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2011.04.26

『伏 贋作・里見八犬伝』

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伏 贋作・里見八犬伝』(桜庭一樹/文藝春秋)

こういう題名を見ると、ついメタフィクション的な作品ではないか、と言う先入観を抱いてしまったのだが、微妙にそう言う方向性ではなかった。それでいて事実、印象通りのメタフィクション的な要素もあるのだった。それは単純に踏み込みが浅い、と言う意味ではなく、ただ、メタフィクションと言うものに対する膈意の無さとでも言うべき飄々としたとした佇まいを感じさせる。まるで”物語ること”について、実はさして大したものではない、と言っているかのような。

自分は、メタフィクションと言うか、物語ることによる現実の変容(現実もまた物語られると言うこと)について強迫観念のようにこだわっていて(当然の事ながら神林長平の影響である)、物語られると言うことについて過剰な反応をしてしまうところがあるだけど、桜庭一樹は、かつてはそのようではあり、しかし、今はその業から解き放たれているように思える。まるで物語ることは、そして物語られることとは、『人々を幸せにするためにあるんですよ』、と言っているかのような、楽観さえそこには感じさせられるのだ。ただし、それは”無邪気な能天気”とは全く異なる。むしろ、物語られることはこの上なく残酷な行為であるが、現実はそれよりもさらに残酷であり、そこには物語る力などはいかほどの影響力さえも行使することなど不可能である、と言うような乾いた眼差しさえ感じられる。それは物語が現実に及ばないと言っているかのようであるが、しかし、”それでもなお”物語は現実をほんの少しでも書き換えることに対する”祈り”のようなものも、感じ取れる。

言ってみれば、かつての桜庭一樹から感じたものと、真逆のものが、そこにはあるのかもしれない。あるいは物語られることによる現実の変容に対して、無用な恐れが無くなっていると言うべきか(これが永続的な認識なのか、あるいは今作だけのテーマなのかについては、近年の桜庭一樹作品への読み込みが不足しているので後日としたい)。今作に限った話をさせてもらうと、物語られること以上に現実は無惨である、と言うことが”真作”すなわち南総里見八犬伝との対比で語られている。現実の伏たちはそこまでも残酷な生涯を強いられ、追いやられ、生贄として猟師に狩られ続けていく。彼らには救いはなく、それは伏たち自身がよくわかっている。だが、”贋作”の存在がもう一つの物語ることの可能性を象徴しているように思える。

もちろん”贋作”もまた、物語にすぎない。あるいは事実であり現実であったことも、人づてに伝わって行くにつれ、長い時間が経つにつれ、事実はどんどん遠ざかっていっているし、作者である滝沢馬琴の息子、冥土が書いた時点でそれは事実とはまったく異なったものとなっているだろう。しかし、”贋作”には希望があるのだ。そこに描かれた物語は、”真作”と比べて遥かに無惨で救いのない物語であったが、しかし、”贋作”は伏たちの現実と”接続”することが出来る物語だった。無論、どちらもが物語であり、真実はあるいはどちらもないのかもしれない。ただ、”何を信じるか”と言うこと、それだけが、きっと現実の無惨さを少しでも改変してくれるのかもしれない。

(あるいはさして大きな意味はないのかもしれない。物語が現実にはさして大きな影響をを与えられないのならば。だが、それでも、と問いかけるところに、意味が生じてくることもあろう)

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