語的正しさに打ち勝てるのか。それはすぐにわかることであろう。
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