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2011.10.31

裏道

所用があって電車を使った帰りのこと。いつもの通りに帰ろうと歩き出したとたん、別の道が目に付いた。右に行けば商店街になり、いつもの帰り道。その反対側にある、山のふもとに向かって伸びる道だ。なぜか、気が惹かれるものがあり、なんとなく、そちらに足を向けた。道の脇には小さな川が走っている。川の周りには植物が植えられ、きちんと手入れがされていた。底に泥はたまっているものの、水そのものは澄んでおり、そのことにひどく心が動いた。あるいは山から水を引いているのかもしれなかった。川の流れを遡るようにして歩く。左側にはうっそりとした山と川がある。右側には住宅街となっており、おそらくはその向こう側には商店街があるはずなのだが、そちらの音は不思議と届かない。川の途中、網が張ってあった。覗いて見ると、小さな魚が何匹も泳いでいた。鯉のように思える。天然の水槽、あるいは池のように使っているのだろうか。魚たちは区切られた空間の中央に集まって泳いでいた。さらに歩くと小学校に出くわした。正門があり、校庭が広がっていた。こんなに大きな学校だったっけ。川はまだまだ続いている。川は広くなったり狭くなったりを繰り返し、曲がりくねった道に連なる。川にそって道が作られているんだ。ここまで来ると山も随分低くなってくる。山の斜面に強引に立てられた家がいくつかある。玄関から階段を30段くらい上がらないと家に入れない家があって、お年寄りには大変そうな家だ。途中、学校から帰宅した小学生とおぼしき一段が、10人くらいで遊んでいる。車止めの柵の周囲をぐるぐる回っている。どういう遊びなのかはわからなかった。子供たちの横をすり抜けると、ついに水の源流までついた。120cmぐらいの石垣の中から水が噴き出ていた。後ろを見ると長く続いていたが、途中で石垣が消えてしまった。ふと顔を上げると、いつもの帰り道に合流していた。

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2011.10.30

『“夕顔” ヒカルが地球にいたころ……(2)』

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“夕顔” ヒカルが地球にいたころ……(2) 』(野村美月/ファミ通文庫)

少女の美しさには、どこか儚い印象が付随する。それは、少女という形態が、あくまでも過渡期であることと無関係ではない。少女とは、子供が大人になる過程の、またたきのような瞬間のこと、らしい。僕はよくわからない。ただ、”過程”であることの苦しさと哀しさは、わかる。それは10代の頃の自分にも、付きまとっていたものだからだ。

だが、そうした苦しみも悲しみも、大人になれば消え去る。あるいは形を変える。大人になった自分は、かつてあったような苦しみや悲しみを感じることはない。それは心のどこかで感じていても、決して同じものではないのだ。かつてあった苦しみは、かつてあったことでしかない。その苦しみは、現在の自分とは地続きなものであるが、連続したものではなく、どこかで断絶がある。なにかがあった、しかし、なにかがあったか、忘れてしまった。そうした感覚だけがある。

この物語は、そうして消え去ってしまった少女の物語である。その物語の中で、是光はついに初めての恋をする。儚げで、雨の音の中に自分を漂わせ、いまにも消えてしまいそうな、そうした少女に恋をするのだ。だけど彼の恋は、それこそ泡沫の夢のようなものであった。なぜなら、彼が恋した少女は、あくまでも、”不幸の檻の中に囚われ、うちのめされていた儚さ”の少女だったからである。彼は、苦痛に囚われ、傷つき、苦しむ少女に恋をしたのだった。なぜなら、傷つき、苦しみ少女は”美しい”からである。傷ついているからこそ、彼は彼女を救いたいと思うのだ。

だが、傷ついた少女に恋をして、だからこそ彼女を救ってやりたいと思い、しかし、救った少女は彼が恋をした少女なのかどうか。その矛盾に、彼は苦しむ。救いたい、だけど、彼女には今のままにいて欲しい。それはエゴだ。だが、彼自身がもっともそのエゴを憎み、恐れるのだった。

結局、彼が少女を救ったことで、少女は笑顔を取り戻した。彼女は苦しみを乗り越え、己自身を乗り越えた。それは結果である。そして過程は忘れられる。すでに彼女は、自分が苦しんだことは、過去の出来事となっているのだ。そこには断絶がある。むろん、彼女が苦しんだことは事実だ。それが今の彼女に大きな影響を与えている。そこで得られたものは、彼女にとって大きな糧となっただろう。しかし、それは終わったことだ。彼女は、自分が苦しんでいた時のことを、思い出すことは出来るだろう。しかし、その時の自分になることは出来ない。それはすでに乗り越えたことなのだ。

