『神様のメモ帳(7)』
『神様のメモ帳(7)』(杉井光/電撃文庫)
愚かであるということは、おそらく、頑なであるということに通じる。そして、頑なであるということは、一途である、ということでもあるのだ。今回の物語は、どこまでも愚かな男たちが、あらゆる意味で愚かしさを見せる物語と言える。だが、その愚かさは、大きな覚悟を持った愚かさであり、愚かであることを引き受けた男たちであるとも、言えるのかもしれない。
まあ、良く考えてみれば、神様のメモ帳に登場する男たちは、基本的に、上記の意味で愚かではある。己のこだわりの中で、多くのものを取りこぼし、失ってしまう。それでもなお、自分にとって譲れないものを持ち、それを貫くために、愚かさを抱えているのだった。だが、今回の”愚か”であることは、今までと、やや趣きを異にする。今までは、彼らの愚かさは、それでもなお、どこかに甘く、センチメンタルの香りがあった。愚かである自分に、悪く言えば、酔いしれているところがあった。だが、今回の”愚か”は、紛れもない愚かさである。”罪”と言い換えても良い。罪のある、”愚かしさ”なのである。
一人の男が、すべてを捨てて逃げ出した。それは罪であったろう、それでも彼は、己の中に大切なものを持ち、それを大切に抱えて生きていた。だが、彼は、それを失おうとしていた。それゆえに、彼は、己のすべてを捨てて、誰よりも愚かな選択をした。それだけが、彼の大切なものを守る方法だったから。
一人の青年は、己の罪に向き合わなくてはならなかった。それは彼の愚かさから発したものだった。かれはそれまで、自分の愚かさを誇りに思っていた。愚かであることが、彼の自信の源となっていた。だが、それは幻想にすぎなかった。彼の愚かさは、一面においては”罪”でしかなかった。彼はそれを知ってしまった。
愚かである、ということは罪である。だが、罪を犯さない人間などいるだろうか。愚かではない人間などいるのだろうか。愚かとは、一途であると言うことでもある。だが、一途であるということは、正しいことなのだろうか、称揚されることなのだろうか。それらはすべて一面である。愚かさは、一方では不器用な正しさであり、一途な想いであり、ひねくれたプライドでもあった。もう一方では、人を傷つけるものであり、大切なものを打ち捨てることでもあった。
それらを、一面のみを語ることは不可能であろう。良いところも悪いところもあった。愚かしさゆえに、彼らはそれを為さざるを得ず、そしてその報いを受けた。その報いが、正しいものだったのかどうか、それさえも、多くの側面がある。しかし、それは償うことも、取り戻すことも出来ないものである。すべてを背負って、償うしかない。それが、愚かであることを、受け入れるということでもある。
だがそれは、”賢い”ことよりも、はるかに誠実な生き方であったことであろう、と思うのである。
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