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2011.04.02

『折れた竜骨』

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折れた竜骨』(米澤穂信/東京創元社)

米澤先生がファンタジー+ミステリを書くということで、最初はどんなものが来るのかと言うことで、実は読む前はひやひやしていたんですが、これはまったく米澤先生が書く作品以外のなにものではないということを理解しました。まず米澤先生の想像力と言うのは、基本的に論理的であり、かつ秩序立てているものだという先入観があったもので、それがファンタジー的な想像力とどのように結びつくのか(あるいはつかないのか)、と言う点に注目していましたんですが、あにはからんや。米澤先生は実にさらっと描いています。その結果はどんなものなのかと言うと、なるほどこれ伝説のオウガバトルじゃないですかでFA。と言うのは冗談ですが、極めて古典的な、古き良き中世ヨーロッパ風異世界ファンタジーです。昔の翻訳ファンタジーにあったような雰囲気。こういうのを自然に(見えるように)書けると言うことは、実は貴方はかなりのファンタジーオタクですね!?と思わずコナンばりのキメ顔で言いたくなったりもしましたが、あとがきを読むにどうやらそのようです。へー。

作中で描かれる世界は、いわゆる中世ヨーロッパをイメージする、理性よりも超自然的な存在が強く信じられる暗く、寒々しく、泥臭い世界です。血と鉄が世界を満たし、神の恩寵を語れども、魔なる法が横行する。そこでは理性は闇を恐れる恐怖の前に打ち砕かれてしまいます。闇に対しては剣を闇雲に振り回すことしか出来ない、まさに人間にとっての暗黒時代。なにしろ理不尽や不条理に対して人間の持つ理性で抵抗しようと思っても、そうした理性を嘲笑うかのように、事実、魔法はそこにあり、不死の兵士もそこにいる。それに対して、人間の理性はあまりにも無力なのだ。しかし、そうした、人間を恐怖に陥れる”未知”に対して、人間の持つ”理知”を武器にして挑むのが放浪の騎士、ファルク。ソロン諸島の領主の娘、アミーナが、彼と出会ったことで、”未知”に対して戦いを挑むことになります。

ただ、”未知”に対して、人間の”理知”の力はあまりにも無力です。繰り返しますが、この世界はまさに暗黒時代。人間の”理知”に対して、世界はあまりにも広大で、あまりにも膨大。理知の力で未知に立ち向かうというのは、ほぼ間違いなく風車に立ち向かうドンキホーテさながらに滑稽で、喜劇的で、そして凄惨でさえあります。そこにあるのは、人間は未知に対して、未知を有する暗黒に対して、無力であるという認識です。ファルクはそのことを極めてよく理解していました。暗黒に対して立ち向かうため、驚くべき客観性と状況把握力を持ち、”真実”に対する独自の考察、それに加えて”未知”に対抗するために、自らも未知そのものとさえいえる魔術に手を染めて、真実を明らかにしようとするファルク自身、それだけでは暗闇のとばぐちを照らすのが精一杯であると言うことを。そう、この物語は「人間の理知が未知に敗北する話」でもあるのです。

自分がこの作品を読んで強く感じるのは、全体を貫く”諦念”です。あまりにも、圧倒的に無力であると言うこと。圧倒的な世界の未知、それを孕む暗闇に対して、人間は必死になって抗ってきました。そのために信仰を生み、物語を語り、伝説を作り出しました。”しかし、それでもなお足りない”。抗う人間を、暗闇はあっという間に包み込み、どこかへ連れ去ってしまう。その事実に対する絶望的な想い。それは探偵役であるファルクが登場をしても衰えることはありません。彼は中世的価値観に支配された人々の中で、ただ一人、近代的理性を体現しています。他の人々が、超自然的な力や神の恩寵として片付けるさまざまな出来事に対して、ファルクはいかなる出来事には因果関係があるという認識をもたらします。それは人間が”未知”だと思っている出来事についても違いはないのだと。ただ、それらが恐ろしいのは因果関係を我々が理解していないだけなのだと言う希望をもたらします。

しかし、それでも人々の認識を変えるまでには至りません。なぜなら、世界を説明する手段としては、人間の理知はあまりにも限定的に過ぎるからです。起った出来事を説明しきることは出来ません。なぜなら人間の認識には限界があるため、あらゆる事象を認識出来ない以上、あらゆる出来事を網羅的に解き明かすことは出来ません。それに、目の前の圧倒的現実(のように見えるもの)の前に、人間の理知で語ることに意味はあるのでしょうか?そんなことを言っている暇があれば剣を振るうしかないのでは?それは確かにその通り。目の前に起っていることを”解明”したところで、不死の兵士がいる世界はそのままです。現実がなくなるわけではないのです。その意味では、ファルクのやっていることにはあまり意味は無いかもしれません。”理性”は”現実”の前には無力なのです(実際、物語はファルクの力では解決が不可能となります)。

けれど、現実は無くならなくても、変えることは出来る。恐怖に震えることしか出来ない状況から、希望を持って闇に立ち向かうことが出来る。分からないことを分からないままにするのではなく、分からないことを理解する。それによってのみ、人間は恐怖に打ち勝つことが出来るかもしれない。ファルクがやろうとしているのは、(結果として)そういうことなのです。ファルク自身が勝てなくても、ファルクの”認識”が世界に残るのであれば、いつかは世界から未知を追放することが出来るかもしれない。

ただ、これもまた理性と言う名の”信仰”の一つであって、唯一の世界認識の手段ではないということは留意しておく必要があります。例えば、ファルクは、最後の最後で、”未知”に対して「敗北をしない」ために、”理知”を手放します。すべてを因果関係によって説明する”理知”が敗北した時、彼が紡いだのは”物語”でした。誰もが受け入れることが可能な、わかりやすい、悪役がいる、物語。それを紡ぐために、最後に頼ったのは”情”。友情であり、愛情である。そんな曖昧で、合理性の無い、情によって、彼は想いを後に繋げることを可能にしました。

人間の理知は無力かもしれません。未知の前には、人間の認識など一瞬で吹き飛ばされる。しかし、人間の理知など、ただの世界認識のツールに過ぎません。人間が世界と対峙するためには、他の色々なものを使ってきました。それは信仰であり、伝説であり、物語でもある。それらもまた人間が未知に対して抵抗してきた武器でもあり、人間はあらゆる手段を用いて未知と戦ってきた証でもあるのです。

この物語は、「人間の理知が未知に敗北する話」だと書きました。人間はどうあっても勝てないと言う認識が支配しているとも書きました。事実、アミーナやファルクが語る言葉は、ほとんどの人には届きません。「聞く耳を持たない相手には何を言っても無駄」だと、何を言っても受け入れてもらえない徒労感ばかりが積み重なっていきます。しかし、それがイコール「人間が敗北する話」となるわけではありません。どう足掻いても勝てない相手に対して、それでも必死になって、なりふりかまわず、泥まみれになりながら、手段を選ばず、ひたすらに抵抗し続ける。人間が負ける時とは、足掻くことをやめた時だけなのです。自分がいつか必ず敗北することが分かっていても、それでも抗うことをやめられない。

これは、そんな諦念と恐怖に抗う人々の物語になっているのだと思います。

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