あの時の少女はもういない。傷つき、苦しみ、それゆえに美しかった少女は。だが、それで良いのだ。傷ついた少女はなによりも美しい。だが、それは過程であるゆえのこと。いつかは救われなくてはならない。それを是光は望んだのだから。あの時の少女は、それこそ一晩の夢のように、儚く消える。それがもっとも幸いなことなのだ。

追記。それに、生まれ変わった少女に、是光がもう一度、恋をすることだって、あるのかもしれないのだからね。

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2011.10.28

本屋に行くために外に出た。一人暮らしをしていたときは、近所に大型書店があったので何を買うのも不自由しなかったのだが、今となっては地元の本屋に行くしかない。これは、今までが快適すぎたのであって、これが普通のことだ。とはいえ、一度味わった楽を忘れることは、なかなかに難しい。なるほどネット書店が流行るわけだよ。

家を出て、夏の香りがすっかり抜けた空気を感じる。数日前までは、涼しい夏という感じだったのが、いまでは暖かい秋という感じ。温度はそれほど変わらないのだが、印象がまったく違っている。ときどき吹き抜ける風に肌身に染みるようなところが心地良かった。この季節は、僕の一番好きな季節なのだった。

空を見上げると、雲ひとつない、それでいて白くぼやけたような青空がある。夏の均一な青さと異なり、不純物が多いような感じがする。そういうところもわりと好きだ。

本屋で本を買う。漫画の新刊などが出ていたので、予想外の出費をする。国民年金の支払いもあるので、どんどん金がなくなっていく。霞を食って生きていくというわけには、なかなか行かないものだなあ。

そんなことを思いながら、家に帰った。風がやっぱり気持ちよかった。

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2011.10.27

先日、と言うにはいささか前のことになるが、仕事を辞めて実家に戻ってきたのであった。実家と言っても、自分が一人暮らしを始めた時とは別の住所であるので、実家でありながら見知らぬ土地という不思議なことになっているが、都会人としては別に不思議でもなんでもない。ともあれ、最近は周辺を散歩しながら地理を調べるのが趣味となりつつある。地図を見るのが楽しい、というのは生まれて初めてのことかもしれない。

そろそろ親から食費を請求されそうな気配を感じる。なにか就職を探す振りぐらいはしておかないと、際限なく扱いが悪くなっていきそうだ。これがニートの肩身の狭さというものか。あるいはただの食べすぎなのかもしれない。

ブログで本の感想を書くのは面白いのだが、いささか抽象的なことを書きすぎた気がする。理屈を捏ね回すことばかり先行して、写生文をおろそかにしてしまった。小説的な文章を書こうとしたが、これがもうびっくりするぐらいに書けない。ひどい。ありえない。なので、もう少し、直接的かつ現実的な文章を書くように心掛けたい。

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2011.10.26

『パーフェクトフレンド』

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パーフェクトフレンド』(野崎まど/メディアワークス文庫)

野崎まどは、常に読者の予測を裏切ろうとする作家であり、その意味では、極めてひねくれ者な側面を持っているように思う。読者の予測を裏切るためならば、平然のジャンルの横断を行うところなどがそうなのだが、個人的に、このあたりの根性のひねくれ具合は、なかなかに好ましく思えるのだ。なぜなら、この姿勢を貫く限り同じ場所(手法)に留まることは出来ず、新しい道を常に探し続けなくてはならないからである。

何事もそうだが、人間は慣れる。一度は騙されたとしても、同じやり方で二度目は騙されにくい。従って、読者の予想を常に裏切ろうとするのであれば、常に新しい手法を取り込まなくてはならない。それは前回積み上げたものを利用できないということであり、常に最初から構築しなくてはならないということでもある。それはとても大変なことだと思うし、努力もセンスも必要なことだと思うのだ。

その試みが毎回上手くいっているとは、個人的には思えないのだが、それでも常に新しい事をやろうという意欲のようなものは感じられる。その姿勢は厳しいものだとは思うけれども、そうした姿勢の中からしか新しいものは生まれないとも思う。西尾維新も同じような、ただひたすらにひねくれた展開だけを追い求めて行った結果、なにやらすごいところまで行ったのだし(西尾維新は毀誉褒貶が激しい作家だが、ライトノベルやミステリの分野に与えた影響を無視することは難しいはず)。

