『私と悪魔の100の問答 Questions & Answers of Me & Devil in 100』
『私と悪魔の100の問答 Questions & Answers of Me & Devil in 100』(上遠野浩平/講談社)
タイトルからして、主人公と”悪魔”との対話が延々と行われていくのだけど、その対話の内容のほとんどは愚にもつかない内容だ。って断言しちゃうと不愉快な思いをする人もいるけど、そのほとんどは”答えようのない質問”で構成されている。人によって答えも変わるだろうし、そもそもが正解と呼べるものもない。あるいは答えたところで何の益もなさそうな質問ばかり。ただ、そうした内容はともあれ、ひたすらに問いかけ、質問を続けていくこと。問いの上にさらに問いを積み上げていくことには意味がある、はず。そんなようなお話です。
主人公、と言っても良いのかは分からないが、視点は女子高生の紅葉の視点で語られます。親の事業失敗の補填のため、悪魔こと<ハズレくん>と対話を行うことになるわけですが、正直、ごく平凡な彼女にとって、<ハズレくん>の問いかける質問のほとんどは意味不明のものでしかないんですね。あまりにも抽象的に過ぎるその言葉には、彼女は最初は、”わけが分からない”と言う態度しか取れない。なにしろ相手の語ることは意味が分からず、こちらからかけた言葉には相手は答えない。ある意味において、対話者としては最悪な相手です。相手は自分の視点からしか物事を語らず、彼女の視点まで降りてきてくれることはないのです。
そんな対話者に対して、彼女は苛立ちを募らせていくことになります。まあ当然ですよね。そもそも彼女は現実において母親の事業が失敗したことから、マスコミの好奇心の的になっており、非常に苛立っています。なぜ、自分を放っておいてくれないのか、なぜ他者を貶めようとするのか。それが彼女には分からない。分からないことが彼女を苦しめています。その答えを探しているけれども、どこにも答えは見つからない。
つらくて苦しいけれども、なにより”わからない”と言うことに立ちすくむ彼女に、<ハズレくん>は更なる疑問を投げかけます。それは単なる質問のための質問だったり、答えの無い言葉だったり、疑問を増やすだけの内容だったり、はっきり言ってどうでも良いとさえ思う無意味な言葉。何か意味がありそうだけど、でもたいした意味はなさそうな気がしてきます。それどころか、<ハズレくん>は彼女に”答え”を与えることなく”分からないころを増やす”ことさえしているのです。現実の不条理さとあいまって、むかむかしてきた紅葉は湧き上がる怒りのままに(あるいは困惑して)<ハズレくん>に対して”言葉を発していくことになるわけですが、この物語はほぼ全編がそうした対話とも呼べぬ、お互いに言葉を一方的に投げかける内容とも言えるでしょう。
しかし、質問を重ねて疑問を増やしていくことで、そうした疑問に対して、紅葉は、ただ世界のわからなさを受容するのではなく、歯向かうことを覚えていきます。意味の分からない、あるいは答えの出しようも無い質問に対して、とにかく反抗して自分なりの言葉を突きつけていく。その反抗自体が意味不明だったり、回答自体も稚拙であったとしても、ただ受け入れるではなく、理も、利もなくても、立ち向かうことを知ることになります。まあそれにしたって別に意味があるかないかといえば、ないんですがね。戦ったところで本当の事が分かるわけでもないし、勝てるわけでもない。そもそも戦う相手だって見えないんです。そもそも勝負にすらなっていない。
ただ、そのように言葉を投げかけていくにつれて、ごくたまに、言葉が噛み合う瞬間がある。お互いに、噛み合うとは思ってもいなかったような無意味な言葉が、言葉を発した本人の意図するところとは違うところで相手に受け止められることがある。その瞬間、無意味な言葉の羅列は意味を持つものとなり、新しい意味が生まれていく。別に、それによって状況が変わるとかそういうことはないけれども、それはつまり、”価値の創造”であると言えます。それまで無意味と思われていたことが、誰も思いがけないところで突然意味を持つ。それが何かを生み出すということであり、何も分からない世界に対しての反抗そのものでもある、と思えるのです。
結局、二人の対話は最後まで噛み合ってはいませんでした。紅葉は相手を理解したとはとても言えないし(彼女の理解はとても浅い位置に留まっている)、<ハズレくん>はそもそも彼女を理解するつもりもありませんでした。しかし、お互いに前提を履き違えているはずの会話が、最後には、ある意味において”通じ合った”瞬間がある。誤解も不理解もある見当違いのはずの言葉が、なぜか相手の本質を射抜いてしまう時もある。おそらくはそれも”対話”と言うものがもつコミュニケーションの持つ意味の一つであるのでしょう。
理解とは幻想であるかもしれない。けれど、その幻想を抱いた事実には、何の瑕疵も無いはずなのです。
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