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2011.08.31

『天使の歩廊―ある建築家をめぐる物語』

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天使の歩廊―ある建築家をめぐる物語 』(中村弦/新潮文庫)

この物語は、ある建築家をめぐる物語である。ただし、建築家はあらゆる物事の中心に位置してはいるものの、建築家自身はほとんど語ることはない。多くは、建築家の周囲にいた人々が、彼について語るのみだ。彼はどのような人間か、あるいは彼の作った建物について、あるいは彼の過去に、あるいは約束について語る。語り手は、彼を知る人もいるし、あるいは知らない人もいる。そもそも、本人に会ったことのない人さえもいる。それでも、語られているのは、彼、笠井泉二の物語なのだった。

彼の存在は謎めいている。果たして彼は、何を思い、何を意図して、家を建てているのかを知るものはいない。ただ、彼の残す、ひたすらに妖異に満ちた、容易ならざる建造物を見て、きっと彼には神か悪魔にでも取り付かれているに違いない、と噂をするのだ。

彼の作る建物は、一つの共通点がある。それは、依頼主の”本当の望み”が反映されているということ。”本当の望み”。それは依頼されたことと同一、ではない。依頼者が心の奥で望んでいたことを、本人も意識せざることを、笠井泉二は汲み取ってしまう。そして、彼は、その”本当の望み”を、かなえる(かなえてしまう)力があるのだった。土台のところ、人間が本当に望むことなど、かなえることなど出来るはずがない。なぜなら、想像をすることは、現実に囚われない唯一の手段だからだ。想像の中でのみ、人は時間と空間の制約をなしにして、夢を紡ぐことが出来るからだ。

しかし、笠井泉二は、それをかなえる。すなわち、ある老婦人には、「亡き夫と共に暮らせる家」を。あるいは、偏屈な推理作家には「永遠に興味が褪せない家」を。彼は創り出せるのだった。だが、”本当の願い”とは、あらゆる意味で夢想の世界である。夢幻の世界なのである。彼の行うことは、夢幻をこの世に降ろしてしまったことに等しい。彼の依頼者は現世にありながらにして、夢に惑うことになるのだ。

しかし、それ自体は”さして重要なことではない”。なぜなら、この物語は、夢幻を作り出す建築家である、笠井泉二にまつわる幾つかのエピソードであるからだ。彼のつくりし夢幻は、人を惑わし、時に破滅させるが、それは本題ではない。より強く描かれるのは、彼の幼少時代、代えがたい青春、儚い喪失など。それらのエピソードは、どこまでも人間的であり、同時に、拭いがたいほどに神秘が垣間見える。大いなる存在に祝福されているかのように、彼の周囲には、神秘が満ちている。そして、それに対する苦悩もまた、彼を語る人々の口からは、あるように思えるのだった。彼は、神秘に彩られながらも、あくまでも人間であろうとしたし、そして、それに失敗することになったのだった。彼が、限りない喪失を味わったことで、彼は、人間ではなくなった。実際に何が起こったのか、それを知るものは本人以外にはいない。ただ、我々は、それを伝え聞くだけである。

彼は、まぎれもなく、人でないものからの寵愛を受けた、特別な存在。だが、彼は、その寵愛により、すべてを失った。そして、彼は、それ以降、”本当の望み”を叶え続けている。彼自身が抱える”本当の望み”を叶えることの、ないままに。彼の神懸かったほどの建築の才能は、祝福であり限りなく呪いに近いものであったのだろう。彼の生み出したものが、果たして祝福に満ちたものなのか、呪いで満ちたものなのか、それを判断することは、もはや本人たちにも、不可能に違いない。

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