今回の『パーフェクトフレンド』は、野崎まどらしい、ジャンルのクロスオーバーとなっている。友達というものが理解出来ない天才少女と、彼女にプライドをへし折られた秀才少女の出会いと友情の物語。あくまでもロジカルに理解しようとする天才少女に対して、それに悩みながらも答えを返そうとする秀才少女のやりとりがコミカルに描かれているのだが、しかし、そうした物語の基調の中で、超自然的なエブリデイマジックに物語が彩られていくのだ。それまで主人公的存在であった秀才少女は物語の舞台から降り、代わって天才少女の内面に深く潜ることになる。

このジャンルの切り替えによるショックを与えられるのはいつも通りなのだが、そこから”喪失”が”回復”するという物語に還元しているところがいささか異なる。そのため、すごく正統派な”行きて帰りし物語”となっており、ファンタジーとしての精度の高さを感じるのだった。そして最後に表われる事実が、”フィクションとしてのファンタジー”を”現実に再現する”という不可能を可能にせしめるピースとして結実するあたりに、この混乱した(むろん意図的なのだが)物語を、上手くまとめたな、と感心したのだった。

確かにやっていることは、さまざなまジャンルの物語をモザイク的に組み合わせているに過ぎない、と言えなくもないのだが、それぞれの個別の物語がリンクしてくる場合、モザイク模様がどのような絵を描くことになるのか、興味深くもある。おそらく、このやり方ではいつか苦しくなるかもしれないが、是非ともこの道を突き進んで欲しいと思う。

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2011.10.21

『六花の勇者』

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六花の勇者』(山形石雄/スーパーダッシュ文庫)

山形石雄は、ライトノベル作家としては、もっとも駆け引き系バトル漫画の素養を継承している作家だと考えている。駆け引き系バトル漫画とは、別にそういうジャンルがあるわけではなく、ぼくがたった今そう読んでみただけではあるが、正直、あまり上手い呼び方ではない。今後の課題にしたところだが、それはとりあえずどうでもいい。例を挙げれば『ジョジョの奇妙な冒険』や、近年では『HUNTER×HUNTER』などが、自分の考える駆け引き系のバトルマンガにあたる。

駆け引き系バトル漫画が通常のバトル漫画と異なるところは、能力の多様性が上げられる。駆け引き系において、主人公たちが持つ能力は、必ずしも他者から特別に抜きん出ているとは限らない。無論、主人公ゆえに何らかの強力な力であることも多いが、一方で制約や弱点があるなどして、全力を振るえる状況が出来ないということがあったり、また、能力には相性があって、ある能力には滅法強いが、別の能力には無力であったりする。そこには能力の絶対評価はなく、相対的にのみ評価されることになるのである。

山形石雄の描く物語は、前シリーズの『戦う司書』からして、完全に駆け引き系のバトルものであった。それぞれ強力な異能(魔法)を持った超人たちが、それぞれの能力を活かし、相手の弱点をつく。そこには能力の”強さ””弱さ”は絶対的な価値を持たない。ただ石油に変身するしか出来ない能力者が、一国を滅ぼす力を持った能力者たちに壊滅的な被害をもたらすことさえあるのだ。

今回の『六花の勇者』の話である。今回の物語も作者一流の想像力が発揮されていると言えよう。ただ、状況は限定的なものとなっているようだ。とある限定空間に囚われた主人公たちが、自分達の中にいる敵が誰なのかと疑心暗鬼となっていく。その中で裏切り、あるいは協力していく駆け引きは、まさに駆け引き系バトルの醍醐味と言える。

誰が敵で誰が味方なのかも分からず、誤解が誤解を呼び、よりによって仲間達から”裏切り者”と認識されてしまった主人公は、仲間たちからの苛烈な攻撃を潜り抜け、時に誠意を込めて説得し、時に詐術を用いて罠に嵌めていく。主人公は、超人的な魔法や武術を身につけた仲間たちに対して、唯一、特殊な能力も才能も持たない。極限の修練を修め、己の限界を極めてはいるものの、元来が凡人である彼には、勇者に相応しい超人である仲間達に及ぶものではない。勢い、彼の戦いは、相手の能力を見極め、細い糸の上を渡るがごとき綱渡りなものとなる。正面から戦っては勝ち目などなく、それゆえに、彼には詐術と、度胸と、なによりの精神力で立ち向かうことになる。圧倒的な強者に対して、意思の力で対峙していくところなど、少年漫画的想像力である。そこには、紛れもなく友情、努力、勝利があるのだ。

