『デート・ア・ライブ 十香デッドエンド』―セカイ系に対するカウンターとしてのラブコメ―
『デート・ア・ライブ 十香デッドエンド』(橘公司/富士見ファンタジア文庫)
平凡な少年が人類の敵たる少女と出会う――なんて書くと、典型的な”君と僕”の物語、すなわちセカイ系のようだ。しかし、そこはカルマシリーズを書いた橘先生、確かにセカイ系の設定をなぞっているものの、それほど単純な(あるいは素直な)ものではない。平凡な日常を無自覚に生きていた少年は、その日常を破壊する少女に心を奪われ、人類の敵たる少女の味方となろうとするのだが、しかし、その少年に対して人類側の指揮官はこういう、「人類の敵である少女を守りたいのならば、デートをして惚れさせてしまえばいいじゃない」、と。そうして、少年は人類の敵たる少女を”デレ”させるために、好感度上げに奔走することになるのだった。つまり、この物語は、セカイ系と見せかけた”ラブコメ”である。
とはいえ、完全なラブコメかというと、そうともいえない。なにしろ、物語の設定およびストーリーの基本線は、完全にセカイ系なのだ。ヒロインは、存在するだけで人類を虐殺する人類の敵であり、彼女の生存を望むことは人類に害為すことと同義である。従って、彼女に一目惚れ(?)をしてしまった主人公、五河士道が、彼女の味方になりたいと望んだ場合、それは人類に対する裏切り行為に他ならない。世界に味方して少女を殺すか、あるいは少女の味方をして世界を滅ぼすか。設定のみを見る限り、主人公に与えられた選択肢はこの二つ。恋愛感情と世界の命運が直結しているという意味で、セカイ系以外のなにものでもないと言えるだろう。
一方で、最初に書いた通り、この作品はラブコメ、それも既存のギャルゲーを強く意識したものとなっている。士道が人類の敵たる少女(精霊)にアプローチをかける過程は、いわゆるセカイ系の文脈に沿った悲愴なものではまったくなく、明るく楽しいラブコメの文脈に変換される。この文脈の強引な変換を行ったのは、士道の妹にして人類側の指揮官の一人、琴里であり、彼女(あるいはその協力者)は物語の”変質”を意識的に行っているふしがあるのが面白い。つまり、”悲劇的な物語”を”明るく能天気な物語”へ置き換えることが、彼女らの目的なのであろう。おそらく、あえて”ギャルゲー的物語”を持ち込んだことにも意味があるのかもしれない。
そしてまた、もう一方においては、物語を”セカイ系的な物語”へ戻そうとする引力もまた存在している。精霊の少女が戦っていた特殊部隊の人たちは、少女を異物として認識し、悲劇としての物語を紡がんとするのだ。特殊部隊の行動は、実際、後一歩で、物語を悲劇そのものと化さしめる直前まで追い込んだことからも、その物語的な役割が理解出来るだろう。更に言えば、特殊部隊を指示を行っている勢力こそが、琴里の勢力の”敵”であると想像するのもたやすいことだ。つまり、この物語を俯瞰してみると、士道と精霊の少女を中心として、二つの勢力――セカイ系勢力とラブコメ勢力――が綱引きを行っているのだ。
それぞれの組織がいかなる意図があるのか、ということについては分からない点も多いので言及はしないが、セカイ系の物語に対して、ラブコメ(ギャルゲー)をぶつけようとする、琴里の考えはなかなか面白い。というのは、ラブコメというのは、”関係性の物語”だからである。ある二人が出会って関係が生まれ、時間とともに関係が変化していく。通常の恋愛物語と違い、二人だけの関係に留まらず、さらに大きな人間関係の中に放り込まれ、さらに関係が複雑になっていく。セカイ系の物語が、君と僕の言葉に代表されるように、二人の関係に収束していくことに比較すると、ラブコメは拡散の物語であるとも言えるだろう。その意味ではラブコメとセカイ系は、対立する概念なのである。
このように書くと、セカイ系でも、学園ラブコメっぽく描かれることがあったではないか、という意見も出てくるだろう。今となってはセカイ系の代表作ともいえる『イリヤの空、UFOの夏』においても、奇矯なキャラクターが織り成す報復絶頂の物語は確かにあった。だが、果たしてそれらの作品では「最後までラブコメのまま」であっただろうか?そうではなかった、とあえて断言してしまう。最後までラブコメ的な日常が継続したセカイ系は、おそらく、存在しないはずだ(ラブコメ的日常に”回帰”することはあるかもしれない)。セカイ系がセカイ系である理由の一つとして、そうしたラブコメ的日常は”必ず崩壊する”ということである。というか、ラブコメ的日常が継続したとき、それはセカイ系ではなくただのラブコメとなる。SFとラブコメは共存しうるし、SFとセカイ系はわりと近縁関係にあるが、ラブコメとセカイ系は同じ天を抱けないのだ。
この作品に登場する二つの勢力の存在は、セカイ系勢力とラブコメ勢力の闘争である、とも捉えられる。世界(セカイ)が要請する悲劇としての物語を、ラブコメによって能天気でしょうもないグダグダな日常に書き換えようとしているのが、琴里側の立場なのだろう。今回は、どうやら琴里側が勝利を収めたように思えるが、おそらく闘争はまだまだ続いていく。セカイ系には終焉があるが、ラブコメ的日常には終わりは無いということを考慮すれば、セカイ系の終焉を迎えないようにラブコメ的日常を継続させ、思春期を乗り越える(社会に出る)ことが、おそらく琴里側勢力の勝利条件となるのであろう。敵勢力の条件はその逆となるわけだ。
このように、セカイ系とラブコメの概念を、作中でメタ的に対立させていく作者のやり方は非常に面白く、興味深く感じる。それはある種の概念闘争であるのだが、その闘争の結果が、主人公達がラブでコメっているドタバタでしか現れてこないあたりも良い。おそらく、セカイ系もラブコメも、思春期という得体の知れぬものの別側面に過ぎないということでもあるのだろう。悲愴な決意で悲愴な体験をするのも、お気楽で楽しい日常を送るのも、どちらもありうるのが現実。どちらかしかない、ということの方が稀だ。その意味では、この物語はごく平凡な物語であるように思えるのだが、そこが、面白いところだと思うのだ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント