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2011.05.21

『メグとセロンVI 第四上級学校な日』

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メグとセロンVI 第四上級学校な日』(時雨沢恵一/電撃文庫)

時雨沢作品の面白いところは、作品に対する、冷徹と言っても過言ではない、突き放した距離感にある。しかし、突き放した、と形容すると違和感を覚える人もいるかもしれない。メグとセロンの物語は、とても優しく、ほのぼのとした物語ではないか、そのように言う人もいるだろう。だが、優しく、ほのぼのとした物語を描くことと、作品に対して冷徹な距離感を保つことは、必ずしも相反するものではないのだ。

作者の語り口は、非常に平易であり、淡々と、穏やかでさえある。しかし、その穏やかさは、作品に対してどこまでもフラットである。作者自身が物語そのものに対してどのような立ち位置にあるのか、まったく分からないのだ。登場人物たちが喜びを享受していようと、あるいは悲しみにくれていようとも、作者は常に穏やかに、その姿を見つめているだけのように思える。

それは、作者が登場人物たちに対して、不幸になることを望んでいるわけではもちろん無い。同時に、常にハッピーエンドを望んでいるわけでもない。(あくまでも主観だが)正確には、「どちらでもいい」と思っているようだ。だが、無関心であるわけでもない。彼らの喜びがあれば、それはもちろん喜ばしいことだし、彼らの悲しみには、とても哀しいことだ。”しかし”、その上で、喜びも悲しみも、すべては人の営みであり、当たり前にあるものとでも言うような、突き放した感覚が、あるのだ。

喜びも悲しみも、すべてが人間の生そのものであり、すべてを受け入れる。それが、自分が時雨沢作品に共通して感じる”フラットな視線”である。それゆえに、作者の描く物語は、どんなに悲惨な出来事が起ったとしても、どこか穏やかな印象を受ける。それは、いかなる悲惨な出来事であったとしても、それは決して驚くべき、異常な出来事ではなく、当たり前の出来事だからである。そして、いかなるめでたい出来事であったとしても、同じなのだ。どちらも、決して驚くべきことではなく、そして、どちらも同様に世界には行っているのである。

この語り口は、無謬の幸福を肯定しないという意味では、非常に冷酷である。ハッピーエンドの裏にも悲惨さは必ずあるものだからだ。そして、無限の不幸も肯定しないという意味では、どこまでも優しい。この世の悲惨さの影には、必ず人間の優しさもあるはずだからだ。このように、希望と絶望、それぞれを別々に語るのではなく、希望と絶望は表裏一体であることを、穏やかに受け入れている語り口には、不思議な切なさとはかなさがあるのだ。

作者の、残酷さも優しさも内包したそのような語り口を、自分はとても好ましいものと、思うのだ。

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