ただ少年漫画とそのまま小説にしたのではなく、それを”小説”として構築しなおしているところが、作者の非凡なところである。一つには、主人公のキャラクターが上げられる。彼は先ほども書いた通り、基本的には凡人である。しかし、同時に自らを「地上最強」とうそぶくことを止めないのだ。それだけならただの愚者ではあるのだが、むろん、彼が地上最強などではないことなど、誰よりも本人がわかっているのである。それではなぜ、彼は非現実な言葉を発し続けるのか。それは、かつての自分の無力さに絶望し、それによって大切なものを失った彼が、無力でいることを否定したからだ。それが彼の「地上最強」という言葉の根幹である。「地上最強」にならなければ、彼は”勝利”することは出来ない。「地上最強」でなければ、何も為せぬままに死ぬるだけ。彼は、自分から大切なものを奪ったすべてを戦い、勝利しなくてはならないのであり、そのためには「地上最強」でなければならない。彼は地上最強なのではなく、地上最強であらねばならないのだ。

それは子供の夢想である。現実を見ない愚か者の愚行である。しかし、彼は子供の夢想を現実することを選んだ。全身が砕け散るほどの絶望と、己すべてを砕くほどの修練を乗り越え、ただすべてに打ち勝つ存在となることを選んだ。それは現実に打ちのめされ、挫折の味を知りながらも、それでも天に手を届かせようとする絶望的な行為である。おそらく、主人公はいずれ破滅するであろう。それでも、子供の夢を諦めず、手を伸ばし続ける。

そこにジャンプ漫画的な想像力と、現実との葛藤の、描きがあるように思うのである。これが”小説”という形態で描かれる意義があるとすれば、おそらくそのようなところにあるのではないだろうか。

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2011.10.15

『カンピオーネ!(10) 槍の戦神』

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カンピオーネ!(10) 槍の戦神』(丈月城/スーパーダッシュ文庫)

ついにランスロットとの対決となる今回の話だけど、実質的に、ラスボスが我らの護堂さんになっている感じもある。彼はランスロットの策略に嵌り、黒王子アレクとの対決を余儀なくされるわけだが、いままでの良識的な側面(ただの優柔不断とも言う)が取っ払われ、純粋に欲望を追求するようになると、凄まじく大迷惑な護堂さんの本性が明らかになるのであった。

まあ、これは読者ならばある程度自明であったともいえる。基本的に、彼が決断が遅くなるのは、まだまだ”普通の生活”というものに未練があるからである。その時行うべき”正しい判断”は理解出来るのだが、その判断を行うためには色々なものを犠牲にしなくてはならない。それは例えば常識であったり、社会的評判(外面の類い)であったり、どちらかというと、男の子的なプライドが中心のようである。彼も、周囲の評価はどうであれ、男の子的プライドの持ち主であるのだ。

だが、そうしたプライドを取っ払われ、己の為すべきことに邁進することになる護堂さんは、まさに魔王と呼ばれるべき存在となる。別に彼自身の人格が変わったわけではない。ただ、自分で自分を縛る鎖を断ち切っただけである。しかし、それだけで、彼はとてつもなく迷惑な存在に成り代わるのであった。

迷いのない護堂さんは即断即決、己の欲望にストレート、いかなる障害も倫理も越えて手に入れようとする危険人物となる。欲しいものはすべて手に入れる強欲さ、強い敵と戦うことに無上の喜びを覚える。あれ?これってヴォバン侯爵と変わらなくね?と一瞬思うわけだが、確かに自分にそっくり、って侯爵をおっしゃってましたね。迷いがなく、良識も失うと、護堂はヴォバン侯爵になってしまうと。

まあ、でも、これが護堂さんの本質であるかと言われれば、まあそうなんだろうけど、しかし、それがすべてではない。というのは、人間は理性を持つ生物なのだから。人間の”本質”などというのは、人間を形作る上での一部でしかない。理性が常識、己を縛る鎖をすべてひっくるめて人間である。その意味では、本質のままに行動する覚醒護堂は、やはりイビツな存在なのであろう。

彼の成長していけば、おそらくは本質に近い人格になっていくとは思うが(人間、本質を偽り続けるのは恐ろしくストレスとなる。生涯、偽り続けられるものではない)、それでも、彼は己の本質から離れた常識とか良識といった、つまらない論理に囚われることを止めないのではないか、とも思う。己の本質、衝動を上手く付き合っていくことこそ、理性の生き物である”人間らしさ”であると思えるからだ。

