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2011.04.12

『機械の仮病』

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機械の仮病』(秋田禎信/文藝春秋)

機械化病と言う人間の体が機械に置き換わっていく奇病が蔓延した現代日本において、人々はどのように日々を過ごしていくのかを描いている。この機械化病の面白いところは、内臓などが機械になってしまうものの、それ以外は何一つ被害がないというところです。たとえ胃が機械化したとしても、人間には何一つ問題は起らない。むしろ以前よりも健康になってしまうぐらい。では、人間にはなんの影響もないのではないか?体が機械になる以外になにも損はないのではないか?合理的に考えるのならばそうとしか考えられませんが、しかし、人間は合理にて動く生き物ではないのです。

例えるならば、脳が機械化したとしたらどうか。脳がすべて電子頭脳に置き換わっていたとしたら、性格もなにも変わっていないとしても、その人は同一人物と言えるでしょうか?何もかも機械化前と同じように向き合うことが出来るでしょうか?これまた合理的に考えるのならば、そもそも人間の脳でさえどのように機能しているのか脳科学者でもなければわからないのだから、一般人が気にするようなことではないはずなのだけど、しかし、その人が人間だと認識するのは難しくなるかもしれません。

人間とは、合理的ではありえません。むしろ不条理なまで”同一性”と言うものに拘る生き物だと言えるでしょう。内臓の一つが機械になったことで、相手は果たして純粋な人間だと思えるのでしょうか。これは障害者に対する考え方の延長線上にあります。姿かたちが異なる相手に対する隔意。合理からは程遠い感情。どこまでが人間(=生身)であり、どこからがそうではない(=機械)なのか。その区分は決まったルールがあるわけではなく、人間が10人いれば10人が違う捉え方があるでしょう。5体満足な人と、義手を使う人の間には、これまた違う認識があるでしょう。脳が機械化した人は、それでも自分は人間であると考えるかもしれません。しかし、彼以外に、彼を人間であると捉える人々はどれくらいいるのでしょうか。

つまり、機械化病と言う病は、人々の、”人間とは何か?”と言う認識を表面化させてしますのです。機械化病のある社会において、人々は常に、その疑問を突きつけられることになります。果たして目の前にいる人は、人間か?機械か?あるいは自分は人間か?機械なのか?機械だとしたらそれまで人間として生きてきた歴史はなんだったのか?機械だとしたらそれまで積み上げてきた関係はなんだったのか?機械化病は、容赦なく、無自覚であった自分の偏狭さ、傲慢さ、愚かさを”人間”に突きつけていく。これは、とても恐ろしいことだと思いますが、同時に、とても救いのあることのように、自分には思えます。

人間は、機械化病を前にして、ようやく自分の愚かさに気がつくことが出来るのだから。愚かであることに対して、愚かであると突きつけることが出来るのだから。その意味では、機械化病は、人間の愚かさ(≒偏見、傲慢)によって踏みつけられてきた多くの弱きもの(すなわち、人間として欠けたものたち)からの、復讐でもあるように思えるのです。欠けたゆえに隔離され、取り除かれてきたものたちから、その傲慢さを糾弾される人間たち。機械化しようとしまいと、人間には変わりは無いという事を受け入れられたとき、社会はきっと新しい形になることでしょう。

その意味で、この作品は実に正しくSFであるように思います。

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