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2011.06.24

『九つの、物語』

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九つの、物語』(橋本紡/集英社文庫)

いないはずの兄が、帰って来た。いないはずの兄と、ゆきなは、穏やかで、大切な日常を過ごす。大切な日常、それは、本を読んで、美味しいものを食べて、大切な人と一緒に過ごすこと。そこには、際立った何かがあるわけではなく、誰もが当たり前に享受している、平凡なものだ。しかし、その平凡なものは、実にかけがえのないものであった。ゆきなは、絶対に取り戻せないはずの”それ”を、なんの前触れもなく取り戻してしまった。不思議と言えば不思議な、兄の飄々とした雰囲気からは、それが当たり前のような印象を受けながらも、兄との日常を過ごしてゆく。それが、かけがえのないものであることを知りながら。

ゆきなは、いまのこの瞬間の出来事が、ありえないことだと言うことを、よくわかっている。だが、兄のあまりの存在の確かさゆえに、そして、兄があまりにも自然にいてくれることに、ひどく在り難さを感じてもいる。それほどに、ゆきなにとって、”いまこのとき”に、兄がそばにいてくれることに、意味があったのだった。

だが、彼、ゆきなの兄が、ゆきなに対して、なにかを直接的に助けてくれるということは、ない。彼は彼で、ありえない存在としての自分を受け入れて、それなりに日々を満喫しているのだ。女の子に優しく、甘い言葉をささやきながら、家では一人で静かに本を読んでいるような彼は、とても穏やかで、その存在のあやふやさに比べて、地に足がついている。彼は、己の実存に迷う前に、本を読んで、妹と会話し、自分で食事を作って、それを妹に食べさせる。ただそれだけで、人生に満足してしまうような、そんな男なのである。

ゆきなが兄を必要とした理由。そして、兄がゆきなの前に現れた理由。それは、物語の中で、すぐには明瞭に語られることはない。ただ、ゆきなの日常の中から、”不安”という形で湧き上がってくるのだ。それは大学で授業を受けているとき。あるいは恋人とともに歩くとき。あるいは兄と似たクラスメイトと語り合ったとき。そんななにげない出来事から、少しずつ不安は積みあがってゆく。ゆきなが感じる不安を、兄は、一つ一つ、ゆっくりと解きほぐしてゆく。なにげない、日常の動作の中で。本を読むことで。食事を一緒にすることで。何かを直接に与えるのではなく、ただ、共に並んでいるだけで、そこには、相手に何かを与えるなにかがあるのだと。そのような事を、兄は自然に行うことが出来るのだ。

そのように与えるものは、明確な救いではない。ゆきなを、たちまちのうちに救い上げてしまうような類いのものではない。ただ、彼女に伝えるだけだ。お前は一人ではないのだ、と。お前の居場所はここにあるのだ、と。それは言葉や行動で伝わるものではなく、共有する場のようなものが、それを与えるだけなのだった。だから兄は、ただひたすらに、その”場”に居続けるのだ。

生み出された”場”は、必ずしも、生み出した”者”が居る必要はない。”場”とは、それだけで意味を持つものだから。誰かが創り出した”場”は、その”場”のことを覚えている者がいる限り、それからも続いていくだろう。兄が、妹と、そしてそのかかわりのある人たちと創り出したのは、そのためだった。自分がいなくなったあとも、遺せるもの。何一つ、形のあるものは残せない自分が、妹に与えられるもの。兄は、さいごまで、妹のことを気に掛けていた。己の代わりに妹を守るもの。己がいなくても妹の帰る場所を。それを、残したのだった。

”場”は、場所や人に依存するものではない。場所や人によって成り立つが、特定の”それ”は、必ずしも必要ではない。それは、さまざまな場所で、さまざまな人の中で、共有されるものである。そして、共有をもたらしたトリガーが、かの兄君であった。彼が声をかけ、一緒に食事をして、物語を紡ぎ、そうして創り上げたもの。それが、兄の残したものであった。

そして、それだけが、彼女を真の意味で救ったのだった。

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