それに、護堂さんが本質をむき出しにすると、世界がやばそうだしね。世界のために、ほどほどに優柔不断なところは忘れないで欲しいものである。

追記。その意味では、今回の敵役にあたる黒王子アレクは、まさに理性の権化と言える。己の本質を徹底的に糊塗し、見栄を張り、偽悪的に振舞う。まさに文明人の鑑といえよう。文明人たるもの、己の獣性と付き合う方法を洗練させていきたいものである。まあ、逆に言うと、器が小さいとも言う。アレクさん、マジで器がちっちぇーっす。そんなところが好ましいけどね。

追記2。ランスロットの”正体”は、うん、まあ、さすがだったね……。やりやがった、と思ったよ。

おしまい。

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2011.10.10

『魔弾の王と戦姫<ヴァナディース>(2)』

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魔弾の王と戦姫<ヴァナディース>(2)』(川口士/MF文庫J)

一巻のあたりからその布石は十分にあったが、どうやら主人公のティグルが七人の戦姫と出会い、一人一人を”落としていく”話になるようだ。そうして、彼が戦姫の主となり、戦乱の世を統一する・・・まで行くか分からないが、少なくとも、ティグルは自分の手の届く範囲は守ろうという人物なので、戦姫とのかかわりのなかで、彼の手が”どこまで広くまで届くようになるか”によって、物語の結末も変わってきそうに思える。まあ、十中八九、彼が全てを統べるとは思うが、それがどういう形になるのか。素直に権力の座につけるとも思えないが、どういう成長をするかにもよるかなあ。少なくとも、現時点では、良いリーダーになりそうな素質はあるが、あくまでも超人的な弓の使い手であり、個人戦闘力での活躍が多いし、あまり視野も広くなさそうだ(あくまでも自分の領地を守ろうと奔走している)。ただ、人を動かすことの難しさを知り、命を預かる恐ろしさを知りつつあるので(エレンやリムは、そのようにティグルを成長させようとしている)、順当に行けば、”王”になるのが自然であるように思える。まあ、その辺りは、そう思っておくだけにしておくか。今のところは。

さて、今回は凍漣の雪姫(ミーチェリア)リュミドラが登場する。もちろんティグルに”落とされる”わけだが、彼女の描き方が魅力的であるので違和感がない。プライドの高い高慢なお姫さま、と書くとかなりのテンプレではあるわけだが、彼女の高慢さはまぎれもなく、自他に厳しい克己心の表れでもあるのだ。高慢であることは間違いなく、それがきちんと”魅力的な高慢”さとして描かれている。これを、「普段は高慢だけど主人公にだけは弱い」などという、ツンデレ描写に逃げないというところが良い。誰に対しても高慢であり、主人公に対しても最後まで厳しく、それでいて彼女はそんな己を誇りに思っている。何事も、己の道をつらぬく人間はカッコイイものだが、そういう意味で、彼女は可愛いというより、カッコイイ人間なのである。いわゆる”落ちる”シーンも、きっぱりはっきりしている(いわゆる赤面してあわわ、みたいな初心な反応はしない)ところも凛々しい。この作品に登場するヒロインたちは、みんな”自立”した人間性があって、好ましいところだと思うのだった。

どうでもいい話。表紙のリュミドラ、ぜんぜん貧乳じゃねーぞ。いや、本文できっぱりと貧乳キャラ扱いされているんだから、きちんと反映してくださいよ。おしまい。

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2011.10.06

『奥ノ細道・オブ・ザ・デッド』

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奥ノ細道・オブ・ザ・デッド』(森晶麿/スマッシュ文庫)

奥の細道でゾンビ!・・・というただそれだけの一発ネタだけの作品というには、もう少し、この作品の志しは高い。ただ、奥の細道にゾンビを出してみました、というだけではなく、多種多様、手を変え品を代え、さまざまな、過剰なまでのネタをぶち込んだ、ごった煮的な作品なのである。松尾芭蕉が忍者!なんてのは今では別に珍しくもないが、川合曾良が男の娘!とか、とにかく過剰。ひたすら過剰である。だが、そこが良い。とにかく思いついたネタを残らずぶち込もうという気概を感じるのだ。

