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2010.09.30

『B.A.D. 3 繭墨はおとぎ話の結末を知っている』

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B.A.D. 3 繭墨はおとぎ話の結末を知っている』(綾里けいし/ファミ通文庫)を読んだ。

このシリーズは怪異が怪異であるというところが良いところですね。怪異が出てきても、それがどのような”存在”かと言うところが言葉になりにくいところとか。その点、前作は絵を描くという現象がはっきりしていたので大分違う雰囲気はあったけれども。ただ、それも”そういう職能集団”と言う前提があってのことだから、怪異とはまた違う話ではあったのでしょう。などといきなり最初から脱線してしまったが、3巻です。目出度いことです。

内容は、1巻とも2巻とも微妙に方向性が異なる気もしますねえ。1巻にあった『空の境界』的な概念的な方向性とはちょっと違うような……。いや、何が異なるというわけでもないのだけど。バトル要素の無いほうが『空の境界』ぽかったと言うのも変な話ですね。

今回は繭墨はそれほど表には出て来ませんでした。ほとんど傍観していただけでしたね。そんな繭墨に不満な小田桐は、自分に出来る範囲でなんとか事件に関わりたいと行動に移していくわけです。それ自体は、これまでの事件を経て、小田桐自身の本来の資質である熱血でお節介な部分が表層に現れてきたと言う意味で健やかな行為です。一度、自分の価値観をぶっ壊されてしまいましたが、ようやくリハビリが効果を表してきたとも言えます。

ところが、一番危ないのは治りかけ、と言うのは一般常識とも言えますが、まさに小田桐の現状はまさにそれ。まだまだ絶望に対抗する力も足りていないのに、それでも不幸を見過ごせないと行動する小田桐は、まさに絶望を糧とする輩にとっては絶好のカモとなります。裏で物事を最悪の状況に持ち込もうとする人形遣いの存在にも気がつかず、小田桐くんは頑張ります。頑張ってしまいます。そして悉く失敗します。関わった人間のすべてを”小田桐の所為で”不幸にしていくことになってしますのです。

自分にも誰かを助けられる人間だと思いたい。絶望からゆるゆると復帰しつつある小田桐が、そのように思ってしまうのは、ある意味では致し方ないところではないか、とは思います。おそらく、普通であれば、そのようにして誰かを助けながら、心を癒していくことも可能であったでしょうが、今回は完全にタイミングが悪かった。なにしろ、繭墨を破滅させることを、己の人生の暇潰しにしている彼がいるのだから。まーさーにー飛んで火に入る夏の虫。このような結末になるのは、至極当然のことであったでしょう。

繭墨は、わりと彼女にしては、口煩く忠告をしていたと思います。彼女なりに、ですけどね。皮肉と韜晦と露悪に満ちてはいたものの、少なくとも、繭墨は小田桐に”自分の分を弁えること”を伝えてはいた。誰かを救えるなどと言うのは幻想に過ぎず、人は人を救うことは出来ない。おそらく、これは彼女なりの倫理感であったと思いますし、冷酷ではあるけれど、小田桐のために発した言葉であったとは思います。それにしたってスパルタ過ぎますけどね。

繭墨はいささかドライすぎるところがあって、小田桐の決めたことそのものにはほとんど干渉はしない。決めたことによって、傷つき、ふたたび絶望することを含めて、それは小田桐の権利だとでも思っているのかもしれない。一応、命の危険にさらされるギリギリのところでは手を打っているようではあるけれど。教育方針がいささか過激すぎる人物といわざるを得ない(本人はきっと面白ければいいと思っているんだろうな)。

そんなわけで周囲の人間の思惑にはまりまくって傷ついてしまった小田桐は、もう一度、立ち上がることは出来るのか、と言うところが今後の焦点になってくるのでしょう。基本的に、トラウマと言うか、最大の恐怖と言うものは、即座に立ち向かわないと抵抗出来なくなるので、荒療治が必要になりますしね。正直、人生を狂わされ続ける小田桐は、誰かに翻弄されることの理不尽さそのものに立ち向かわなくては、どこにも救いはない。”敵”がいる今この時。実は立ち向かうべき相手がいるという時点で、チャンスでもあるはず。次の巻で大きな動きがないと、彼が生きる芽は難しいが……どうだろうか。

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