僕が一番感心したのは俳句の取り扱いである。奥の細道を題材にした以上、俳句の問題に触れないわけにはいかないのは当然であろう。果たして、この作品ではどのように対処したのか。まあネタとしては単純である。芭蕉の有名な俳句が、すべて屍山血河の地獄道から生まれた血塗られた俳句であったということになったのである。彼らの旅路は、血と骨と腐臭にまみれており、彼らの俳句はすべてその中から生まれたものなのだ。俳句はすべてそのままで、その生まれた意味のみを変質させる。その”解釈”もかなり強引だったり、あるいはそのまんまじゃねえか!と思わずツッコミを入れたくなるようなものもあり、この当たりの無意味なくだらなさは、実に素晴らしいものがある。これはやったものの勝ちであろう。

また、作品中における死生観の軽さには奇妙な明るさがあって、心地良い……とか書くと頭がおかしいと思われそうだが、不思議な達観があるように思うのだ。この作品の登場人物たちの多くは、ゾンビ(屍僕)に対して無用な恐れを抱かない。もちろん驚異であるし、自分の命が危険にさらされれば慌てもするが、それでも恐怖に怯えることは少ない。まるで、すぐ目の前で人が食われていようとも、それでも手元にある酒を楽しまないわけにはいかない、とも言わんばかり。死に対して無用に恐れず、それでいて生に貪欲。これは芭蕉と曾良の関係にも表われていて、というか、こいつらゾンビそっちのけで耽美な世界を構築しており、なるほど世界が滅びる時は既成の価値観も崩壊するときなのだな、みたいなことを考えないでもないが、まあそれはいい。ええと、まあ、とにかく登場人物たちがパワフルだなあ、と。元気に殺し殺されていて、けっこうなことですね。

物語としては、最後までネタを切らさず、喜劇すれすれ、ときに喜劇そのものになるバカバカしさのまま、突っ走る。それでいて、どこかもの悲しいのは、まさに奥の細道の持つ俳句の力ゆえか。形あるものは消え去り、すべては滅びる。滅びの顕現が屍僕であるとすれば、彼らが満ちる世はこの世の摂理であろうか。芭蕉自身は、あるいはそれも良いと思っている節があり、それを否定も肯定もしないところに、不思議と爽やかさがある。グロテスクでチープで安っぽいけれども、滅びをテーマにしているところは、ある意味において切なくもあり、僕はそういうのが好きだ。そういう奥床しさがあるのは、好ましく思う。

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2011.10.04

2011年9月に読んだ本

もう全然本が読めてないや。最大の原因は本の電子化作業のためである。電子化するときに再読することも多いからね。

 

9月の読書メーター
読んだ本の数:30冊
読んだページ数:7132ページ
ナイス数:71ナイス

常住戦陣!!ムシブギョー 3 (少年サンデーコミックス)常住戦陣!!ムシブギョー 3 (少年サンデーコミックス)
これ無涯がいなかったら普通にマブラヴオルタ的絶望だよな……。
読了日:09月26日 著者:福田 宏
千の魔剣と盾の乙女4 (一迅社文庫)千の魔剣と盾の乙女4 (一迅社文庫)
ロックに比肩するキャラがホルプというのは間違っているが正しい。ヒロイン…。
読了日:09月26日 著者:川口 士:作 アシオ:絵
征王の迷宮塔2 (一迅社文庫 せ 1-7)征王の迷宮塔2 (一迅社文庫 せ 1-7)
終りを見せるためだけの終りなので、特に言うこともない。
読了日:09月26日 著者:瀬尾 つかさ:作 基井 あゆむ:絵
調停少女サファイア2 (富士見ファンタジア文庫)調停少女サファイア2 (富士見ファンタジア文庫)
書くべきことは書いた……けど、書くべき以外のことが入ってないです……。
読了日:09月26日 著者:瀬尾 つかさ
ハチワンダイバー 22 (ヤングジャンプコミックス)ハチワンダイバー 22 (ヤングジャンプコミックス)
怪物と思えた谷生が、除々に”人間”に降りてきているようだ。
読了日:09月26日 著者:柴田 ヨクサル
ハチワンダイバー 21 (ヤングジャンプコミックス)ハチワンダイバー 21 (ヤングジャンプコミックス)
鈴木八段が強すぎて、作劇的にどのように扱うつもりか読みきれぬ……。
読了日:09月26日 著者:柴田 ヨクサル
護樹騎士団物語 幼年学校編Ⅳ 金の兎を奪還せよ (トクマノベルズ)護樹騎士団物語 幼年学校編Ⅳ 金の兎を奪還せよ (トクマノベルズ)
さて、この章は何年かかるのかなー?
読了日:09月21日 著者:水月郁見
魔王が家賃を払ってくれない (ガガガ文庫)魔王が家賃を払ってくれない (ガガガ文庫)
かなり手加減して書いているなあ、という印象。ラノベは狭いのかなー。
読了日:09月21日 著者:伊藤 ヒロ
とある飛空士への夜想曲 下 (ガガガ文庫)とある飛空士への夜想曲 下 (ガガガ文庫)
一人の英雄が伝説の剣を片手に戦場を征すると。作者は本当にロマンチストねえ。
読了日:09月21日 著者:犬村 小六
灼熱の小早川さん (ガガガ文庫)灼熱の小早川さん (ガガガ文庫)
”あの頃”の自分がたしかにそこに居た。
読了日:09月21日 著者:田中 ロミオ
絶対可憐チルドレン 27 (少年サンデーコミックス)絶対可憐チルドレン 27 (少年サンデーコミックス)
バレットはまだまだ動けるキャラポテンシャルがありそうだな…。
読了日:09月21日 著者:椎名 高志
神のみぞ知るセカイ 14 (少年サンデーコミックス)神のみぞ知るセカイ 14 (少年サンデーコミックス)
神にーさまの行く道は、まさにギャルゲー地獄道やで。
読了日:09月21日 著者:若木 民喜
ダンガンロンパ/ゼロ(上) (星海社FICTIONS)ダンガンロンパ/ゼロ(上) (星海社FICTIONS)
なんてメフィスト的な。ゲームをやってから読めばよかった。
読了日:09月21日 著者:小高 和剛,小松崎 類
恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-
上遠野浩平は常にジョジョのノベライズをしてるようなもの故、違和感ゼロ。
読了日:09月21日 著者:上遠野 浩平,荒木 飛呂彦
少女不十分 (講談社ノベルス)少女不十分 (講談社ノベルス)
「現実と虚構は別物」ときちんと作中にあるのだから、素直に受け取ってはいけません。
読了日:09月21日 著者:西尾 維新
ブルームド・イン・アクション (TSコミックス)ブルームド・イン・アクション (TSコミックス)
女装でTSで男の娘で……要するにいつも通りの塩野作品。最高だぜ。
読了日:09月15日 著者:塩野 干支郎次
魔法少女のくせになまいきだ。 (スマッシュ文庫)魔法少女のくせになまいきだ。 (スマッシュ文庫)
「天然の神様」という言葉に胸キュンした。
読了日:09月15日 著者:永井 寛志
ヘヴィーオブジェクト電子数学の財宝 (電撃文庫 か 12-29)ヘヴィーオブジェクト電子数学の財宝 (電撃文庫 か 12-29)
徹頭徹尾、B級映画に徹している。凄いんだけど、褒めていいの?
読了日:09月14日 著者:鎌池 和馬
神様のメモ帳〈8〉 (電撃文庫)神様のメモ帳〈8〉 (電撃文庫)
意味のない愚かな行為も、未来につながる可能性はあるはずだよね。
読了日:09月14日 著者:杉井 光
アトリウムの恋人 2 (電撃文庫 と 8-12)アトリウムの恋人 2 (電撃文庫 と 8-12)
主人公の”頭の悪さ”の描写が上手い。頭が良いのに賢くないのね。
読了日:09月14日 著者:土橋 真二郎
烙印の紋章 9 (電撃文庫 す 3-23)烙印の紋章 9 (電撃文庫 す 3-23)
背負うものが多くなるほど、孤独になり、孤高にならざるを得ない。
読了日:09月14日 著者:杉原 智則
俺の妹がこんなに可愛いわけがない 9 (電撃文庫 ふ 8-14)俺の妹がこんなに可愛いわけがない 9 (電撃文庫 ふ 8-14)
本当に気持ち悪い兄妹だな…っ!でも良かったね。
読了日:09月14日 著者:伏見 つかさ
仮面のメイドガイ 14 (ドラゴンコミックスエイジ あ 1-1-14)仮面のメイドガイ 14 (ドラゴンコミックスエイジ あ 1-1-14)
重要なことが明かされたようで、本当に重要なことがうやむやにされてるぞ。
読了日:09月14日 著者:赤衣 丸歩郎
トリアージX 3 (ドラゴンコミックスエイジ さ 1-2-3)トリアージX 3 (ドラゴンコミックスエイジ さ 1-2-3)
おっぱいがいっぱいや!(最低の感想)
読了日:09月14日 著者:佐藤 ショウジ
ハルシオン・ランチ(2) <完> (アフタヌーンKC)ハルシオン・ランチ(2) <完> (アフタヌーンKC)
なげやりで適当に見えて緻密で真剣な話なんですよね。
読了日:09月14日 著者:沙村 広明
機巧童子ULTIMO 7 (ジャンプコミックス)機巧童子ULTIMO 7 (ジャンプコミックス)
展開が速いのか遅いのかが分からなくなってきたぞ……。
読了日:09月14日 著者:武井 宏之
翼の帰る処 3 ―歌われぬ約束― (下) (幻狼ファンタジアノベルス)翼の帰る処 3 ―歌われぬ約束― (下) (幻狼ファンタジアノベルス)
ヤエト視点のため、ヤエトのいない所の重大事は後で知らされるだけなのが偉い。
読了日:09月02日 著者:妹尾 ゆふ子
それでも町は廻っている 9 (ヤングキングコミックス)それでも町は廻っている 9 (ヤングキングコミックス)
目的ははっきりしているのにいつの間にか脇道に逸れてしまう理不尽さ。
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弱さを攻撃に変えた人間は恐ろしいが、脆くもあるな。
読了日:09月02日 著者:五代 ゆう
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2011年9月の読書メーターまとめ詳細
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2011.10.03

『あなたが泣くまで踏むのをやめない!』

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あなたが泣くまで踏むのをやめない!』(御影瑛路/電撃文庫)

サスペンスフルで乾いた物語を書いていた御影瑛路が、毒舌幼女に踏まれる物語を書いたとのことで、当初は(自分の)正気を疑ったものだが、しかし、中身を一読して一言言いたいことがあるとすれば、「楽しそうでなによりだ」ということだ。

何よりも、作者が本当に楽しそうに書いているのがよい。パツ金ロリ美幼女に罵られたり踏まれたりワガママを言われる描写に対する熱意は通り一遍のものではなく、作者がきちんと自分の書きたいことを書いているということが感じられる。例え今までの作者の路線が好きな人であったとしても、決して手抜きや流行に乗っただけの出来であるとは考えられないであろう。

ちなみに自分はというと、まあ、パツ金ロリ美幼女に罵られるのなんて大好きな人間なので、なんの問題もなかった。ここで一つ誤解しないで欲しいのだが、別に罵られるのが好きなわけではない。あくまでも、パツ金ロリ美幼女に罵られるのが好きなだけなのである。それがなぜかと言うと、パツ金ロリ美幼女、というか、子供とは守られるべき存在だからだ。

子供とは、大人からの攻撃に抵抗することは出来ない。一方的に傷つけられるだけの存在である。それゆえに、子供は大人に対して”可愛く”振舞う。可愛さことが、大人に対して抵抗する唯一の方法だからだ。可愛くあることによって、唯一、子供は己の身を守ることが出来る。

アリスが、家庭の中で、そのように振舞ったように。

彼女が”可愛い”としたら、それは己の身を守るための殻なのである。彼女の家庭は、両親は、決して悪意を持ってではなく、それでも彼女をどうしようもなく傷つけた。そして、今でもなお、傷つけ続けている。繰り返すが、彼らは決して悪意を持っていない。善意と良心で行動をしている。だが、決定的に”想像力”が足りなかった。子供とは、それほどまでに傷つきやすく、脆いものだということを。彼女はなんのために、”可愛く”あるのかを、彼らは気がつかなかった。

彼女の”可愛さ”は、殻であると同時に、助けを求める声でもあったというのに。

それゆえに、彼女の罵る声というのは、彼女の本当の声でもあるのだ。”可愛さ”という武器である殻から離れた、彼女本来の声。それが彼女の罵りであり、わがままであり、踏みつける行為である。”可愛さ”を武器にしていないということは、彼女は攻撃されていないということ。傷つけられていないということ。守られているということ。だからこそ、彼女の、本来の声は好ましいのだ。

それゆえに、主人公が、彼女に”可愛さ”を取り戻させてしまったことは、主人公が彼女を傷つけたことを意味する。それは、彼が犯した誤りであり、それゆえに、彼が、彼女の両親と”戦う”理由には、彼女の”可愛らしさ”を打ち砕くためとなる。彼は、彼女が憎たらしく、生意気で、傍若無人なありさまを取り戻すために戦うのだ。

なぜなら”可愛くない”彼女こそ、真の意味で尊いものだと、彼は知ってしまったからなのだ。

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